六章 弓使い・エメリーン 前編
喉が渇いた。やっていられない。エメリーンは近くの壁から、なるべく土が付かないように苔を毟って、手の中で丸めた。
本当は、濾過装置があれば良いのだけれど。無いものねだりは良くない。顔を上げて、口を開く。苔を握りしめると、幾らかの水滴が口内に落ちて来た。えぐみはあるけれど、飲めなくもない。
ルクレイシアに水を出してくれと頼むのはエメリーンの誇りが許さなかったため、いつでもエメリーンは、水の補給をハワードに頼んでいた。彼は気付いていたのだろうか。エメリーンのルクレイシアへの憎しみを?
――僕はさ、君の隠しているつもりでバレバレな、性悪なところがけっこう好きだったよ。エメリーン。
ハワードの声が耳の奥に蘇る。何て失礼な。性悪だなんて。性悪なのはルクレイシアだわ。
そう、訴えたいけれど。
けれど、エメリーンは。
迷宮の中で、ひとりだ。
不意に足元が崩れて行くような恐怖を味わって、エメリーンはその場にしゃがみ込んだ。そんな事は。そんな筈は。エメリーンはルクレイシアが大嫌いだった。あの偽善者。兄さまを誑かす、魔女が。だから、その仲間にも、深い思い入れは無かった。なかった、でしょう……?
エメリーンは誰かに問いかける。その答えを、誰も、偉大なるエクサ・ピーコですら、提示してはくれなかった。
優しいライラを? 堅実なパトリックを? 物言いは意地悪だけれど、いつでもエメリーンのカップを水で満たしてくれたハワードを? 忍耐強いメイナードを? いつも丁寧に武器の手入れをしてくれたザカリーを? 笑顔で食事を手渡してくれたオーガストを? 的確なジェレミーを? 若き、純真なトリスタンを? 多くの仲間を?
どうして、憎めるのかしら……?
そこで初めてエメリーンは自身の頬に触れて、驚く。自身の頬は、びっしょりと、濡れていた。
どうして、その死を悲しまずに、いられるのかしら……?
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁん……!」
糸が切れたように、エメリーンはその場に座り込んで声を上げて泣いた。ライラ。パトリック。ハワード。メイナード。ザカリー。オーガスト。ジェレミー。トリスタン。みんな、みんな死んでしまった!
何より、誰より、兄さまが。愛する兄さまが、死んでしまった!
迷宮の最深部で、危険だとか、迂闊だとか。そんな事は一切考えられなかった。死んでしまった。死んでしまったのだ! もう、2度と、誰にも、会えない! そんな事が、そんな馬鹿なことが、そんな酷いことが、起こって、許される、ものか……!
私達は、南の勇者一行だと、いうのに……!?
泣いて、泣いて、泣き疲れて涙が枯れても、まだエメリーンは生きていた。近くに魔物はいなかったようだ。迷宮は、広い。
ということもあるし、何より、エメリーン達が行き掛けに魔物を虐殺して進んだことが大きいのだろう。殺して、殺して、そうして、殺されてしまった。何て、ことかしら……。
仕方なしに、エメリーンは立ち上がる。魔物は見当たらない。足音すら、聞こえない。行こう。地上では母さまが待っていらっしゃる。あぁ、でも、母さまに何と報告すればいいのかしら……? 兄さまが、兄さまが……。
気分が沈みこみそうになるのを、エメリーンは強く目をつむって戒める。後で。あとで考えればいいことだわ。今はただ、地上へ帰ることだけを考えなければ。
あぁ、でも、兄さまと帰還することも能わず、家宝の剣、クレピュスキュールすら持ち帰れず、エメリーンだけが生きて帰ったところで、どうなるというのかしら。
ダメ。ダメ。そんなことを考えては。取り返しのつかない、過去のことを、思い出しては――
――黒髪の少女が振り返る。恐らく、恨めしそうな目をしていたエメリーン達を見て、目を瞬かせた。綺麗な人。大きな黒い瞳の中に星が散っているみたいだった。
かつて、そう思ってしまった事を、エメリーンはひどく悔やんでいた。この私が、あの偽善者を。兄さまを誑かす魔女を、一瞬でも綺麗だと思っただなんて。許しがたいことだわ。
――むむ? どうしたの? おなか痛いの?
――そんなわけが……!
呑気なことを言ったルクレイシアに対して、幼かったエメリーンは喚きかけたけれど、エイブラムが手で制した。兄さま。あぁ、兄さま。私よりずっと大人だと思っていたけれど、実際は3つしか違わないのだから、かつての兄さまは今の私よりも、お若かったのね。何てことかしら。
すっかり落ちぶれた、元・騎士の息子と娘と、そしてその元・騎士の剣を競り落とした少女は、好奇の的になっていた。ルクレイシアは、みすぼらしい格好の兄妹にちっとも気にする様子も無く、外で一緒にお茶でも飲む? と言い出した。
近くのカフェで、久しぶりに飲んだチョコレートは涙が出そうなほどに美味しかった。恥ずべき事に、エメリーンは目的を忘れかけていたというのに、エイブラムはただ淡々と、剣の由来と、自分達の事情をルクレイシアに話していた。
エイブラムが何を期待していたのか、エメリーンには分からなかった。
卑しくも、剣を返して欲しいと思っておられたの? 私達にはそんな権利などありはしないのに?
ただ、知っていて欲しかっただけ? ルクレイシアの憐れみを買いたかったの?
分からない。当時も今も、エメリーンには分からない。けれど、じっとしていられなかったのはエメリーンも同じだった。父さまの剣。騎士の誇り。家宝のクレピュスキュール……。
そうして何より、もう戻らない過去が。手放し難かった過去が。指の隙間から零れ落ちて行くことが、ただ恐ろしかったのだ。ドレスと上着を質屋に預けて手に入れた現金は、あとどれくらい? 少なくは無かっただろうけれど、一生を食べていける筈も無い。
何か。
何か。
何かを、為さなければ。
何かに、成らなければ。
――ふぅむ。それなら、わたしの仲間になる?
エメリーンの思考に答えるみたいに、過去のルクレイシアが言った。何が、それなら、だと言うのか。
やっていられない。エメリーンは笑いそうになってしまう。
今も、かつても、私は過去を惜しんでばかりだわ。
そうして、かつてのルクレイシアの言葉に縋っている。
大嫌いだった、ルクレイシアに……。




