三章 弓使い・エメリーン 前編
ルクレイシアが死んだ。いい気味。あの偽善者。兄さまを誑かす、魔女が死んだ。それも、オークと心中するみたいな形で。最悪。いい気味。
あぁ、ダメ。こんなことを考えては。レディたれ。何度も母さまに諫められた。エメリーンだって、汚い言葉は口にしないように気を付けてはいる。だけど、こんなに良い事が起こったのに、考えずにいられる?
エメリーンは、左手で口元を抑えて、迷宮をただ進む。笑んだ口元を手で隠して、声を殺して、進む。
ルクレイシアが死んだ。あの南の勇者が。迷宮の、最奥で!
見上げるような高さから、オークに抱き着かれて、ルクレイシアは墜ちて来た。そのまま頭を地面に叩きつけられて、死んだ。エメリーンは、歓声を堪えるのに必死だった。ルクレイシアが死んだ!
――ルクレイシアは、死んだ!
そう、叫んだのは誰だっただろう。分からない。誰でも構わない。ありがとう、私の代わりに、そう言ってくれて。
さぁ、兄さま、聞こえたでしょう? ルクレイシアは死んだの。冒険者なんて、もうやめましょう? もう貯金も貯まったわ。母さまと、兄さまと、私で、慎ましく暮らしていくには、十分すぎるお金が。だから、もういいでしょう?
昔、叔父さまの働いた不正を防げなかった咎で、父さまが処刑されて、暮らしていくのに困っていた私達を援助したあの偽善者は死んだの。もういいでしょう? 何日もお風呂に入れない冒険者暮らしなんて、もう、うんざりだわ。
――兄さま……!
なのに兄さま、どうして戦っていらっしゃるの? どうして? 迷宮の最深部であった広間にいくつもいくつも空いていた横穴から、小柄な小鬼が矢を射かけてくるのに。屈強なオークが、岩や、鉄球を投げ落としてくるのに。低い位置にある横穴からは、武装したオークが飛び降りてきて、今やエメリーン達は囲まれてしまっているのに。
逃げなくては。地上に帰らなくては。ルクレイシアは死んだのだから、もういいでしょう?
エメリーンは、短弓で手近にいたオークを射抜く。兜の隙間。左目を。そのオークはのけぞって倒れたけれど、別のオークに短弓を取り上げられそうになって、エメリーンは悲鳴を上げて抵抗する。
兄さま、兄さま、私を助けて! 貴方の妹の、エメリーンを!
口に出して言いはしなかったけれど、兄さまには伝わった。エイブラムはエメリーンに駆け寄って来て、オークの首元を刺突剣で易々と貫いた。
十重二十重に、とは言わずとも、すでにエメリーン達は、二重くらいにはオーク達に囲まれていた。たった1つの出入り口は、特に厳重に塞がれている。
――兄さま……!
――仇を討つぞ、エメリーン。
エイブラムに硬い声で言われて、エメリーンは目を瞬かせた。
仇? 誰の? まさか、ルクレイシアの? ご冗談はおよしになって。だって一体、何の為に?
――1匹でも多く、道連れにする。
道連れに? 違うでしょう、兄さま。ルクレイシアは死んだの。私達は、何としてでも地上に帰らなくては。だって、母さまが待っていらっしゃるのに。だって、私達の新しい人生がこれから始まるのに。
なのに、まるで、兄さまもここで死んでしまうような言い方は、およしになって……?
エイブラムは鬨の声を上げて、オーク達に斬りかかって行く。戦士のパトリックも、エイブラムに続いた。支援組、などと言っている場合ではないと理解したのか、刀鍛冶のザカリーも予備の武器を抜き、偵察役のピーターも短剣を構えた。
魔術師のハワードが、エイブラムやパトリックを火矢の魔術で支援し、神官のライラが、降り注ぐように射かけられる弓矢を防ぐための、光り輝く防御壁を展開した。何人かは既に死に絶え、あるいは、今まさに息絶えようとしていて、何人かは奇跡的にオークの壁を突破して広間から逃げ出したようだった。
エメリーンは、魔術師のハワードと背中合わせになる形で、短弓を構える。オークを射る。射る。オークは屈強だけれど、でも、目から脳を射抜かれて助かるわけがない。
いくらうんざりしていようと、あるいは、うんざりするくらい長い間、エメリーンとて、南の勇者とまで讃えられたルクレイシアと共に迷宮を探索してきたのだ。オークを射殺すくらい、目を閉じていても出来る。
奇策で勇者を殺害し、数に頼んで冒険者を包囲していたはずのオーク達が怯んでいくのを感じる。それはそうだろう。エメリーン達は死兵だ。死を恐れる者は、既に逃げ、あるいは既に死んだ。ここに残っているのは、ただ、オークを、小鬼を、殺すことに慣れ切った冒険者達。
いくら岩や鉄球や弓矢が降って来ようが、ライラが防いでくれる。冒険者は、自然と円陣を組むような形で魔物に対峙していた。エイブラムやパトリックが、近付いて来るオークを切り払い、エメリーンやハワードが遠距離攻撃で着実に敵の数を減らしていく。
魔物達にとっては、ここまで激しい抵抗にあうのは予想外だったことだろう。何より、奴らには余裕があった。この冒険者たちも終わりだと。冗談ではない。エメリーン達は、南の勇者一行。お前達など、恐るるに足らず。このまま、全て――
――あぁっ……!
防御壁を維持しきれなくなったのか、ライラがか細い悲鳴を上げた。高い、硝子が数十枚同時に割れたような、高い音が響く。そこを狙って、ライラに鉄球が投げ落とされた。ライラを庇うように、パトリックがライラに覆いかぶさる。パトリックが金属の鎧を着ているからって、無事だろうか……? ライラは治療のための祝詞を唱えている。だけど。
――ここまでか。
妙に落ち着いた声で、魔術師のハワードが呟いた。再び勢い付いて襲い掛かって来たオークを、エメリーンは短弓を連射して追い払う。
――何を言っているの!
つい、ヒステリックな声が出てしまい、エメリーンは、いけない、と自身を諫める。レディたれ。ハワードは、エメリーンの背後で、どうやら笑ったようだった。
――僕はさ、君の隠しているつもりでバレバレな、性悪なところがけっこう好きだったよ。エメリーン。これで僕も打ち止めだ。行きなよ。君だけでも……君だけで。
そしてハワードは口早に呪文を唱える。おそらく、禁術と呼ばれる類の――自身の命を引き換えに発動させる、魔術を起動させた。彼の魔術師の杖から、うねる巨大な炎の束が現れ、まるで龍みたいにオーク達に食らいついた。広間の入り口。入り口から、一瞬、オークや小鬼の姿が消える。
――エメリーン!
エイブラムに名を呼ばれて、背中を押されたような気分でエメリーンは駆け出す。行ける。今なら。私なら。身軽な、私、だけなら……!
通路にも、何とか生き延びたオークが2匹だけ待ち構えていたけれど、ハワードの魔術で完全に腰が引けていた。2射。狙いたがわず命中させた。オークの死体を踏み越えるようにして、エメリーンは進む。ハワードの魔術で焼かれた空気が熱い。息を吸うだけで、肺まで痛む。苔の燃えた、焦げ臭いにおいがした。
苔だけではない。オークも、小鬼も、そして、倒れていた冒険者も、全部ぜんぶ焼いて、龍は進み、消えた。ハワード……?
振り返ってはいけない。いけないと、分かっているのに……。