キャンバスの神様 5
未だに信じられない。あれは夢だったのではないか。そんな風にすら思ってしまう。布団の中に入ってもなかなか寝付けなくて。寝返りを打つたびに布の擦れる音が静かな部屋の中に響いた。
麻友の一世一代といっても過言ではない頼み。勢い余っててまで掴んでしまった。ひかりの顔が見れない。喉がカラカラに乾く。
しかし、ひかりはいいよだなんて二つ返事。驚きのあまり顔を上げると目に飛び込んできた笑顔。上がった口角、細められた瞳のなんと美しいことか。夕暮れがひかりの顔に、より濃く陰影をつける。麻友はそれをただ、舐めるように見つめた。
そんな衝撃的なことがあったのだ。そう簡単に寝ることなど出来るはずもない。結局、気晴らしにスケッチブックに筆を走らせていたら明け方になってしまった。
今までずっとひかりのことを窓越しから追い続けてきた。現に麻友の絵のモチーフは殆どひかりである。テニスコートを駆ける姿。全校集会で一度だけ見かけた居眠りの表情。廊下から見つけた姿。それは全て脳の中で、その空間を切り取ったくらいに鮮明に保存されている。それを記憶から取り出してキャンバスの上に再現することに苦労したことがなかったのに。どうしてこんなにも筆が進まないのだろう。生まれて初めてのスランプは麻友の心を思った以上に支配していた。
しかし、ひかりが手伝ってくれるというのであればこのスランプにも突破口が現れるかもしれない。スケッチブックに描かれた人体のラフ。それが以前よりも味気なく見えてしまって、麻友はそのページを引きちぎるとクシャクシャに丸めてゴミ箱に放り投げた。
朝になっても麻友の高揚感は収まるどころかどんどんと熱を帯びていた。ひかりには今日の放課後に美術室でデッサンに付き合ってもらう約束をした。
授業がひとつ終わる度に、気が気ではなくて意味もなくトイレに足を運んで手を洗ったり誰もいないのを見計らって、大きく深呼吸をしたり。早い話、麻友は浮かれていたのだ。
気分が最高潮の時というのは関係のないことまで楽しく思える。しかし、たった一つでも心配事が起こるとあっという間に心は曇るのだ。
昼休みのことであった。あと一つ授業を乗り切れば、ひかりとの約束の時間。居ても立っても居られなくて。昼食の場所に選んだのは初めてひかりと出会った運動部の部室練。
階段の下、一人で昼食をとっていた。大好きな唐揚げを一つまみ。再開した時はからあげちゃんだなんて呼ばれていたけど、今では麻友ちゃん、と呼んでくれる。
認識してもらえた嬉しさと、恥ずかしさ。心のパレットの中で交わって何とも淡く蕩けそうなクリーム色みたいな気分。
「…工藤さん。」
ひかりのことを想うのに夢中で、近付いてきた足音に全く気づかなかった。声の主を見上げると。キリッと意志の強い眉に、ポニーテール。確か、会議や部活でいつもひかりのサポートをしている二年生であった。
「あ、えっと。」
「…スポーツ特待クラス二年。赤城美湖。覚えていないのも無理ないわ。」
あまり話したことないものね。なんて、笑っていたが麻友を見つめる瞳は敵意すら感じるほどに鋭かった。
彼女が部室練にいるのは、おそらくテニス部の用事でだろう。なんら不自然なことではない。むしろ、麻友の方がここにはふさわしくない人間であった。美術部とはなんの関わりのないところだ。立ち入り禁止ではないにしろ、不用意に近づくのはあまりいいことではないのかもしれない。
「新妻先輩に会いにきたの?」
「いえ、そういうわけでは…。」
「まぁ、いいけど。」
侵入者を詰問する衛兵のような口調に麻友は身をひたすらに縮こませるしかない。
しかし、何故こんなにも忌み嫌う目で麻友を見るのだろう。麻友と美湖は会議でしか顔を合わせたことがない。言葉を交わしたことも無いはずだ。
「調子に乗らないことね。」
「え…?」
「新妻先輩、誰にでも優しいの。あなただけじゃないわ。」
返す言葉がなかった。麻友だけではない。そんなこと知っている。でも、麻友は少し期待をしてしまっていた。憧れのひかりと仲良くなれるのではないか、なんて。
じゃあね、と捨て台詞を残して美湖は去っていった。ポニーテールが揺れているのを何も言わずに見送るしかなかった。
視界がどんどんと曇っていく。眼鏡が機能しなくなってしまったのではないかというくらいに視界がぼやけていった。
「じゃあ、よろしく!」
美湖との一件があったせいで、あんなにも楽しみにしていた時間が苦しくて仕方ない。
あまり接点のない後輩のお願いをきいてくれたのはひかりの器が大きいからだ。麻友が特別なわけではない。きっと、この世の終わりのような顔をしているだろう。
キャンバス越しでよかった。こんな顔を見せてしまったらきっと心配されてしまう。ひかりは優しいから。
邪念を振り払おうと、筆から伝わる感覚に集中する。キャンバスにいくつもの線が走る。それらが絡まって人の形となり。やがていくつもの色と、陰影が幾重にも重なり一つの世界がそこに広がるのだ。
ひかりも、最初はあれこれ話しかけてきたが麻友の鬼気迫る筆さばきを何も言わずに眺めた。よく、キャンバスを前にすると人が変わるなんて言われるけれど。麻友からしたらこれが本来の麻友なのだ。普段の姿は幾重にも覆われた外面に過ぎない。
キャンバス越しに見つめるひかりは大層美しい。日に焼けているのに、つるりとみずみずしい肌。まつ毛は隙間なく映えていて人形のよう。
首元、喉の段々。息を飲むとそこがゴクリと動くものだから。生の象徴のよう。年端もいかない女性特有の爽やかさを切り取ってキャンバスに閉じ込める。
ああ、ひかりの全てをキャンバスに閉じこめたい。
前はガラス窓越しであったから抑えられていたのだろう。こうして同じ部屋で、向かい合ってしまうともうダメだ。欲から欲が次々と出てきて麻友を知らないところに引きずり込んでくる。
二人の視線が絡む。オニキスよりも美しくパールよりも存在感がある瞳。その瞳に差す茜色すら愛おしく感じる。
「麻友ちゃん。」
一息ついたところで、ひかりが呼び止めた。あっという間に現実に引き戻される。麻友は答えることが出来なかった。自分の空想の世界なのか、それともここは現実なのかよく分からなくなってしまったから。
「何か、あった?」
「…な、何も。」
「本当に?」
「ただ、新妻先輩が綺麗で夢中になってしまって。」
自分でも何を言っているのかよく分からないくらいに混乱していた。ひかりは麻友の言葉にただはにかむだけであった。