二章 戦士・パトリック 前編
死んだ。と思った。だけど、どうやらパトリックは死に損なったらしい。
うっすらと、目を開ける。天上の花畑でも見えたなら良かったのに。ただ、目に血だか汗だか泥だかが入って、染みた。涙が、零れた。涙が零れたのは、単純に何かが目に染みただけでもなかった。
死んでいる。
あの美しい南の勇者、ルクレイシアが眠る様に斃れている。あの敬虔な神官のライラの死体には、首が無かった。サブリーダーのエイブラムは、最期まで戦ったのだろう。壁際で、身体に何本もの弓と槍が突き刺さったまま死んでいた。
今回の迷宮探索に当たって、初めて迷宮入りしたばかりの若きトリスタンの手足は、引きちぎられて、魔物達に齧られたのだろう、肉が削げて骨が見えていた。
死んだのは、もちろん冒険者だけではない。前衛組の武具の手入れを主な仕事としていた刀鍛冶のザカリーも、荷運び兼料理人のオーガストも、偵察役のピーターも。あぁ、みんな、みんな死んでいる!
何人かは見当たらないけれど、神官のライラを喪ったパトリックに残された光源は、迷宮の壁に生えている苔の弱々しい緑色の光だけだ。第一、広間には人間と魔物の手だの足だの胴体だのが散乱していて、いったい何人死んで、何人生き残ったのか定かではない。
あぁ。
あぁぁ。
冒険者として生きて行く以上、覚悟をしていなければいけなかったのかもしれない。魔物達を殺して、殺して、生活の糧を得ていたのだ。いつか、自分が殺される側に回っても、おかしくは無かった。その時が、ついに来てしまったのだ。
頭の何処かでは理解している。だけど、涙は止まらない。うめき声を堪えなければ。今は広間に見当たらない魔物達が、戻ってきてしまうかもしれない――理解している。分かってはいる。だけど。だけど。だけど!
あぁ。
あぁぁ!
ルクレイシア、ライラ、エイブラム、トリスタン、ザカリー、オーガスト、ピーター!
良い奴も、気の合わない奴も、尊敬していた相手も、それとなく距離を置いていた人も、いる。もっと話せばよかった。色んなことを。もっと分かり合えたはずだった。もっと仲良くなれたはずだった。その機会は永遠に喪われてしまったのだ。
あぁ、エクサ・ピーコよ。なぜ僕を生かしたのです?
美しいルクレイシアではなく、敬虔なライラではなく。勇敢なエイブラムでもなく、若きトリスタンでもなく。迷宮の外で妻と娘が待っているザカリーではなく、罪無きオーガストではなく、慎重なピーターではなく、なぜ、こんなところで咽び泣いているだけのパトリックを!
辺りはむせ返るような、血と、臓物と、汚物の臭いに満ちている。息を吸うたびに、吐き気がする。だけど、死体の臭いで吐くような繊細さはとうの昔に失ってしまった。それがパーティの仲間たちの死体でも同じことが、ただ、悲しかった。
ゆっくりと、首を振ってパトリックは立ち上がる。左肩が、酷く傷んだ。だけど、そこから出血はない。骨が折れても、いなさそうだ。顔を拭う。額から出血があったようだけれど、もう、ほとんど止まっていた。顔は血塗れなことだろう。だから、魔物達はパトリックが死んだと見なして、去って行ったのだろう。
あぁ。
あぁぁ。
幸運なのか不幸なのか、まるで分からない。こんなにも仲間が死んでしまったのに、生きていることを素直に喜べない。こんなにも仲間が死んでしまったから、自分だけ生きていることを喜べないのか。どちらでも構わない。あぁ。迷宮を、出なくては。
何か、形見を。そう思ったけれど、全員分の形見を持ち帰るのは不可能だ。誰か1人の何かを、選べるはずもない。何も持たずに行こう。何せ、ルルー達は――あぁ、そうではない。ルルーは最早亡いのだ。パトリック達は、そう言わなくてはならないだろう――パトリック達は、負けたのだ。これから始まるのは、惨めな、パトリックが初めて経験する、敗走だ。
地面に転がっていた、パトリックの武器である短い鎚を握り直す。最後に、仲間たちの名前を口の中でもう1度だけ呟く。
ルクレイシア、ライラ、エイブラム、トリスタン、ザカリー、オーガスト、ピーター。
お別れだ。
振り返らずに、とぼとぼと、歩き出す。辺りは仄暗い。耳が痛むほどに静かだ。こんなに迷宮と言うものは、静かだったのか。音と言う音は、壁に生えている柔らかい苔に吸い込まれて、消えてしまっているようだ。
今日までの迷宮探索は、賑やかだった。襲い掛かかってくる魔物達を恐れずにルクレイシアが歌い、エイブラムが良く通る声で指示を出し、ライラが高らかにエクサ・ピーコを讃える祝詞を唱え――冒険者達が武具を鳴らして駆け回っていた。
あの光景を、パトリックは2度と目にすることは出来ないのだ。あの南の勇者一行の、奇跡のような光景を。
広間を出る辺りのところで、人間の、すなわち、パトリック達の誰かのものと思われる、革袋を見つける。既に魔物達に荒らされて、中に入っていた食料は食い散らかされたり、持ち去られたりしていた。
食料。
水。
パトリックは、静かに絶望する。
勇敢にして聡明なエイブラムが管理し、メイナードやオーガストが運んでくれていた食料は、今日までの探索で、1度たりとも足りなくなることは無かった。魔術師にして剣士たるルクレイシアに頼めば、彼女は虚空からいくらでも清潔な水を湧き出させてくれた。
食料、は、まだいい。問題は水だ。人間が水なしで活動できるのは、3日か、4日か。それまでに、戻らなくては。地上へ。
パトリックは静かに進む。
地上へ? 地上に何があるのだろうか。仲間が死んでしまったのに。
小鬼が1匹、他の魔物達の食べ残しを求めて来たのか、広間に入って来たので、駆け寄って、鎚を横殴りに振り回して頭を潰す。小鬼の身長は、パトリックの腰位までしかない。
小さくて、迷宮内の魔物達の間でも下等種と見なされている、弱い魔物だ。実際、小鬼が防具らしい防具を身に着けているところを、パトリックは見たことがない。卑しい老人のような皺だらけの顔をしていて、腰に襤褸布や、何かの動物の皮を巻いているのがほとんどだ。
パトリックに頭を潰された小鬼は、しばらく手足を痙攣させていたけれど、じきに動かなくなる。彼、ないし、彼女にも、家族がいるのだろうか――感傷が、過ぎる。
何かがあろうと、何も無かろうと。進まなくては。パトリックは生きている。エクサ・ピーコに生かされている。
あぁ。
あぁぁ。
それでも涙が止まらない僕は、弱いのか。