三章 弓使い・エメリーン 後編
パトリックの下からライラが引きずり出され、今まさに首を落とされようとしていた。ハワードは仰向けに倒れて、オークに頭を踏みつけられても微動だにしない。まだ幼いくらいの、トリスタンの肉は柔らかい事だろう。オーク達が、トリスタンの手足を引きちぎり、貪っている。そして、あぁ、あぁ……!
――兄さま……!
エイブラムの金属鎧を砕いて、オークの槍が、エイブラムの胸元に突き立てられた。離れたところから、小鬼達が矢を放つ。やめて。やめて。やめて! 兄さま、あぁ、兄さま……!
それでも、エメリーンの足は止まらない。一瞬、仲間達が全滅する様を眺めて、そうして、駆けて行く。1人で逃げて行く。
だって、ルクレイシアが死んだの。
だって、冒険者なんてやめたかったの。
だって。
だって……!
ルクレイシアが死んだ。いい気味。あの偽善者。兄さまを誑かす、魔女が死んだ。それも、オークと心中するみたいな形で。最悪。いい気味。
エメリーンは、左手で口元を抑えて、迷宮をただ進む。笑んだ口元を手で隠して、声を殺して、進む。
その両目から、とめどなく涙が溢れていることに、まだ、エメリーンは気付いていなかった。
――エメリーン!
行けと、言われた気がした。けれど、けれど本当にそうだった? 兄さまはどうして私の名前を呼んだの? もしかして。もしかして……。
支援を、と。
そういう意味で、私を呼んだのでは……?
考えてはいけない。
考えてはいけない。
エメリーンが考えていい事は、そう。ルクレイシア。ルクレイシアが死んだ。いい気味。あの偽善者。兄さまを誑かす、魔女が死んだ。それも、オークと心中するみたいな形で。最悪。いい気味。
エメリーンは、左手で口元を抑えて、迷宮をただ進む。笑んだ口元を手で隠して、声を殺して、進む。
大嫌いだった。ルクレイシア。大嫌いだったのだ。誰もが彼女の事を、ルルーと呼んで慕ったけれど、エメリーンは、エメリーンだけは、決してその愛称を口にすることは無かった。口にしたら負けだと思っていた。あの真面目で堅実で聡明で強くて、世界で一番素敵な兄さまが、ルクレイシアの事を、ルルー、と呼ぶ声が大嫌いだった。
その声ときたら!
まるで、普通の青年の声なのだ。
まるで、エメリーンの兄さまではないみたいな、声なのだ。
大嫌い。ルクレイシア。兄さまをただの青年にしてしまうお前が、大嫌い。
ルクレイシアとエメリーンが出会ったのは、4年前の冬の日のことだった。父さまが処刑されて、住んでいた屋敷を追われて、下町の、惨めで汚らしい日貸しの宿に家族3人で身を寄せていた頃だった。
屋敷から金貨を持ち出すことは叶わなかったけれど、屋敷から追われる時に、母さまやエメリーンが着ているドレスを脱げと言う程、官吏たちは非道ではなかった。
エイブラムは、呆然としている母さまと、何が起こったか理解できていなかったエメリーンの手を引いて、教会に併設された質屋に連れて行って、2人のドレスと自身の上着を担保に、すぐに少なくない現金と替えの服を手に入れて、宿を確保してくださった。
それでも、国の要職に就いていた父さまのお陰で、エメリーンは貴族もかくやという暮らしをしていたのだ。絹ではなくて、毛織物で出来た服はごわごわして肌が痛んだし、何より、隙間風の吹く宿は、寒くて寒くて仕方が無かった。14歳。そろそろ何処かに嫁いでもおかしくない年頃だったけれど、だからこそ、エメリーンはまだ何も出来ない子供だったのだ。
――母さま、母さま。寒いわ。
――エメリーン、レディたれ、よ。レディたるもの、何が起こっても、背の君とエクサ・ピーコを信じて、優雅に、微笑んでいなくては……。
でも父さまは――それを母さまの前で口にしてはいけないことは、子供のエメリーンにも分かった。よく、分かっていた。だから、エメリーンは、膝の上で両手を組んで、不器用に微笑むことしか出来なかったのだ。
エイブラムは、朝の早くから宵の口まで、外を走り回っているようで、宿にはエメリーンと母さまの2人きりだった。食事は、朝と晩の1日2回。それも、以前のエメリーンには考えられないような、粗末なスープと堅いパンばかり。母さまが仰ることは、レディたれ。そればかり。
あまりにも辛い記憶だからか、エメリーンは、その宿に結局何日いたのか覚えていない。
ただ、エメリーンには途方もない長い日々だった。その日々の果て、ある日の晩。母さまが眠って、エメリーンもうつらうつらしていた時間に、兄さまが両手で顔を覆って泣いていらっしゃった。
――兄さま、どうなさったの……?
何か恐ろしいことが――今以上に悪いことだなんて、エメリーンには想像も出来なかったけれど――起こるのでは無いかと、エメリーンは恐る恐る、小さな声でエイブラムに問いかけた。
エイブラムは、まさかエメリーンがまだ起きているとは思わなかったのだろう。はっ、と息を呑んで、不器用に微笑んだ。
――何でもないよ、エメリーン。わたしの可愛いエメリーン。起こして済まないね。
エイブラムの浮かべている表情は、エメリーンの微笑みと、そっくりだった。嘘ばっかりの、けれど、微笑むことしか出来ないから、微笑んでいる、その、顔。
――うそ。
エメリーンが短く糾弾すると、エイブラムは一瞬、途方に暮れたように視線を彷徨わせてから、仕方なく、と言った風に教えてくれた。エメリーンを落ち着かせるように、エメリーンの髪を撫でながら、エイブラムは言った。
――父上の剣が、家宝の剣、クレピュスキュールが、売りに出されるそうだ。
――売りに……? 騎士の誇りを、売りに……!?
エメリーンが引きつった声を上げかけると、静かに、と言わんばかりにエイブラムはエメリーンの唇に指を当てた。そうね、母さままで起きてしまう。でも、何てこと。何てこと! エメリーンも、口惜しさに涙が零れた。叔父さま、お恨み申し上げます。既に亡き人ではあるけれど。それでも。それでも!
その数日後、家宝の剣、クレピュスキュールが売りに出されるその日に、エイブラムと、どうかどうかと説き伏せて、エメリーンも、競りの会場に連れて行って貰った。母さまには言えなかった。
そうして、クレピュスキュールを易々と競り落としたのは、黒い髪の、エイブラムとそう年が違うとは思えないような少女だった。