第3パート 夜、森、昔話
ふと気づけば森の中。沼地の傍にルチアはいた。ルチアは喪服の裾をひるがえし、森のさらに奥を見つめた。その横に南瓜頭のパペットがやってきて、そっと声を発した。
「シャトゥールを探すのなら、手伝おう。大きなシャトゥールなら私も見たよ。こっちの方へ飛んでいった」
「……やっぱり、あたたかいわね、ジャック」
ルチアはほんのりと笑った。
ルチアは南瓜の灯りを先導にして森を歩き始めた。辺りを見渡せば、見慣れぬ色彩が目に入る。葉を茂らせて頭を垂れている木に、風が吹くたび惑わすように揺れる蔦――本来青色のこれらが、なぜか赤を含んだ闇色でそこに君臨している。シャトゥールやタフトフたちも、心なしかいつもより多い。
「よるのもりって、いつもこうなの?」
「そうさ。私も、人間だった頃は知らなかったがね」
「にんげん、だったころ」
「悪霊は、人間が死んで成るものだ。……さあ、シャトゥールを探そう。私が姿をとらえられたのは、この辺りまでだ」
ルチアはうなずくと、一匹のタフトフに声をかけた。
「おおきなシャトゥール、みなかった?」
すると、クリオネにしっぽを生やしたような見てくれのタフトフは、何度か体を揺らした後、今までのルチアの進路より少し北にそれて進んだ。ルチアはそれを追いかけた。
しばらくしたところで、ルチアはまた別のタフトフにシャトゥールの居場所を聞いた。たんぽぽのわたげが四つほど集まってできたようなそのタフトフは、少し南に進路を取って進んだ。もう少ししたところでまた声をかけ、進路を調整し、それを繰り返して、ルチアは大勢のタフトフに率いられながらシャトゥールを探した。
とある場所まで来て、タフトフたちが互いに、どっちだこっちだと相談し始めた。立ち止まる以外になくなったルチアは、その間にジャックに尋ねた。
「ジャックは、どんなにんげんだったの」
「とても愚かな人間だったよ」
「ジャックは、どうしてあくりょうになったの」
「愛する人がいたんだよ」
「それはどんなひとだったの」
「とても清らな人だったよ」
そこで、タフトフたちが行き先を決定した。ぼわぼわとした輪郭の彼らを追って再び進みだし、前方に目を向けたまま、ルチアは淡々と言った。
「むかしばなしをきかせて。きよらなひとをあいした、ひとりのおとこのおはなしがいい」
ジャックは少し間を置き、それから、ルチアの足元を照らしたまま振り返らずに語りだした。
「男は農夫だったよ。貧乏だった。でも、不満はなかったよ。むしろ幸せだった。妻がいたからね。妻は草木や動物、それに人が大好きで、まあ、美貌を備えていたとは言わないが、とにかく朗らかで誠実だった。材料は乏しいはずなのに、妻の料理は美味く、金持ちになって使用人の飯を食うくらいなら、貧乏人のまま妻の料理を食べ続けたいと、男は思っていた。妻も、それを聞いて喜んだ」
ジャックの頭の光が、風に揺らされたろうそくのようにほのかに揺れた。
「そんな妻が病に伏せれば、男はどうするだろう。金さえあれば治るという。金がないから死ぬという。貧しい農夫の稼ぎなど限られている。男はね、悪行に手を染めたよ。盗んだし、殺した。しかし、それで得られた金銭すら湯水のごとくになくなっていった。妻は死んだよ」
タフトフたちが賑やかに先導を切っていた。ジャックは続けた。
「男は自分の手を見つめた。残ったのは、罪に汚れた手だけ。妻は良人だったから、きっと極楽に召されたろうが、自分は果してそこへ行けるのか。死後、妻に会うことはできるのか。できるはずがないと分かった瞬間に、男は恐怖に襲われた。今度は、死後に妻と出会えるならなんだってやろうと決めた。最後に行き着いたのは、悪魔との契約だったよ。そうまでしたって、天はすべてを見ているから、極楽へ行けないことはわかっていた。それでも男は契約せずにはいられなかった。『今すぐ私を殺して、私の魂を極楽へ連れて行け。私の魂の代わりに、私の肉体と寿命をやるから』とね」
「それで、どうなったの」
