第1パート 少女、葬送、喪服
いる。いる。モヤがいる。
「かあさま、くろいものがいるわ」
「いい加減にしなさい、ルチア」
侯爵婦人は幼子の手すら引かずにぴしゃりと言い放ち、歩み向かう丘を見上げた。ルチアは同じ丘を見上げ、気のせいではないことを確かめる。
モヤが、ねえさまにまとわりついている。おかのうえでうたっているねえさまに。
「かあさまにはみえないの」
「見えてたまるものですか」
同じ胎盤で母に繋がっていた双子は、愛らしい顔を今も双つ並べる。しかし、母に二つはいらない。ルチアはいらない。気味の悪いことばかりを言うくせに、リミアと瓜二つの顔を並べてくる。それがこの婦人には、我慢ならなかった。ルチアが憎くて邪魔で仕方がなく、寝静まったルチアの横でナイフを持ったのも、一度や二度ではない。しかし、己が手で殺めてしまっては世間体を保てない。婦人はずっと、二人娘の片割れを体よく始末する方法を探していた。
「あ」
リミアと同じ形の口から零れた声に、婦人は最早答えもしなかった。そのことに慣れっこのルチアは独りで続ける。
「あのこ、ねえさまがすきなんだわ」
あんなに、ねえさまにおおいかぶさって。
「あら、リミア、顔色が悪いのじゃなくて」
かあさまがかけていく。わたしをおいてかけていく。ぱたっとたおれたねえさまのもとへ、かけていく。
「リミア? リミア!」
「……おおきくなった」
くろいモヤが、おおきくなった。ねえさまは、しろくなった。
「ルチア、まさか、あなたのせいじゃないでしょうね!」
わからない。わたしはなにもしらない。でも、わかっていることもある。
「かあさま、ここからはなれよう」
「なぜ! なぜお前ではなくリミアが死ぬの! お前が死ねばよかったのに!」
「はやく、はなれよう」
ほら、かあさまのうしろに、おおきくなったくろいこが――。
……ああ、そう。もうおそいのね。
大きな大きな黒い靄は、ルチアに一瞥をくれた後、郊外の森の闇へ消えて行った。後日ルチアが訪れることになるであろう教会の、その奥の森に。
教会で、ルチアはいろいろなひそひそ声を聞いた。
可哀想に。まだ十歳と幼いのに、父君に続き、母とも姉とも死別なさるとは。
引き取り手もいないのじゃあなあ。
そりゃあそうですよ。あの子の周りだけでシャンデリアが落ちたり、皿が割れたり。
普段おとなしい犬が暴れたという話も聞きますね。
そうして、ちらりとルチアに向く両目たちが言う。
もしかしたら、次の被害は自分に降りかかるかもわからないではないか。誰がそんな子供を引き取ろうというのだ。
ルチアは聞こえないふりをしながら、大人たちから出てくるたくさんの黒いモヤを見つめていた。まだまだ小さな黒い子は、大人たちの黒い服に紛れてそっと漂い、しばらくするとルチアのほうにやってくる。
ここに、いたくない。
「きぶん、わるいの」
ルチアが牧師に言うと、牧師は哀れに思ったか、外に出ておいでとそっとルチアの背中を押し、ルチアを黒色から解放してくれた。
外には夕闇。すでに沈んだ太陽は、空が生える根っこの方だけを赤く照らしていた。てんてんぽつぽつと煌めき始めた星が、闇色空に咲いている。
そして、ここにも。
闇色森に、ポツと一つの光が灯った。教会の裏口から出てきたルチアの瞳は、それを容易く捉えた。暗いだけの森を一点照らす暖かい灯は、黒色に疲れたルチアを誘い出すのに十分だった。ルチアは猫のようにしなやかな足を一歩、また一歩と踏み出した。ルチアの金糸の髪が森の方へ、ぽふぽふと弾みながら消えていった。
その光には冷たさなどなかった。だからもっと近づきたくて歩み寄っていくのに、光はその都度少しだけ森の奥へ入っていく。そんな追いかけっこをどんどん続けて、教会の方角も帰り道もわからなくなったころ、光は逃げなくなった。
