第4パート 双子、愛憎、死
リミアには双子の妹がいた。妹は、誰よりも素直で、誰よりも無垢で、誰よりも気高かった。周囲の顔色をうかがい、周囲の気に入るように振る舞い、自分を他人色で染め上げるしか生きるすべを持たないリミアにとって、妹の在り方は清廉としていて美しく見えた。リミアはそんな妹が大好きだった。
きれいなルチア。かわいいルチア。あなたのためならなんだってできると、私も夢を見られる。
妹といるときだけは、自分でいられた。リミアがリミアでいても、妹はそれを認めてくれた。むしろ嬉しそうに、ふわりと笑ってくれた。好きな服を着て、好きな本を読んで、好きな絵を描いて、好きな人形を使って、妹と一緒に遊ぶ。リミアにとって、それはかけがえのない時間だった。しかし、周囲の都合を察知して、その時間を取ることすら突っぱねるのがリミアだった。
私の馬鹿! なんて馬鹿なの。ルチアと過ごすのがこんなにも好きなくせに。あのしょんぼりした顔を見るのが、こんなにも苦しいくせに。
母が愛したのはリミアだけだった。嘘で固めた虚実のリミアを母は愛し、純真の妹を母は嫌った。リミアは、大好きな妹よりも、嘘を好く母を選び取って生きる自分を許せなかった。
死んじゃえ。死んじゃえ! なんだってできると思ったくせに、どうせこうやってできないんだから。
何もしてやれない、むしろ害でしかないはずのリミアですら、妹は受け入れてくれた。その妹から母親を取り上げている自分を、リミアは殺したくなった。
私がいなければ、あの子のすばらしさにお母様も気づいてくれるかもしれないのに。私がいなければ、あの子は愛情を受けられるかもしれないのに。嘘ばっかりの私なんかいなければ――なんて邪魔なの! 邪魔。邪魔。邪魔! 死んじゃえ!
リミアは歌った。己に対する憎しみを歌に乗せて歌った。リミアから黒い靄が出てきて、靄がリミアに問うた。その声は、リミアのそれそのものだった。
『汝、誰を憎む』
『私自身を。早く殺して。邪魔なの』
『心得た。しかし我ら、二つを屠ることを理として持ちここに居る。もう一人殺めねばならぬ。汝、誰を憎む』
リミアは目を細めた。反射的に答えが出た。
――お母様が、ルチアの方を向いてくれればよかったんだ。
『お母様を』
『心得た』
リミアは己の命が靄に吸い取られていくのを感じた。幸福感に包まれたその瞬間、母親とその後ろにたたずむ妹を見て、リミアは己の失敗に気が付いた。最後の吐息を使って、リミアは嗚呼と鳴いた。
お母様を殺しちゃったら、ルチアがお母様に愛される時は、二度と訪れない。なんて、なんて馬鹿なことを答えてしまったんだろう。だめ、だめ。このままじゃ、だめ! ルチアを一人にしちゃだめ。あの子は愛されるべき子なのに。私は大好きな子を一人にさせた。最後の最後まで、私はろくでなしだ。本当に――初めから私なんて、いなければよかったのに。
靄は己の在り様のままに、リミアの母の命の灯をもみ消した。見れば、一人残された愛らしい幼子が丘の中腹にぽつんと立っている。靄は、自身の負の感情が増幅していくのを感じた。リミアの感情から生まれた靄は、リミアでもあった。靄の中の感情となったリミアは、ルチアが自分を見ているのを感じて、背を向けた。合わせる顔がないと思って、隠れられる場所を探して、同じ闇色に染まりつつある森へ逃げ込んだ。
やがて、見知った豊かなあの森の中にこんなところがあったのかと思うほど、枯れすさんだ場所にたどり着いた。ああ、ここは私にふさわしい。自分を殺したって収まらないほど、負の感情であふれかえった私に、どこまでもふさわしい不毛の地。現世の森にこんな場所があるはずはなかろう。おそらく異界か、それとも狭間か。ともかく、生者の寄り付く場所ではない。
己を発散させる術がもはや残っていないことを、靄はよく知っていた。この感情を持ったまま、この世の終わりまでここに一人居続けるのだ。いい、それでいい。これは、罰だ。何に対しての、と挙げ始めてはきりがない。とにかく、罰なのだ。
どれだけかの時が吹くように過ぎて、遠すぎて聞こえないはずの教会の鐘の音が、風に乗って聞こえた気がした。空には夕闇の足音が聞こえ始めている。あれで、表面ばかりの喪服の集団は、私を送り出した気になっているのだろうか。そうだというのなら、勘違いも甚だしい。
闇が降りてきて、枯れた世界は赤色に照らされた。ただそこに居るだけと決め込んでいた靄は、尋ね人が来ようなどという想定は抱いていなかった。足音を聞きつけても、どうせ幻聴だろう面倒だと、のそりとしか振り返らなかった。しかし、そこにあった金糸の髪を見て、硬直した。幻影だろうか。妹恋しさに、幻をも作り出したか。いいや、それでもいい。幻だってかまわない。ああ、愛しの――!