「悪魔は私を殺した。悪魔は私を極楽の門前まで連れて行き、現世に戻った。私の前には門番がいた。そこで門番は私になんと言ったと思う? 私の妻は、私が彼女を治そうと罪を重ねたことを知り、自ら極楽を拒み、望んで地獄へ落ちたと。私が門前まで行くことを許されたのは、彼女にそうまでさせた私のかつての人となりだと」
くるり、とジャックがルチアを振り返った。その顔はやはり笑っていた。
「馬鹿みたいだろう。私が何もしなければ、彼女は普通に極楽を受け入れて、幸せに死後を暮らせたのに。だから私は、地獄の王に会いに行った。会って、提案をした。妻を極楽に返してやってほしい。その代わりに、私が出来ることならなんでもするから。その後に私がどれだけ地獄で苦しもうと構わないから。そうしたら王は了承した。私に求めたものは、生贄だった。私は人の魂を連れ堕とす悪霊として地上に復活した」
「そのひかりは、ひとを、さそいだすためのもの?」
「そうなのだろうと思う。復活の経緯は私にもよくわからない。ただ、気付けばこの姿で、この頭だった。……滑稽な笑い顔だろう。罪のない人を沼地に落として、私はこの顔で笑っているわけだ」
ルチアはそこで疑問を抱いた。
「わらっているの?」
「見ての通り」
「それはしらなかったわ。わたしは、かなしんでいるのだとおもっていた。ないているようにみえたのだもの」
ジャックには、何かを言うための間が確かにあった。しかし、何も言えずにその間は去り、タフトフたちは行き先を決めて進み始めた。ルチアはそれを追い、ジャックもまた、一歩遅れて追った。
タフトフの数はさらに増えていった。すでにルチアが口を利かなくても、タフトフたちが進んで手伝おうとしてくれていた。
やがて、見知った豊かなあの森の中にこんなところがあったのかと思うほど、枯れすさんだ場所にたどり着いた。枯れ木に枯葉はすでになく、灰色と赤さび色をかきまぜた裸木が立ち並んで首を垂れ、あるいは卒倒し、風が吹いて舞うのは土ばかり。昔は小川だったのか、ところどころに石はあるが、今は水の気配もなければ命の気配もない。
タフトフたちは近づきたくないのか、森の生死の境で立ち止まり、ルチアに向かって先に行くよう促した。ルチアは迷うことなく、一本の曲がりくねった枯れ巨木に向かって歩みを進めた。木々の葉の覆いがないせいで、月光がしっかりと足元を照らしてくれている。それが奇妙なほどに明るく、また赤いことに、ルチアはすでに疑問を感じてはいなかった。
ジャックはルチアの半歩後ろを行っていた。おそらく、ジャックが追っていることに、ルチアは気づいてもいないだろう。ただ、少女は凛然と向かうべきところへまっすぐ向かっていた。
枯れ巨木の根元にそれはいた。ルチアは目的のものをじっくりと見つめた。特大のシャトゥールはルチアに気づき、のそりと振り返った。そしてわずかに浮遊し、ルチアに寄る。ジャックはルチアをかばうように前に出たが、シャトゥールはそれ以上近寄らずに、ただそこに居た。
先に口火を切ったのは、ルチアだった。
「あなた、ことばはわかる?」
シャトゥールから音声としての返答はなかった。だが、ルチアは解答を得ていた。
「じゃあ、きかせて。だれがあなたをうんだの。だれがわたしのねえさまをうらんだの。だれがねえさまをころしたの」
すると、シャトゥールはさらに浮かんだ。そして、靄の先をルチアに向かって差し出す。迷わずそれに手を乗せようとしたルチアに、ジャックは思わず言った。
「やめておきなさい、相手はシャトゥールだ。君にどんな危害が及ぶか」
「ジャック、シャトゥールがわたしに、きがいをくわえられたためしはないわ」
「サタンも言っていただろう。今回は奇怪なことが続いている」
「わたしもいったでしょう。わたしは、ねえさまのためならなんでもするし、できるわ」
言って、ルチアはシャトゥールの手を取った。
はじめにルチアに流れ込んできたのは感情だった。
『憎い。憎い』
だれが、ねえさまをにくんでいるの。
『殺して。殺して』
だれが、ねえさまをころしたの。
次は映像だった。手が見える。白くて小さくてやわらかそうな手。袖口のレースには見覚えがあった。
ねえさまだ。
そして、音。リミアがあの日、丘の上で歌っていた歌声が、聞こえる。