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第5パート 赤、白、光

 再び協会が夕刻の橙色に輝く。その陰に、牧師が腰を下ろして森を見ていた。その横に、一人の男がやって来る。牧師は男の方を見ずに、その柔和な顔に笑みを広げた。

「やあ、久しぶりだね」

「昨日、ここで少女の葬式があったはずだね。名を、確かリミアと」

「ああ、あったね」

「彼女、死ぬ前に懺悔に来なかったかな」

「来たよ。散々来た」

「彼女は何と言っていたのかな」

「愚かな自分を許してください、自分を許せない自分を許してください、と」

「君は何と答えたのかな」

「どんな貴女でも父は愛してくださいます、貴女が貴女を愛せなくても、父は愛してくださるのです、と」

「彼女はどうなったのかな」

「……彼ら彼女らはねえ」

 牧師は温厚な顔のまま、森を見つめたまま、笑みを浮かべたまま、その口を動かした。

「父が愛してくれるだのなんだの、そんな曖昧な承認を求めちゃいないんだ。もっと実用的なものを欲している。だから、昔に君から聞いた歌を、彼女に教えてあげたよ」


  (*)ああ、今日は疲れた

  だからきっと、僕の最も叶え難い渇望は、

  その星降る夜を心から受け入れることだろう

  まるで、疲れきった子供のように


  両手よ、これだけ働いたんだ、休むがいいよ

  頭よ、すべての思考を止めるんだ

  いま、僕の全部の感覚は、

  きらりふわりとしたまどろみに沈み込みたいと思っているんだから


  こうして縛りがなくなって、魂は望む

  自由に翼を得ることを

  本当なら、何千倍もの日々を、深く深く生き続けるために

  本当なら、この夜の神秘的な循環の中を生き続けるために


「やっぱりか」

 男は牧師の横に座り、続けた。

「あれを教えたのは、お前さんだけだったからね。リミア君の一件の詳細を聞いた時、お前さんが一枚噛んでいることは想像がついたが」

「シャトゥールの力を増強させる歌をご存じとは、さすが魔王様といったところかな」

「お前さんに歌を教えたのは酔った勢いだ。元来人間が使うべきものじゃないのだがね」

 サタンが息をついても、牧師はまるで仮面をかぶっているかのように、その笑みを崩すことはしない。

「私は、死も救いの一つだと考えるのだよ。だからこそ、自殺を完全否定する父に疑問を抱き、こうしてサタンと関係を持っている」

「救いかどうか私には興味はないが、事実自殺した人間の魂は不味い。一度だけ喰ったことがあるが、もう二度と喰うまいと決意したくらいには」

「天の父に迎え入れられることもなく、地獄の王にも拒否され、自殺した人間はどこへ行くのだろうね」

「私の知ったことではないね。かのシャトゥールと同化した少女も、浄化されたとはいえ、そのまま彷徨っていることだろうし」

「浄化?」

「そう。少女の妹御がきれいさっぱり浄化してみせた」

「あれだけの負の感情を発散させきったというのかい」

「発散ではない。浄化だ。負の感情を小さくさせたのではなく、正の感情に塗り替えた。シャトゥールの色が変わったということは、そういうことだ」

「ありえない! あこまで負の感情に支配された人間を連れ戻すなど、神の御業をもってしても――…」

「ひとなら、できるのよ」

 牧師は、懺悔をしに来た少女と同じ声色を聞いた。そして、振り向く間もなく背中にドンッと衝撃が走る。痛みはじわじわと胸まで広がってくる。熱い。息が苦しい。体の中で、生ぬるい何かが広がっていく。

 力を失い、牧師はその場に倒れた。夕日を背に浴びて牧師を見下ろすのは、喪服を着た金髪の少女。返り血をいっぱいに浴びて、色白な顔と輝く髪は赤く染まっている。体は黒がすべてを吸い込み、黒のまま。同じように色の変わらぬはずの瞳は、冷たさに燃えていた。

「シャトゥールのきおくのなかで、あなたをみた。あなたはねえさまにうたをおしえた。あなたは、ねえさまをしなせた。わたしはそれが、ゆるせない」

「それが、君のお姉さんを救う、唯一の――」

「そんなの、うそ。シャトゥールは、ちゃんとわたしのことばをきいてくれた。しろくなってくれた。かみのことばをかりようと、かりまいと、ひとをすくうのは、ひと。だんじて、かみでもなければシでもないわ、おばかさん」

 こうして、赤く染まった黒いルチアの横で、牧師は白くなっていった。

 ルチアはサタンに向き直った。

「ぼくしさまをころしただなんて、まじょさいばんにでもなるかしら」

「さて、どうだろうね」

「あなたのおともだちのようね、このぼくしさま。かれをころしたわたしじゃ、おくちにあわないかしら」

「――いいや」

 サタンの口角がぐびりと上がる。

「君は実に美味そうだ」


 一六××年、欧州。十七世紀の危機の中、二人の少女が死んだ。怪奇な死も、魔女狩りの犠牲も、もはや珍事でもなんでもない。歴史は彼女たちの死を記すことなく流れていく。

 ジャックにもまた、彼女の死を知るすべはなかった。否、知ることが怖く、知ろうとしなかった。それでも、知る機会はすぐに訪れた。彼女と別れて幾日か、両手で足りるほどの日数で、彼は懐かしい人と再会した。

 光り輝く清らな女性だった。ああ、こんなに美しい人だっただろうかと、ジャックは目を細める。彼女の光を浴びて、ジャックの体は人の大きさと成った。ただ一つ、残っているのは南瓜頭。嘲笑を浮かべ続けた、ピエロの顔。彼の妻は彼に向かって手を伏せ、腰を下ろすよう合図をよこした。彼は彼女の元にひざまずいた。妻は彼の南瓜に手を伸ばした。南瓜の被り物が取り払われるのが、しがない農夫にはわかった。まぶしくて目を開けられず、閉じたまぶたの裏に見るのは、この結果をもたらしてくれた雄美な少女だった。

 ジャックは目を開けた。妻が腕を伸ばしてきてくれていた。ジャックはその手を取って立ち上がり、妻と共に歩き出した。

(*) ヘルマン・ヘッセ「眠りにつくとき」より。ただし、原文英訳の和訳のため、ヘッセの正確な和訳ではありません。また、英訳の語呂から、原文にはないフレーズ(最終連「本当なら」)を付け加えており、こちらも原文と異なります。以上二点、ご注意ください。

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