四章 荷運び・メイナード 後編
食事。
忘れていた吐き気が帰って来る。ライラ。大人しくて可愛らしい、ライラ。
魔物の死体は、幾つも見てきた。だけど、メイナードは慣れることは無かった。この辺りも、冒険者には向いていないな、とメイナードが諦めるのを手助けしてくれていた。ライラ。ライラの、く、び……。
我知らず、呼吸が荒くなる。やめろ、やめろ。落ち着け。必死に言い聞かせるけれど、止まらない。何かを燃やしている臭いがするのだ。魔物が、おそらく、近くにいる。危険なのだ。危険、なのだと思うと、その恐怖心も相まって、ますます呼吸が荒くなる。う、ぇぇ、とその場でしゃがんで小さく呻く。
吐きたい。吐いてしまえば、この恐怖心も何処かに行ってくれるんじゃないかと思えた。ぼたぼたと地面に染みが出来た。泣いているのか。ライラ。ルルー。亡き人を惜しんでいるのか、恐ろしいだけなのか、まるで分からないのが悲しかった。自暴自棄になって、大声を上げて喚き散らせない小心さが、救いだった。
壁に手を着いて、何とか立ち上がる。1歩、2歩、歩く。進む。涙と一緒に鼻水まで垂れて来たけれど、啜る音が響いてしまいそうだから、袖で拭ってそのままにしておく。酷い顔だろう。でも、メイナードはまだ生きている。
惨めでも、見苦しくても、帰りたいのだ。歩く。分かれ道が近づいて来る。屈んで、道の先を伺う。右から。ぼんやりと明るい。駄目だ。小さく、左の道に続く矢印を刻む。這うように頭を低くして、左の道に進む。
焦るな。慌てるな。あぁ、吐きそうだ。唾を飲み込む。唇を舐めたら、涙だか鼻水だかでしょっぱかった。進め。進め。進め。臭いは遠くなったか。分からない。
るぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……!
唐突に。
背後から魔物の叫び声が上がって、メイナードは仰天して飛び上がった。そのまま、立ち上がって走り出す。振り返れない。恐ろしくて。魔物の叫び声は、るぉぉぉぉ、るぉぉぉぉ、と連鎖している。見つかった? メイナードごときを見つけた程度で、こんな騒ぎになるのか? 分からない。
両手を振り回すみたいにして走る。走る。魔物達の声は反響して、遠くなり、近くなる。るぉぉぉぉ、るぉぉぉぉ。メイナードごときと思うけれど、魔物達に、ルルーとメイナードの違いなど分かるまい。ここは、おそらくまだ最深部だ。最深部に人間がいる。それは、魔物達にとって許し難い事だろうか。そうかもしれない。
分かれ道に矢印を刻む暇などあるはずもなく。走る。ぐねぐねとした道を、転ばない程度に。壁に激突しない程度に。走る。不意に、曲道の先から魔物が現れるのではないかと不安になる。不安だらけだ。不安と言うものは、こんなに不安に不安を重ねることが出来るものなのか。圧し潰されてしまいそうだ。
潰されて動けなくなる前に放り投げてしまいたい。投げ出してしまってもいいだろうか。あと少し、あのカーブを曲がり切ったら怯えるのをやめてしまおう。そうしよう。それがいい。着いた。カーブを曲がって、曲がった!
途端にメイナードは壁に手をついて、ゆるゆると歩く。
辺りは薄暗くて、湿った苔と土の臭いだけがしている。
魔物の声は遠く、近く、聞こえる。聞こえる、だけだ。
何も見当たらない。武器を持ってメイナードを追いかけてくる魔物なんていない。メイナードごとき。そうだ。そうに、違いない。止まりかけていた、涙がまた溢れた。
こんな無力で、惨めで、戦う気概を持てないメイナードごときが、ルルーの仲間になれるものか。
分かっていたさ、と口のなかで小さく呟く。
分かっていたさ。メイナードの人生で、一番素晴らしい時期は、もう終わってしまったのだ。ルルー。南の勇者。彼女のパーティで、荷運びごときとはいえ、彼女のパーティで役立っていることは、メイナードの誇りだった。過去形だ。だった、のだ。
もう、お金を貯めて武器を買って訓練したって、ルルーの仲間にはなることは出来ない。永遠に。その機会は失われてしまった。
地上に帰ったら。少し休もう。その程度の貯金はある。メリッサと2人でのんびり過ごそう。弁当を作ってピクニックに行くのも良い。簡単な読み書きを、メリッサに教えてあげるのも良い。失われてしまったものより、これから先に有り得る、美しい、穏やかな未来に思いを馳せよう。だって、もうメイナードには、それしかないのだから。
よろよろと、頼りない足取りではある。けれど、けして足を止めはしない。歩かなくては、地上には帰れない。
メイナードの忍耐強さは、ほんの少しだけ、報われたようだった。偉大なるエクサ・ピーコよ。我らの創造主にして魔王よ。
上層階に続く階段が、メイナードの眼前に現れつつあった。
か、階段……!?
歓喜の声を上げそうになって、メイナードは両手で自分の口元を抑える。落ち着け。落ち着け。階段には、普段だって魔物が座り込んで休憩したり、見張っていたりすることが多い。ましてや今は、魔物達にとって、人間たちに最下層まで踏み込まれた非常事態なのだ。たぶん。だとしたら、1つの階層に大抵1つしかない階段で、待ち構えていたっておかしくない。
また、しゃがみ込んで、そっと壁の影から階段付近を覗き込む。いる。二足歩行する犬のような、魔物。鎖帷子や、冒険者から得たのか、半分錆びたような短い鎚で武装している。コボルト、と呼ばれる魔物だ。1匹しかいないとはいえ、彼等は動きが素早くて、声が大きい。警戒役にはぴったりな魔物だ。
え……終わり? ここで、にっちもさっちも行かなくなってメイナードはおしまいなのか?
ちょっと泣きそう、というか、本当に泣けてきた。お疲れ様でした? そんな馬鹿な。ここまで来たのに。あるいは、まだ、ここまでしか来ていないのに?
諦めるな、と、けれどどうやって? が頭の中で響き合う。がんがんと。頭痛がしそうだ。一か八かで、コボルトの横を駆け抜けてみるか? 否。それは、ただの無謀だ。第一、コボルトのあの大声で仲間を呼ばれてしまったら、そこで終わる。コボルトに見つからずに、前を通り過ぎなくては。どうやって? エクサ・ピーコに祈れば透明人間にでもなれるというのか。馬鹿な。
落ち着け。
泣くな。怒るな。祈るな――それらは全て無駄だ。少し、待とう。もしかしたら、待てば、あのコボルトが何処かに移動するかもしれない。わずかな希望に縋るようにして、メイナードは息をひそめた。