光に追いついたルチアは、その光の正体を見た。光は、浮遊しているパペットの頭だった。その頭は南瓜。くりぬかれた眼と鼻と口は、ピエロと同じ動かない笑みを浮かべていた。身に着けているスーツはぼろぼろ。
普通の者なら、驚いて逃げ出したかもわからない。しかし、浮遊するものがいることは、黒い小さなモヤがいるのと同じように、ルチアにとっては特別不思議な光景ではなかった。なにせ、ルチアの周りにはそういったものたちが沢山いたからである。そしてそれら浮遊物は、決して恐ろしいものなどではなく、むしろ気味悪がって誰も近づかないルチアにとっては、友人に近い存在だった。ルチアは浮遊物を総称してタフトフと呼び、黒い靄はそのままモヤと呼んでいる。
ルチアはタフトフのパペットを真正面から静かに見つめた。
「あなたはだあれ?」
「人は私をジャックと呼ぶよ」
「あなたはなあに?」
「人は私を悪霊と呼ぶよ」
「あなたはどうしてここにいるの?」
「愛する人がいたんだよ」
あいするひと。わたしにもいた。ねえさまだけが、わたしとあそんでくれた。
あのおおきなくろいモヤは、あぶないこ。ねえさまをすいとった、あぶないこ。いつものちいさなモヤたちは、だれかのいのちをすいとったりしないのに。
「あなたは、あぶないこ?」
ルチアの問いに、ジャックは変わらない笑顔を浮かべたまま答えた。
「危ないよ。私は悪霊だから」
「じゃあ、あなたはどうしてそんなにあたたかいの」
「暖かい?」
「そうよ、だって――」
ルチアが確かめようと片足を踏み出そうとした瞬間、ジャックが大きな声を放った。
「動かないで!」
ルチアが反射的に止まると、ジャックは息をついてから言った。
「その一歩先は沼地だ。底は地獄の王の食卓。私はそこに人を落として、地獄の王に献上しているんだよ」
「あぶないこ?」
「そうだよ、だから引き返しておいで」
「ほんとうにあぶないこは、そんなことはいわないわ」
ルチアは真っ暗な足元に視線を落とした。
くらい、くらい――あのおおきなくろいモヤとおなじような。
「ねぇ、モヤはどうしてうまれるの?」
「シャトゥールのことかい? あれは人が何かを嫌悪したり、憎んだりしたときに生まれる鬼だが」
「いまも、わたしのまわりにいる」
「いるね、たくさん。霊やシャトゥールを引き寄せる体質の人間が稀にいると聞いたことがあるが、君はそれかな?」
ルチアは答えずに、自分の周りにいるモヤを見下ろした。彼らは一度ルチアに近づいて、重なろうと試みる。しかし、その乗っ取り作戦はうまくいかず、あきらめたモヤたちは周りの木に体当たった。これも、いつもと同じである。ある時はシャンデリアを落とし、ある時は皿を割り、ある時は犬に憑いて暴れた。
そこでルチアは思考した。
ねえさまをころしたシャトゥールは? わたしをのっとれなかったから、ねえさまにおおいかぶさったのだとしたら?
いいえ、あのおおきなシャトゥールは、わたしのほうへくるまえに、ねえさまのほうにいったわ。でも、わたしがひきよせたのだとしたら? それで、わたしよりさきに、ねえさまをきにいったのだとしたら?
とっくりと黙り込んだルチアを見て、ジャックはその南瓜の首をかしげた。
「どうしたんだい」
「わたしがひきよせたくろいこが、ねえさまをころしたかもしれないの」
ルチアは一歩先を凝視した。
「ねえ、ジャック。このぬまにおちたにんげんは、じごくのおうさまのところへいくのね」
「そう、だけれど」
「わたし、じごくのおうさまにあいにいくわ。ねえさまのいのちをかえしてもらうの」
ジャックが笑い顔を勢いよく上げた。
「馬鹿なことをしちゃいけない。代償として、君の命を持って行かれるかもしれないよ」
「かまわないわ。わたしは、ねえさまのためならなんでもするし、できるわ」
きっぱりとした声を放って、ルチアは一歩足を進めて沼の中に入って行った。