回想と邂逅
私は引きこもりである。仕事はまだ無い。
両親は私が幼い頃に事故が原因で他界している。当時の私はまだものの分別もつかないおしめ垂れ乳児だったので、両親については、こういったら何だがどこか他人ごとというか喪失感を覚える程の関係性を築く間も無かったというか。勿論私を産んでくれたことには感謝している。
両親が他界したのち、私は叔父叔母の手に預けられ高校進学を機に一人暮らしを始めた。幼い頃から両親を喪くした私を不憫に思ったのか何かとつけて激甘だった彼らは、常に私を気遣ってくれた。家賃の負担は気にするなと笑いながら背を叩いてくれた。体質についても本気で医者を探してくれた。私が高校を辞める決意を話したときも「よく考えたうえで決めたことなら好きにするといい」と特に反対することもなく了承してくれた。軽く思い返すだけでも本当に頭が上がらない。そんな聖人達の脛をかじり倒す私こそまさしく寄生虫であり諸悪の根源である。
○○○
私の眼前に広がる街並み。
高校時代からストイックに引きこもりの研鑽を重ね続け、今や引き聖の称号も近いかと囁かれていた私だ。自分の住む街のことでさえ自宅周辺以外は未知の領域。玄関に立つだけで足が震えだす。なぁに、こいつァ武者震いでい! と私の中の江戸っ子も騒ぎ出す。そんな私が他所の街並みを識るはずがない。ーーないのだが。
どこか既視感がある。と同時に感じる違和感。
どこが、という訳ではないのだが収まりの悪さというのだろうか。街全体にもやもやとした気持ち悪さがある。
まぁ大方また腹でも痛くなってきたのだろう。
ーーいや、痛くない。
あんな濃密ストレスフルタイムを過ごしたにも関わらず私の虚弱ぽんぽんが悲鳴を上げていない。普段の私ならストレスセンサーに獲物が引っかかろうものならダム崩壊待った無しであるはず。
そういえばーー
つい今し方私が収監されていた建物を振り返る。
私はおっさんと普通に会話していなかったか?
おかしい。屈強なホームガーディアンとしての力を得る代償として、私は他人とのコミュニケーション能力を失っているはずだ。その大きな代償と引き換えに私は何人たりとも侵すことのできない安心安全絶対守護領域の玉座を手に入れたのだから。例外として怪しい宗教の勧誘やら、やたら煮物を食べさせたがる隣人のおばちゃんなどは居たがそれらは超越者なのでこの際考慮しない。
腹痛に見舞われることなく、他者とのコミュニケーションも問題ない。そしてこの街並み。
今日一日のことーーどれだけ時間が経過しているのかは判然としないが。トイレで気を失ってからのことをよく思い返してみる。走馬燈のように記憶が巡る。そこから導き出されるもの。
スゥ、と深く息を吸い込む。
「神様ァ! お客様の中に神様はいらっしゃいませんかぁ!!」
ーー先程私を送り出したおっさんが血相を変えて飛び出してきた。怖かったので全速力で逃げた。その際私のとった陸上選手ばりの美しいフォームは力強さの中に繊細さを感じさせ、人々はまるで海が割れるように、静かに道を開けた。
やばい奴と関わりたく無いなんてことはなく私の身体から滲み出る気品に圧されて思わず、といった様子が見て取れた。
この辺りなら大丈夫だろうと、辺りをきょろきょろ見回してから街の外れの裏路地へと入る。街中で突然大きな声を上げ走り去り、人目を憚り裏路地に消えるなど普通の人間からすれば不審者役満ハッピーセットだが、私の気品がそれを許さない。洗練された所作というものはそれだけで人を黙らせる説得力があるものだ。久々に走ったせいで身体が追い付かず路地裏でぶっ倒れ荒い息を吐いていたとしてもだ。
少し落ち着いてから再び心の中で呼びかけてみる。
「神様、神様。見ておられるのでしょう。私の推測が正しいなら神様には随分無礼を働いてしまいました。どうかお許し下さい。そしてどうかお声をお聞かせください」
目を閉じ手を合わせて祈りながら呼びかけてみる。応答はない。だめか……。
諦め天を仰ぐ。……視界の端になにやら動くものがる。
路地の奥、蓋の開いた木箱から動物の足らしきものが飛び出しバタバタしている。どこぞの有名ホラーミステリーのようで笑ってしまった。このまま見過ごすのも可哀想なので手を貸してやることにする。ばたつく足を持ち引っ張り上げる。
紫犬だった。
訳がわからない。中世ヨーロッパ的街並みに紫犬はどう考えてもおかしい。一般常識の欠如している私でもそれくらいは分かる。
足を持ち上げ逆さのままの紫犬と見つめ合う。
犬が吠え出したので慌てて降ろしてやる。ぐるると少し不満げな声を上げながらも紫犬は私の顔を見つめその場を離れようとしない。なんだろうと思い様子を伺っているとまた吠え始めた。警戒されてしまったのだろうか。大丈夫、ぼく わるい ひきこもりじゃ ないよ
悲しいことに世間の共通認識としての引きこもりは悪とみなされがちである。長年ネット掲示板で引きこもりの地位向上運動を進めてきた私だが、大概ぐぅの音も出ない正論でボコボコに叩かれて泣きながらふて寝していた。引きこもりの夜明けは遠い。
私が遠い目をしている間も柴犬は吠えている。怒っているのか? 怖いので犬歯を剥き出しにしないでほしい。家の中では圧倒的戦闘力を誇る私でも屋外はまずい。引きこもりが犬に勝てる見込みはゼロである。なんなら園児にも負ける。神様、助けてください。柴犬に殺されてしまいます。
「ワウワウ、ワァワ、わー…わふん。私が神だ」
…………神が降臨した。