九章 弓使い・エメリーン 後編
あぁ、すこしだけお腹が満たされて、眠い。休んでもいいかしら。エメリーンは、細い道に自分の身体をねじ込む。どうしてこんなに、人間が隠れるのに都合のいい道が、迷宮には、あちこち、あちこちにあるのかしら。
エメリーンは疑問に思いながらも、オークの手の届かない場所に隠れる。まぁ、人間の街だって、建物と建物の間に、何の役に立つのか分からない細い道がある。そんなものだろう。そんな、もの。そう思いながら、エメリーンは目を閉じる。
細い道は、風がよく通る。少し、肌寒い。お陰で眠りは浅い。あまり疲れは取れないけれど、熟睡するのも危険だろうから、それはそれで構わない。
亡霊のように迷宮を彷徨い、やがてエメリーンは、上層階に続く階段を見つける。いくつ、階段を登ったのだったかしら。1つ、2つ、3つ……ダメ。上手く思い出せない。
階段を登って広間に出ると、何かの作業中らしかった小鬼が3匹、エメリーンを見つけて仰天したように飛び上がる。何の感慨も無く、エメリーンは矢を放つ。2射。
生き残った1匹は、理不尽に挑みかかる様に、エメリーンに襲い掛かって来る。回収するとはいえ、矢が惜しい。短剣で小鬼の喉元を貫く。
何を、していたのかしら……。
エメリーンはぼんやりと、小鬼達が残した道具を見る。どこから手に入れたと言うのだろう。きらきらした石を磨いていたようだった。これは何色かしら。エメリーンはきらきらした石を摘まみ上げるけれど、薄暗い迷宮の中では、紫色なのか、濃い青なのか、それとも他の色なのか、いまいち判別が付かない。
きれいなものには目もくれず。
エメリーンは、小鬼の死体から矢を引き抜く。何てこと。1本、とうとう折れてしまった。少し悩んで、鏃だけを回収する。もう1本、矢を引き抜くと、糸を引いて小鬼の眼球が付いてきた。豚の眼球は、珍味だと、いうけれど……。
エメリーンは考えかけて、やめた。矢を振って、綺麗にして、矢筒に戻す。びちゃりと、吹き飛んだ眼球が地面に当たって弾ける音がした。
どうして、こんなことになったのだったかしら……。
迷宮。迷宮核を破壊して、魔物を皆殺しにして、地上に帰る。それだけだったはずなのに。何度も、何度も繰り返して来たことだったのに。どうして、今回だけ、こんなことに。
――勇者様!
明るい声が、耳に蘇る。そう。ルクレイシアは南の勇者。まるで地上に降り立ったエクサ・ピーコのように、無垢な人々に讃えられ、祈りを捧げられ、そうして、迷宮へやって来た。力無き人々の為に。新たな土地を望む人々の為に。
――勇者様!
醜い声が、耳に蘇る。そう。ルクレイシアは南の勇者。生きているだけの罪無き魔物を虐殺し、迷宮核を破壊して、土地を平らにする。そうして魔物のものだった土地を人間のものにする。その対価に大量の金銀財貨を手にして笑う。
ルクレイシア。
貴女は一体、何を考えていたの?
誰よりも魔物を殺す勇者でありながら、魔物達の扱う言語をわずかとは言え理解していた魔術師。どうして、あんなにいつも笑っていたの。笑えていたの? 迷宮で先頭を走りながら歌う、高らかな、あの高らかで晴れやかなルクレイシアの歌声ときたら! あぁ、ルクレイシアの歌が、思い出せない!
疲れからではなく、寒さからではなく、けれど、エメリーンは確かに震えを感じて、両手で自身の身体を抱きしめた。
ルクレイシア。
南の勇者。
お前が、私のお姉さまになっていたかもしれないだなんて、想像しただけでぞっとする。
エメリーンはそう結論付けて、進む。
ルクレイシアの歌が、思い出せない。
エメリーンは、丁寧に、ていねいに、その事実にも、蓋をする。ダメ。今は蓋をして、置いておくの。考えないで。歩かなくては。両足を動かすの。魔物に警戒することも忘れないで。オークが徒党を組んで現れたら、逃げなくてはいけないのだから。今のエメリーンは、ひとりなのだから。
「兄さま……」
波の様に、悲しみがぶり返してくる。悲しみも、両手で抱えて、箱に詰めて、蓋をする。生きて地上に帰らなくては。地上。そう。何か素敵なことを考えなくては。生きて、帰るの。エメリーンは。
そうしたら、地上では思う存分、綺麗な水を飲んで、素敵な料理を食べて、うんと長い時間お風呂に入って、安心して眠るの。何て幸せなのかしら。幸せは、まだ地上に残っているはず。
そう。
地上では思う存分、1人で綺麗な水を飲んで、1人で素敵な料理を食べて、うんと長い時間1人でお風呂に入って、安心して1人で眠るの。ひとりで……?
ギルドハウスには、いつでも人がいた。いた、どころではない。そもそもの住人が多いし、客人も多かった。ルクレイシアは顔が広くて、誰の事も拒まなかった。
エイブラムとエメリーンは、幾つかの迷宮を踏破した後、母さまの為に小さな一軒家を買ったけれど、兄妹はそこには住まずに、ルクレイシアのギルドハウスに暮らしていた。
冒険者だけではなく、画家や、音楽家などの芸術家や、ルクレイシアに依頼を持ち込む貴族の使者に、役人たち。かと思えば、怪しげな自称・医者や、政治活動家なども、ギルドハウスには頻繁に訪れて居た。エメリーンからしたら、あまりにも混沌とした、けれど刺激に満ち満ちた、場所だった。
私は、4年も、ギルドハウスで、皆と暮らしていたのね……。
すっかり嫁ぎ遅れてしまった、と母さまが零していたのは知っている。でも、ルクレイシアも、童顔だけれど、実は兄さまと同い年だったライラもまだ結婚していなかったし。エメリーンはそんなことを考えていた。気楽で、賑やかで、温かかった、場所。
その、ギルドハウスで。思い出しか詰まっていないようなギルドハウスで。私は、ひとりで過ごすのかしら……?
エメリーンは、その疑問も、丁寧に、ていねいに、蓋をする。
いつか――ではない。近いうちに。
エメリーンはその箱がいっぱいになって蓋が開いてしまうことを、予感していた。それでもエメリーンは、丁寧に、ていねいに、蓋をして、そして、歩いて行く。