靄はわずかに浮遊し、ルチアに寄った。しかし、ぼろを着た紳士がルチアをかばうのを見て、靄ははたと立ち止まった。私に、この子と会う資格はない。
しばらくの間、両者の視線の交わりだけが続いた。先に口火を切ったのは、ルチアだった。
『あなた、ことばはわかる?』
ジャックは何もわからなかった。シャトゥールの手を取ってからしばらく、ルチアは目を閉じていた。そして、何分もそのままでいて、ふとした瞬間に目を開けた。それから、何も言わずに踵を返して、タフトフたちが待機している方へと歩んでいったのだ。どうしたのか、何があって何を見て何を聞いたのか、ジャックが尋ねても返答はなかった。ただ、こんもりとした森に戻った後に振り返った枯れ巨木の下に、小さな白い靄を見ただけだった。
ひたすらすたすたと歩くルチアに、しばらくは問いかけの言葉を休めていたジャックも、再び口を開いた。
「お嬢さん、これからどうするつもりだい」
すると、ルチアはようやく答えてくれた。
「じごくのおうさまのところへ。はなすことがあるの」
「沼の場所は私が把握している。案内しよう」
タフトフたちと別れ、ジャックの案内で沼地まで戻ると、ルチアは再び王と見えた。サタンは微笑みでもってルチアを迎えた。
「早かったね」
「おうさま、ねえさまをいきかえらせるひつようがなくなったわ」
「どういうことかな」
「ねえさまをころしたのは、ねえさまだったの」
ルチアの言葉に、サタンは椅子に寄りかかりながら腕を組み、笑った。
「自殺にシャトゥールを使ったと? 聞いたことのない話だね。それで、なぜだか消えずに大きくなったシャトゥールはどうなったのかな」
「ちいさく、しろくなったわ」
「白く……」
いよいよ、サタンは興味と愉快を抑え難くなってきた。サタンは湧き上がる笑みを隠すように、口元に手を当てた。目の前のご令嬢は、シャトゥールの負の感情を消し飛ばしてしまったらしい。末恐ろしいばかりの天使の所業だ。見たところ霊媒体質のようだが、憑かれた痕跡が皆無であるのは、なるほど、この清廉一途なる魂のせいか。
「お嬢さん、一体シャトゥールに何をしたのだい」
「わたしのきもちを、つたえただけよ」
わたしをあいしてくれて、ありがとう。こんなすがたになるまで、わたしのことをおもってくれて、ありがとう。ねえさまは、わたしがだいすきなねえさまのままよ。やさしくて、きれいなねえさま。ひとをしんそこあいすることのできる、きれいなねえさま。ねえ、ねえさまは、そのままでいいの。ねえ、ねえさま、だいすきよ。
サタンは、惜しむようにルチアを見た。
「さて、では交換条件は満たされない。姉御様をお返ししない代わりに――まあ、返そうにもシャトゥールと同化してしまって堕ちてきてはいないのだが――お嬢さんはこのまま地上へ帰るといいよ」
「無事に帰して下さるのですか」
ジャックの、やや高い声が空間に響いた。サタンは肩をすくめた。
「生贄としては最高品質ではあるがね。だからこそ、もう少し育ってから喰いたいものだ」
「いいわ。もっとこえてきてあげる」
受けて立つ、と少女は凛と背筋を伸ばす。それは楽しみだ、と軽く口にしたサタンだったが、そこにすかさず少女が口を入れる。
「いったわね。じゃあ、あなたのたのしみとひきかえにして、べつのとりひきがしたいのだけれど」
「ほう。興味があるね。なんだい」
サタンが促すと、少女はその端正な顔にすっと笑みを広げた。
――わたしがあなたののぞむおかずになっていたら、ジャックときよらなおくさまをあわせてあげて。
ジャックは、沼の入り口に戻された少女の後姿を見つめていた。やがて朝日が昇る、白み始めた早朝の森で、少女はただ風に吹かれていた。ジャックは、問わずにはいられなかった。
「お嬢さん、なぜ、あんな取引を」
くるりと振り向いてきた少女の笑顔が、今までで一番爽やかなものに見えたのは、何も朝の空気のせいだけではあるまい。その麗しい唇が、動いて言う。
「ぶきようなひとって、すきよ、わたし」
「――森の入り口まで送ろう。君とサタンの取引が成就するのは、君が孫の顔を見てからで十分だ」