一章 荷運び・メイナード 後編
メイナードは前方と、後方を、見比べる。どちらを。どちらに――混乱しかけて、どちらでも、良い。と結論付ける。
来た道を戻ってしまったら、誰かに会えるかもしれない。帰り道に続いていたら、万々歳だ。とにかく、とにかくここに立ち尽くしているのは良くない。どちらでも良い。メイナードから見て、前方。小道から出て、左の方に、進む。進み始める。迷宮の道はぐねぐねしていて見通しが悪い。
だけどメイナードは知っている。大抵の魔物は、足音を殺して歩くと言う風習が無い。なにせまぁ、ここは彼等の住処なのだ。彼等の街なのだ。街中で、足音を殺して、辺りを見回して、歩く住人がいるだろうか?
否。いる訳が無い。いたとしたら、相当の変人だ。いや、彼等は人では無いから、変『魔物』、と言うべきか。
だから、メイナードはとにかく静かに進む。戦闘に加わるわけではないメイナードの靴底は、酷く柔らかい革で出来ている。歩いたとしても、ほとんど音がしない。音がしたとしたら、それは魔物の足音だ。魔物の足音が聞こえたら、何処かの小道に隠れればいいだろう。というか、それしか、メイナードに手は無い。
静かに、静かに、進む。
ルルーの鼻歌が、聞こえた様な気がした。
幻聴だ。聞こえる訳が無い。だって、ルルーは死んでしまった。らしいのだ。
ルルー。あの明るくて、親切な女性が死んでしまった。らしいのだ。何てことだ。エクサ・ピーコは何をしておられるのか。まぁ、エクサ・ピーコは魔物の産みの親でもあられる。魔物を惨殺して来たルルーには、慈悲を与えなくても、おかしくはない。のか。
――うわぁ、可愛いねぇ! お名前は? メリッサちゃんっていうの。うわぁ、えらいねぇ、自分のお名前が言えたねぇ! 何歳? 4歳! 飴ちゃん食べる?
賑やかにそう言って、メリッサに赤い飴を差し出したルルーの姿が、思い出された。ルルー達の所有していたギルドハウス。30人ほどが暮らすその家というか、館と言うか。
そこに1度だけ、メリッサを連れて行ったことがあった。本当は、仕事場に子供を連れて行くなんてご法度だ。実際、サブリーダーのエイブラムは苦い顔をしていた。
だだ、あの日はどうしてもメリッサの預け先が見つからなくて――確か、いつも迷宮入りしている間に預けている親戚の家で流行風邪が蔓延していて、代わりに教会とか、街の保育所とかに頼んだんだけど、何処もいっぱいだとか、流行風邪の所為で休みだとかで――困り果ててギルドハウスに連れて行ってしまった。
ギルドハウスの端で大人しくさせておくから、お願いします。そう言って頭を下げたメイナードから攫うみたいに、ルルーはメリッサを抱き上げて微笑みかけた。
――あらあら、ルクレイシアにあんなかわいい子を見せるなんて! 妹さん、しばらく離してもらえないわよ。かわいそうに。
うわぁ、うわぁ、といちいち大げさに騒ぐルルーを見ながら、くすくす笑って、エイブラムの妹のエメリーンは言ったものだ。
子供好きなルルー。優しいルルー。
どうして、彼女が。
それはね? と意地悪で偉大な何かが答えるみたいに、不意に何かの音がメイナードの耳に届く。
足音、だ。それも1つじゃない。複数。がしゃり、がしゃり、と、彼等が歩く度に金属音までついて来る。武装している、魔物達。逃げなくては。でも、あちらの足音が聞こえるならば、こちらの足音があちらに聞こえてしまう事は十分にあり得る。静かに、静かに逃げなくては。
少し戻った所に、また、細い道があったはずだ。そこに逃げ込もう。
メイナードは来た道を引き返す。今度は、どちらから来たか分からなくならないように、この道から出たら、左に進むんだぞ、と自分に言い聞かせる。
また、身体を横にしなければ入り込めないような細い道に、自分の身体をねじ込む。1歩、2歩、3歩――これで良いだろうか。まだ足りないだろうか。さらに1歩、2歩。進んで、いよいよ魔物達の足音が近くなってきたようで、メイナードは呼吸すら潜める。
先ほど自分が歩いていた、小道の外――大通りを、振り返って、見やる。がしゃり、がしゃり、と金属鎧を纏ったオークだった。猪のような牙と、豚のような顔を持つ、人間よりも大型な魔物だ。普通に歩いているだけで、頭が天井を擦ってしまいそうだけれど、そうはならない。迷宮の天井は、絶妙な高さを持つように造られている。
オーク達が手にしているのは、彼等の身長の半分くらいの長さの、わりと短い、槍だ。だって、長剣や斧を振りかぶれるような高さは、迷宮の通路にはない。ルルーやエイブラムは剣を持っていたけれど、彼等が手にしていたのも、細い、刺突剣だった。
その短い槍に――あぁ、オーク達の中の1匹が持っている松明によって、照らされる短い槍の、その穂先に――女性の首が飾られていた。
ルルー、ではなかった。ルルーは長い、黒髪だった。女の子は、髪を長く伸ばすものだ。メリッサも、4歳児なりに髪を伸ばしていて、メイナードはルルー達が迷宮を攻略し終わって、次の迷宮に向かう間の短い時期には、毎朝メリッサの髪を丁寧に櫛梳っていたものだ。
オークの槍の穂先に飾られていたのは、栗色の髪の、三つ編みの――神官の、ライラだった。メイナードは膝から崩れ落ちそうになる。偉大なるエクサ・ピーコよ。我らの創造主にして魔王よ。なぜ、あなたに、毎朝、毎夕、祈りを捧げていたライラを。
ルルーの死は、伝聞だった。その場に居合わせた事にはなるのだろうけれど、でも、メイナードにとっては、ルルーの死は、まだ未確定事項だった。だけど、ライラは。
――神官たるもの、常に揺らぐ事の無い信仰心を持ち続けなければ。エクサ・ピーコは、理不尽な試練を人に与えはしません。エクサ・ピーコの与えたもう試練は、必ず人に乗り越えられるものです。
そう言って、どんなに苦しい状況でも、ライラは微笑んでいた。
だけどライラ。君は。
ライラは細い首を切断され、断面から槍の穂先を差し込まれたみたいだった。半開きになった口から、槍の穂先が飛び出していた。恐怖に見開かれた栗色の瞳は、今にも零れ落ちそうだった。ライラ。大人しくて可愛らしい、ライラ。
エクサ・ピーコの与えたもう試練は乗り越えられると言っていたけれど。だけど君は、殺されてしまっているじゃないか。どうすれば乗り越えられるんだ。
メイナードは腰の短剣に触れる。
触れた、だけだった。
オークは3匹もいた。
メイナードごときに何が出来る。ルルーでもあるまいし。ルルーですら、死んでしまったらしいのに。
ライラ。あぁ、ライラ。せめて、君の魂が天の国で安らかたらんことを祈ろう。