パトリツァ・コンタビリタ 二十八
領地に出発する日、旦那様はわたくしを見送りに来てくださいました。
あの病状説明の日以来、わたくしの病室には一切いらっしゃらなかったので、当然見送りもなしだと思っていたわたくしは心底驚きました。
もしかして、旦那様はついにわたくしがただ陥れられただけの被害者で、本当の悪はあのお方だったと気付かれたのでしょうか?
「顔合わせの時に私が言った事を覚えていますか?」
旦那様が唐突に意外な事をお聞きになりました。
「えっと……温かな愛情のある夫婦になりましょう、みたいな?」
全くの不意打ちだったので、わたくしはうろ覚えで間違った答えを言ってしまったかもしれません。
「やはりちゃんと聞いておられませんでしたね。
ああ、大丈夫です。あの時もちゃんと聞いていないのはわかっていたので今さら怒ったりしません」
わたくしは怯えた顔をしていたのでしょうか?
旦那様が苦笑しながら怖がらなくても良いとおっしゃいました。
「私はね、こう言ったんですよ。『お互いに恋愛感情を抱くのは難しいでしょう。
それでも、双方が協力して努力すれば、家族として温かな愛情のある夫婦になることはできるかもしれません』」
「お互いに恋愛感情を抱くのは難しい」
「あなたは私が貴女に恋愛感情を抱いていて、貴女に愛されないまでも家族にしてほしいと懇願したと思い込んでましたが、私もあなたに恋愛感情を抱くのは無理だと思っていたんです。はっきり伝えたつもりでしたが……誤解してるとわかった時点で改めて伝えるべきでしたね。
あなたに対して、妻としての愛情も、家族としての愛情も、抱くことが極めて難しいので、お互い最大限の努力をしましょう、と」
「そんな……」
わたくしは氷の貴公子の心を射止めたのでなかったのですね。
そんなにも最初から疎まれて嫌われているとは思ってもみませんでした。
「私も、最初は歩み寄ろうと頑張ったんですよ。使用人たちにもあなたを侯爵夫人として丁寧に扱うように徹底させましたし、私自身、あなたを極力尊重して接していたつもりです。
でも、そうやってあなたを尊重すれば尊重するほど、あなたは傲慢に振舞い、使用人たちに無体を強いたり、愛人たちと遊び歩くようになりました。
私自身は貴女に愛されたいとは思っていないので構わないのですが、言い寄られる使用人にとっては良い迷惑でした。それに貴女の不品行は当家の名を貶めるので、本当に困りました。
挙句の果てにトリオに……一歳になるかならぬかの幼い我が子に平気で手を上げる。
私はね、そんな貴女と家族でいる事にもすっかり疲れてしまったのですよ」
「そんな……おっしゃっていただければ……」
「何度もたしなめましたよね? あまり頻繁に男性と外出するのはいかがなものかと。使用人とは適切な距離を持って接し、決して気まぐれで無体を強いてはいけないと。結婚した以上、配偶者以外と肉体関係を持つのは不貞であるとまで。
そのたびにあなたは泣きわめいて、暴れて誤魔化すだけでしたが」
「……」
「まあいい。貴女がまともに結婚できなくて、コンタビリタ家の権威が堕ちると、王党派の勢力が衰え教会派がやりたい放題になりますからね。仕方なく私が引き受ける羽目になったんですよ。嫌々引き受けた結婚だったので、お互いに愛情を持てなかったのは貴女だけの責任ではありません」
わたくしの結婚がそんな理由で結ばれたご縁だったとは、まったく思ってもみませんでした。
わたくしは夜会やパーティーでいつも男性たちに囲まれて、もてはやされておりました。ですから、誰もがわたくしとの結婚を熱望していて当然だと思っていたのです。
「わたくし嫌われ者でしたのね……」
「大丈夫、そんなことはありません。ただ単に、どうでも良かっただけです。わざわざ嫌っていた人はほとんどいないと思いますよ」
誰にとってもどうでも良い存在。
それはただ嫌われるよりはるかに惨めで情けのうございますね。視界がじんわりと滲んで、鼻の奥がツンと痛くなって参りました。
「おや、貴女が泣くんですか?いま、このタイミングで。……貴女に無体を強いられたフットマン、気まぐれで叩かれたメイドたち……そして貴女に性的な奉仕を強いられた幼い子供たち、みんな泣きたかったでしょうにね。
そして私の大切な人はもう、泣くこともできませんよ」
旦那様は面白がるような、嘲るような口調でおっしゃると、わたくしの手をとって馬車へと導きます。そしてわたくしが馬車に乗って扉を閉めると、今まで見たこともないような満面の笑みでおっしゃいました。
「さようなら、パトリツァ。最期に一度くらいは私の役に立ってくださいね?」
意味がわからず首を傾げておりますと、馬車はすぐに出発してしまいました。
しばらくして人気のない寂しい森の中、がくんと大きく揺れたかと思うと、馬車が停車しました。
「いったいどういう事です!?」
思わず御者を叱責いたしますと、
「申し訳ありません。急に樹が倒れてまいりまして。すぐにどかしてきます」
と返事があってそのまま人の気配が消えてしまいました。
ほどなくしてどやどやと馬車を取り囲む人の気配。何やら殺気立っていて、わたくしを助けに来たようには感じられません。
一人でどうすることもできずに怯えておりますと、乱暴に扉がこじ開けられ、外に引きずり出されました。
「こいつか、タシトゥルヌ侯爵夫人とやらは」
「アンタの旦那のせいで俺たちは大打撃だ。お前もコソコソ嗅ぎまわっていたんだろう」
「たっぷりお礼をしてやるぞ」
殺気立った人々はわたくしを口々に罵ります。そんな事はしらない、わからないと言いたいのですが、あまりの恐怖に喉が引きつって声が出ません。
そして訳が分からないまま、痛くないところがどこにもないくらいにめちゃくちゃに殴られ蹴られ、踏みつぶされ、切り刻まれ……次第に痛みを感じる事もなくなりました。
もう何も見えず、何も聞こえることもありません。ああ、身体が重くて冷たくて……だんだんいたくなくなってまいりました……
わたくしなにもわるくないのに……なぜこんな……
その日、イリュリア郊外の森の中で侯爵家の馬車が襲われた。乗っていたのは領地へ療養に向かう途中のタシトゥルヌ侯爵夫人だったらしい。
その翌日、いくつかの男爵家と準男爵家が取り潰しになり、何人かが行方不明になったという噂が流れた。不思議なことに、とある教会によく出入りしていた家の者ばかりだったらしい。
後日、森の中から何か動物の肉片らしきものと粉々になった骨のかけらが大量に散らばっているのが発見されたが、珍しくもない事から真相を気にする者は誰もいなかった。