九章 弓使い・エメリーン 前編
時間の流れは曖昧だけれど、もう10日は経ったことだろう。でも、まだ地上へは帰れていない。やっていられない。
不貞腐れて、エメリーンは地面に座り込む。空腹で眩暈がする。気を失うように眠りそうになって、仕方なしに立ち上がる。こんな太い道の真ん中で、眠るわけにはいかない。これ以上の空腹にも、耐えられそうにない。
だけど、エメリーンは知識として知っている。人間は、水さえあれば1巡り(1巡りは28日)以上は生きられることを。だから大丈夫、と言い聞かせる。レディたれ。レディ……?
こんなにも薄汚くて、魔物の返り血だらけで、壁に生えている苔を毟って水を啜る、私の何処が、レディだと?
馬鹿馬鹿しい。やっていられない。でも、歩かなくては。
私は、南の勇者一行。
地上へ帰らなくては。
惰性の様に、そう言い聞かせて、エメリーンは進む。矢は既に、どれもこれも使用済みの物ばかり。予備の短剣も、何度か使った。兄さまは、もう私を助けてはくださらない。それでも、だからこそ、地上へ帰らなくては。
地上に何があるの? とは考えてはいけない。ダメ。エメリーンは丁寧に、ていねいに、疑問に蓋をする。湧きあがる疑問を、順番に、1つずつ、押し込める。疑問が全部しまわれて、綺麗になれば、また少し、歩ける。地上に、近付ける。
だというのに、細い道の奥で身体を丸めて眠って、目覚めると、エメリーンはしばらく短剣の切っ先をじぃっと見つめてしまう。ダメ。エメリーンは丁寧に、ていねいに、自身に言い聞かせる。この短剣で喉を突き刺したら、さぞ楽な事でしょうね……?
ダメ。兄さまを見捨てて、家宝の剣クレピュスキュールを置いて、それでもエメリーンは、生きたいと願って走ったのだ。走って、しまったのだ。今更、嫌になって放り出すなんて、許されないのだわ。
エメリーンは苔を毟って、手の中で丸めた。生きなくては。行かなくては。苔を絞ると、口の中に水滴が落ちてくる。涙も、零れた。ダメ。貴重な水分が……。
涙を拭って、歩き出す。行きにエメリーン達が迷宮に残した痕跡は、薄れつつあった。迷ってしまうことよりも、過去が失われて行くことが、ただ、悲しかった。こうして痕跡が薄れて行くように、エメリーンの記憶も、いずれ曖昧になってしまうのだろうか。
それを癒しだと、救いだと、人は言うのだろうか。
そうだとしたら、エメリーンはずっと傷付いていたい。兄さま。ライラ。パトリック。ハワード。メイナード。ザカリー。オーガスト。ジェレミー。トリスタン。みんな、みんなを忘れるだなんて、嫌……!
生きなくては。行かなくては。
そうでなくては、消えてしまう。
南の勇者一行の、輝かしい記憶が。
エメリーンは道の先に魔物の背を見つけて、短弓を構える。背が小さい。汚らしい小鬼ではないようだった。その事実に、わずかにエメリーンは慰められる。犬のような尻尾があるから、コボルトかしら。首を狙って。外さないで。一射絶命。次なんて無いわ。
生きなくては。行かなくては。
何かを食べなくては、もういられない。
エメリーンが手を離すと、弓弦が鳴る。
声も無く、魔物が斃れる。
エメリーンは、初めて魔物を殺した時みたいに震えながら、死体に近付く。コボルトはこの上なく死んでいる。仲間はいない。1匹で、寂しく死んだ。エメリーンは、首から弓矢を引き抜く。折れていない。まだ使える。矢筒に戻す。
それから。
それから……。
腰から予備の短剣を抜く。呼吸が荒くなる。でも、もういられない。お腹が空いて、気が狂いそう。もしかしたら、私はもう狂っているのかも。こんなことを、思い付くだなんて……。
家畜を育てたことなんてないけれど、父さまが狩りに行かれて、獲って来た鳥や、もう少し大きい動物を捌くところは、見たことがある。正式な手続きでなくてもいい。少しでもいい。ただ。
ただ、この空腹を少しでも紛らわせたいの……。
エメリーンは、なるべく肉の付いた場所を、とコボルトの死体を見下ろす。そうして、すこし、微笑んだ。そうね。足が良いわね。捌きやすそうで、食べやすそうで。そうね。私はオークと同じね。ごめんなさいね、トリスタン。
その後のことは、あまりエメリーンは覚えていない。
ただ、少し、ほっとした。
思ったよりも、満たされた、気が、する。
吐き気は、訪れなかった。貴重な蛋白質を、エメリーンの身体は放そうとはしなかった。エメリーンはよろよろと立ち上がって、壁の苔で血塗れの手を拭う。何度も。なんども。そんなことをしている場合ではないと思いだして、また、歩きだす。
ねぇ、ねぇ、魔物達。コボルトの非戦闘員達。悲しいでしょう。悔しいでしょう。戦士の両足が、忌々しい人間に……。
「あはっ」
泣いてしまうかと思った。
喚いてしまうかと思った。
実際に出て来たのは、ただ、乾いた笑いだった。
「あははっ」
レディたれ。
レディたれ!
――もう、この先一生、母さまの願ったレディになんて、なれない気がした。
ごめんなさい母さま。私が冒険者になることなんて、ずっと、ずぅっと、反対していらっしゃったのに。でも、私は手に職が欲しかった。無力な女の子でいるのはもう嫌だったの。兄さまのお荷物でいるのは嫌だったの。
幸いに、エメリーンには弓の才能があった。あったからこそ兄さまも認めざるを得なかった。強くなりたかったの。1人でも生きて行けるくらい……。
うそ。
違う。
兄さまと、いたかった。兄さまを、ルクレイシアに取られるのが悔しかったの。それだけ。馬鹿みたい。それが、こんなに、こんなにも、惨めで忌まわしいことになるなんて、思ってもいなかったの。
「あ、はは……」
何て、静かなの。
エメリーンは、足を引きずる様に進む。行きはあんなにも賑やかだったというのに。大勢の冒険者の誰かが、常に何か言っていた。それは報告だったり、呪文だったり、指示だったり、祝詞だったり、様々だったけれど。
何て、静かなの。
ルクレイシアの歌が、もう、思い出せない。
いつも、耳障りだと思っていた、あの歌が。
ただ、エメリーンは、虚ろな笑い声を、時折、零しながら進む。エメリーンは狂ってしまったのだろうか。分からない。母さまはこんなエメリーンを見てどう思うかしら。レディたれ。やはり、そうおっしゃってくださるかしら。もう、レディになんて、なれっこ、ないのに……。




