第2パート 南瓜頭、地獄、取引
贄を何十年滞らせる気だ。そう言われて、教会裏の森まで来た。
己が悪霊として存在し始めて、もう何百年経ったのか知れない。ずっと墓場で待機しては、愛し人に先立たれた老人老女を沼に落としてきた。このまま孤独に生き続けるくらいなら、共に死した方がまだ救われると思えるほどの人物を、探して探して吟味して。だから、サタンからはいつも文句ばかり言われていた。よくもこんな弱った魂ばかりをと、苦々しさを通り越して、呆れだか尊敬だかが彼の顔には浮かんでいた。それでもジャックは己の信念を曲げようとしなかった。
やがて、誕生本土の地でジャックの噂が広まり、誰もジャックの灯に近づかなくなって、彼は海を渡った。少しずつ場所を変えては、数年に一度だけ贄を捧げる。しかし最近は、とんと誰も寄ってこなくなった。誰かが親切に世話を焼いているのか何なのか、落とそうと思えるほど孤独に見える者は夜には出歩かず、またジャックの灯にも食いつかない。珍しがって無防備にやって来るのは子どもばかりで、ジャックには彼らを落とす気にはなれなかった。そうこうしているうちに、五十年以上も贄が途絶えてしまったわけである。サタンと契約をして贄を捧げているジャックにとって、贄が滞ることは欲望の成就を遠ざけることに他ならない。それで良いのかと脅されれば、無理矢理にでも贄を捧げる以外に方法はない。否、他に方法はあるかもしれないが、そんなものが考えつくほど自分が器用な男ではないことを、ジャックは誰よりも知っていた。
そうして、墓地をあきらめて久しいジャックは、とある教会の裏にある森へやってきていた。そこで、二日と経たないうちに、夕暮れ時に巨大なシャトゥールを見た。それはジャックがいる森の上空を東の方へと飛んで行った。ジャックは息をついた。近々、あるいはすでに、二体の死体ができあがる。シャトゥールが現れ出たのがすぐそこの丘のように見えたから、少なくとも一体はこの教区内のものであろう。この教会に人が来れば誘い出して、それが誰であろうと沼に落とす。そう決めた。
しかし、かかった兎はあまりに無垢で雄美だった。あと一歩で落とせるところで、ジャックは愚かにも、その一歩を止めさせてしまった。一方でその少女は、自ら沼に足を踏み入れた。このままでは贄として理解され、サタンに魂を奪われる。ジャックはルチアと名乗った少女を追いかけた。
ジャックが沼の底に着くと、ルチアの声が聞こえた。
「ねえさまを、いきかえらせて」
「お待ちなさい!」
ジャックはとにかく言い放った。だが、少女の前にいたサタンがそれを聞いて大きく笑った。
「お前ごときにこのお嬢さんは止められないよ」
ジャックは押し黙った。言い返す言葉は見つからなかった。そして、小さな紳士には目もくれない少女が言う。
「ジャックは、ひとをころすわ。シャトゥールは、ものをこわすわ。シャトゥールは、ひとをころすの?」
少女の問いかけに、地獄の王は親切丁寧に答えた。
「元々あのモノたちにそんな力はない。直接危害を及ぼせる範囲は、せいぜいが悪戯程度だ。生命物体に憑依することもあるが、それもごく短時間の話」
「どうしてシャトゥールたちはいたずらをするの?」
サタンは笑った。答えがディナーの上にスパイスとして降りかかる。
「周りに危害を与えることで、負の感情の発散をもくろんでいるからだよ。負の感情は、それ自身が消えたいと望んでいるから、自分で自分を消そうとするわけだ。まあ、見えているお嬢さんなら知っているだろうが、そんなことをしても根本的な解決にはならないがね。発散行為だけでは、シャトゥールは小さくなるだけで消えはしない」
「じゃあ、ねえさまはなんのためになくなったの?」
「お嬢さんの姉御様は、シャトゥールに殺されたのかい?」
サタンの問いに、贄の少女はうなずいた。サタンはゆっくりと口角を上げた。
「なるほど。そのシャトゥール、大きかっただろう?」
「ええ」
「シャトゥールが人を殺す、たった一つの例外がある。それはね、シャトゥールが放出された時の人間の感情の特別性だよ。人間が、誰かを恨んで、誰かを呪って、ひたすら強く思ってシャトゥールが生まれた時、それは呪詛と同じになる。相手を殺すことになるんだよ」
呪詛を内包したシャトゥールは大きい。そしてその肥大化した負の感情は、向けられた先を葬ることでしか発散されない。
「そして、人を呪わば穴二つ。シャトゥールを放った人間も死ぬ」
まあ、残念ながら、そこまでしてもシャトゥールは自身を消滅に追いやることができないのだが。
「とにもかくにも、これは誰かが誰かを意図的に殺そうと思わない限り起こらないことだ。心当たりはあるのかね、お嬢さん」
ルチアはサタンの言葉が体の奥に浸み込んでくるのを感じた。
だ れ か が 、 ね え さ ま を こ ろ し た 。
サタンはルチアの目をのぞきこんだ。
「君の姉御様が亡くなったのと時を同じくして、命を落とした人はいないのかい?」
「……かあさまが、なくなったわ」
でも。
「でも、かあさまはねえさまをうらんだりしない。ころそうとしたりなんかしない」
かあさまがうらんでいたのは、わたし。
「シャトゥールは、ねえさまとわたしをまちがえたのかしら」
「殺す人間を間違えたと言うのかい」
サタンが愉快そうに笑った。ジャックは地獄の王を振り返り、眉をひそめる。
「いくら双子だからと言って、そんなことが有り得るものでしょうか」
「双子とは神秘の生き物だよ。何が起きても不思議はない。とはいえ、呪いの矛先がずれるという前例もない。お嬢さん、他に心当たりはないのかい。たとえば、落命を聞き及ぶことができないような旅先なんかで、姉御様が誰かの恨みを買ったとか」
「ありえないわ」
ねえさまは、やさしいから。
「ねえさまをきらうひとがいない、とはいわないわ。ひとには、そりがあるから。でも、けっして、ねえさまはひとからうらまれるようなことはしない」
ねえさまは、そういうひとだった。
「そうなのかい。それじゃあさて、どうしたものか」
「たしかめるわ」
少女はサタンをまっすぐ見つめた。
「ねえさまとかあさまをころしたシャトゥールは、もりにきえた。あのおおきさなら、きっとすぐにみつかる。みつけて、なにもかもをききだすの」
「おや、シャトゥールは発散を終えて小さくなったのじゃないのかい」
「いいえ、おうさま。シャトゥールはおおきくなったわ」
ルチアの答えに、サタンは驚いたような顔をした後、笑い出した。
「奇怪なことが続いているね」
「ねえさまをいきかえらせるのは、ぜんぶききだしたあとよ」
ルチアのまわりを漂う澄んだ空気に、サタンは笑った。
「気に入った。君の気がすむまで待ってあげよう。君の命を差し出して君の姉御様を生き返らせる、その準備が整ったらもう一度ここにおいで」