柴犬問答・1
柴犬と見つめ合う。かわいい。猫も好きだがどちらかというと犬派だ。その犬の中でも柴犬は私が最も愛する犬種である。彼らはその愛らしさによって数多の戦争の勃発を未然に防ぎ、世界の抑止力として今日もどこかで尻尾をふりふりしている。かわいい。
そんな神がかった愛らしさをもつ柴犬が自らを神と名乗るのだ。そこに疑いを挟む余地などあるはずもない。私は即座に平伏した。五体投地である。
「神様、今までの無礼をお赦し下さい」
「ええ……疑ったりしないの? せめて状況説明を求めたりしろよ……」
神様、どん引きである。ああそんな御無体な、距離を取らないでください。
とはいえ柴様を困らせるのは本意ではない。柴様の前では最早些事ではあるが礼儀として一応尋ねる形は取っておかねば。
「ではお尋ねします、貴方は神様なのですね?」
「うむ」
「承知しました。それでは撫でさせていただいても?」
「いやいやいや」
おかしい。さらに数歩分、じりじりと後退りされてしまった。
「冗談です、すみません。久しぶりに柴犬と触れ合えたので少し興奮してしまいました。なのでどうか犬歯をちらつかせないでください」
「はぁ……まあいい、それで? 状況は理解しているか?」
「見たことの無い街、痛まない腹、コミュニケーションに耐えうるメンタル。そして以前神様の仰ったお前は死んだという言葉。ーーこの死んでしまったという点だけ今ひとつ実感がないのですが……神様が仰るのです、まあ死んでしまったのでしょう。以上のことから考えられることは……異世界転生、という奴ですか?」
そんな馬鹿なことがあるか、と思わない訳では無い。だが改めて事実を並べてみるとやはりそうなのか? と考えざるを得ない。実はこれ、夢でした! 残念! と声がかかることも無い。そもそもそんなフランクに声をかけてくれるような友人などいない。
「話が早くて助かる。お前の言う通りお前は一度死に、この世界に転生した。転生とはいえ見た目や体格、年齢などは変わってないので感覚的には転移に近いのかもしれんな」
まだこちらを少し警戒しつつも犬歯を覗かせることはやめてくれた。助かる。
それにしてもやはり異世界転生か……まさか私がそんな冗談みたいなことの当事者になるとは。人生わからないものだ。いやこの場合終生なのか?
「その、私が死んだということについてもう少し詳しく説明していただけませんか」
一番気になっていることを訊ねる。私は如何にしてその儚い生涯を終えてしまったのか。
「いや、それは……うーん……聞きたい?」
「はい、是非」
「ーーーーーーだ」
「はい?」
神様は急に小さな声で歯切れが悪くなり、ボソボソとしてよく聴こえない。
ややあって、誤魔化し切れないとわかったのか、はぁ、と小さくため息をこぼすと諦めたように眉を下げながら(かわいい)神様は続ける。
「あの日、馬鹿みたいに気温が高かっただろう?」
「そうー…ですね確かに家の中なのに汗が止まらなかった気がします」
腹が絶望的に弱い私は当然冷房も苦手なので扇風機を使っていた。その扇風機も長年の使用でガタがきたのかここ数年は動いたり動かなかったり調子が悪かった。そんな折の猛暑。窓を全開にしてなんとか凌いでいたがあの日は特に辛かった記憶がある。
「その暑さでお前はほぼ熱中症。さらに突然例の腹痛に見舞われた。それもドギツイやつにな」
おぼろげだった記憶が徐々に形を取り戻してくる。
「で、お前は便所。脱水症状気味な所にさらに下痢。そこで命も流れ出してしまったんだろうなぁ……そのまま気を失って頭から倒れた。で、頻繁に訪ねてくるよう友人がいるはずもないお前は救助されることなく哀れその生涯を終えることとなってしまいました、という訳だな」
「………………」
膝から崩れ落ちた。私の死因は下痢であった。こんな死因が許されていいのか? 否。断じて否である。世界とはここまで残酷なのか。私は静かに涙を流した。しかし泣いてばかりもいられない。一つの嫌な予感がよぎったからだ。覚悟を決め顔を上げる。
「あの、神様。……その状態で死んでしまったということは……その、身体の方は……」
「………………下半身丸出しだ」
なーるほど、死の身そのままこちらの世界に飛ばされたという訳か。道理で下半身丸出しで収監されたりしてたのね、はいはい理解した。完全に理解した。
私は泣いた。辛うじて上げていた顔は今や地に伏せている。遠足の班分けで余ったときよりも泣いた。風呂場で粗相したときよりも泣いた。
裏路地に、私の慟哭が響き渡った。