五章 戦士・パトリック 前編
るぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……! と喚く、けたたましい魔物の声が聞こえて、パトリックは進路をそちらに変更した。誰か。足早に、進む。誰か。祈る。誰かいるのか。誰か生きていたのか!
あぁ。
あぁぁ!
誰か。誰かだれかだれかだれかだれか!
魔物の呼び声は、るぉぉぉぉ、るぉぉぉぉ、と連鎖している。歓喜の涙が、パトリックの目から溢れた。おそらく、コボルトが、他の魔物を呼ぶ声だろう。何度も聞いてきた。パトリック達に背を向け、逃げながら叫んでいるコボルトの後頭部を、何度も鎚で抉って来た。
――よーし、呼べよべー! パーティだー! 戦争だー! ザ・総力戦☆ って感じだね!
多少、血に酔ったようなおかしなテンションでルルーが笑い、高らかに剣を握った拳を突き上げる。時々、低い迷宮の天井に剣先が突き刺さってしまったりして、照れた様に引き抜いていた。
ルルーったら、と慎ましくライラが笑う。エイブラムは苦い顔だ。後衛組は、ルルーには気にせず堅実に呪文の詠唱を続ける。大勢の冒険者が、怯むことなど知らずに、進んでいく。
あぁ、失われた光景だ。
麗しい、過去の光景だ。
現実のパトリックは、たった1人で、魔物の呼び声を頼りに、進む。あの声。あの声は、人間を見つけた時にコボルトが上げる呼び声だ。誰かが、いる。生きている! 助けなくては。必ず。かならず!
ライラは守れなかった。ルルーも、エイブラムも、トリスタンも、ザカリーも、オーガストも、ピーターも、パトリックは守れなかった。だけど、誰かが、誰かがまだ生きていてくれるなら! 君の為に、パトリックはいくらでも駆けよう。戦おう。そうして、出来れば――
走るのに障害にはならないが、魔物が2人は横に並べないような、細い、ぐねぐねとした道を、音を頼りに駆ける。当たりだ。前方に見えるのは武装したオークか。2匹。しゃがみ込んで、こちらに背を向けている。愚かしい事を。簡単だ。まだ左肩は痛むけれど、パトリックの利き手は右だ。何ら問題ない。
「おおおおおおっ!」
駆け寄る勢いのまま、オークの後頭部を狙って鎚を振るう。ちょうど、振り向きかけたオークの横っ面を殴りつける形になった。オークの兜が弾き飛ばされる。露わになった猪のような牙をへし折る。豚のような顔を、更に醜く変形させる。オークの歯列が砕け、眼球が潰れた。
血を引く鎚を持ち上げ、もう1匹のオークに対峙する。パトリックも返り血を浴びているだろうが、もう1匹のオークも血塗れだった。特に口元が。
あぁ。
あぁぁ。
誰かが。あの広間から何とか逃げ出したのであろう誰かが。オークに内臓まで食い荒らされて死んでいた。間に合わなかった。パトリックは、間に合わなかったのだ。
ゴッシュ! ブフハッ! と、オークは鼻息荒く何かを言っている。怒っているのか。仲間の死を嘆いているのか。どちらでも構わない。ルルーやハワードのような魔術師たちは、簡単なオーク語は理解していたが。どちらでも構わない。というか、知ったことか。
人間と、1匹のオークの死体を踏み越えて、怒れるオークが襲い掛かって来る。どちらでも構わない。静かにパトリックは思う。オークが槍を突き出す前に、踏み込んで鎚を振るう。パトリックの鎚は、オークが身に纏う金属鎧すら陥没させる。これくらい出来ずに、南の勇者一行を、名乗れるものか。
金属鎧を陥没させられたオークは、まだ、死んではいない。だから殺す。素早く鎚を振り上げて、頭に振り下ろす。規則的に。何度だって。
2匹のオークに丹念に止めを刺しながらも、パトリックは油断なく辺りを見回す。近くにいるはずだ。このオーク達を呼び寄せたコボルトが。後方、からパトリックは来た。見落としは無いはずだ。前方。暗い迷宮の中で目を凝らす。
いるか。いるはずだ。来い。叫べ。仲間の魔物を呼んでみせろ。僕たちが1匹残らず。残らず……?
あぁ。
あぁぁ。
力なくパトリックは首を振る。
僕たち、ではない。パトリック達ではない。パトリックは、ひとりだ。
背中を預けられる仲間は、もう、いないのだ……。
涙が零れた。歓喜の涙では、もう、なかった。何処から来て、何処へ行きたいのか――悩みかけて、やめる。最深部の広間から、地上に行きたいのだ。簡単なことだ。
かつての仲間の死体を跨ぐことは出来ない。パトリックは足早に引き返す。
あぁ。
あぁぁ。
彼は、あるいは、彼女は――それすら、薄暗い迷宮の中で、パトリックには判別が付かなかった――誰だったのだろう。許して欲しい。間に合わなかったパトリックを。
あの広間から逃げ出すことは困難だったことだろう。誰よりも早く判断して、動かなければ叶わなかったはずだ。それを成し遂げてみせるほど、彼、ないし、彼女は地上に帰りたかったのだろう。許して欲しい。ゆるしてほしい。どうか。間に合わなかったパトリックを。またしても、死に損なったパトリックを。
どうして、パトリックが。
今なお、生きているのか。
たとえ地上に生きて帰ることが出来たとしても、その問いは呪いの如く、生涯パトリックについて回る事だろう。予言のように、パトリックは思う。
そのような人生に、どれくらい意味があるのか……?
足が止まりそうになる。駄目だ。だめだ。歩かなくては。進まなくては。けれど鎧が重い。鎚が重い。幾つもの分かれ道を、何も考えずに進む。もしかしたら、同じ場所をぐるぐる回っているだけかもしれない。それは、けれど、パトリックにとって恐怖でも何でも無かった。
仲間達が無残に死に、パトリックだけが生き残ったのだ。
これ以上の、恐怖があるものか……。




