キャンパスの神様 4
次の会議も。その次の会議も。麻友は千春のサポート役として同席することとなった。
回を追うごとに、流石に会議そのものに慣れてはきたのだが。どうも、ひかりと近くの席になるとドキドキが止まらなくなるのだ。会議の内容が頭にまるで入ってこない。サポート役だというのに、サポートどころか千春に迷惑までかけてしまう始末。
それでも、麻友なりに頑張ってみせた。絵のこと以外でこんなに自分からは動くことは初めてかもしれない。こんな自分を後任の候補生として選んでくれた千春のため。そして、もう一つは。
「お、麻友ちゃん!早いねー!」
ひかりに少しでも良いところを見せたいのだ。彼女は自分の立場に奢ることもせず、麻友のような新参者にも親しげに接してくれるのだ。
クラスメイトの中でも、やたら生徒の情報に通じている者がいる。彼女曰く、新妻ひかりの人気の秘密はただの高嶺の花に留まらない気さくさだなんて評しているのを思い出す。
人のいないところで寄ってたかって評価をする姿勢はあまり関心しないが、彼女のいう通りだと思う。一学期の初め頃に一言二言交わしただけの麻友にさえ親しげに話しかけてくれるのだから。
「あ、あ…掃除がっ、早く終わったもので。」
「寄り道もせずに感心感心。そうだ、美術部展示の運搬の件なんだけど。」
一つの資料を身を寄せ合って二人眺める。制服の擦れた音がやけに耳に残って、ひかりの声を拾うのに必死だった。
文化祭は文化会がメインとなり運営を行っていく。それをサポートするのがスポ会。運搬業務も彼女たちの役目だ。さらに運営で発生する資金や、発注物の管理は生徒会。
イベントが変わればメインで動く会も変わる。長い歴史の中で培われたやり方は洗練されていて効率がいいのだ。
麻友が担当するのは美術部の展示の間取りや運搬時間。部長の千春は全体の動きを見ている。それに自分の展示もあるのだからそこまででは回せない。麻友ならしょっちゅう美術室にいるから他の部員の進捗も把握している。どういう作品で、サイズはどれくらいか。それを確認しながら段取りのいい搬入方法を組み立てるのだ。
「にしても、大変じゃない?一年でこれやるの?」
「で、でも。千春先輩の方が、大変です。」
「千春もいい後輩を持ったもんだ。」
腕を組んで大袈裟なくらいに頷くひかり。なんだか褒められたのが恥ずかしくて俯いて見るけれど、昔のように顔を隠す前髪はない。ひかりが美術部展示の運搬を仕切ることになったのは、千春の計らいでもあった。
千春曰く、麻友が知っている人間の方がやりやすいだろうと。実際、人見知りの麻友にとってはありがたい采配。
「しかし、麻友ちゃん。そっちの方がいいな。」
「え?」
「前髪が短い方がいいな。麻友ちゃんのつるんとしたオデコが見える。そっちの方が好きだな。」
前髪に触れる指先。てっきり覚えてないと思っていた。髪を切ってだいぶ印象が変わったと思う。それを覚えていたなんて。麻友はそんな目を惹く容姿ではないし、進んで人前に出ることなどはしない。
「え、な、なんで…。覚えてるんですか?」
「なんでって言われてもなぁ。」
少し考えた後、ひかりは微笑んだ。それはあまりにも美しく、麻友の心に痺れるような衝撃と、全てを吹き飛ばすような突風のように心の中を吹き荒ぶ。
「よくわからないんだけどね。麻友ちゃんのこと気になるのかな。」
その一件があってから麻友は、益々ひかりのことが頭から離れなくなっていった。授業中も、絵を描いている時も、夜ベッドで眠りにつく時も。思い出すのはひかりの事ばかり。
額の辺りに触れた、指先の感触が拭えなくて。心を過ぎる度に叫びたくなるほど感情が高ぶる。初めての感情は、麻友の心をぐちゃぐちゃにかき乱して。その痕跡を何度もなぞりながらそのディテールに心をときめかせるのだ。
「あ、麻友ちゃん。今日この後、運搬係が打ち合わせに来るみたいだから。よろしくね。」
そろそろ納期も迫る残暑の頃。千春は矢継ぎ早に麻友に伝えると美術室を後にした。文化会の三役と、美術部の長としての作品制作に追われている彼女にも疲労の色が見える。
麻友にとって、千春は何でもできるスーパーウーマンのような存在だ。しかし、そんな彼女ですら余裕がない感じがヒシヒシと伝わってくる。それ程までに文化会と美術部長の両立が大変なのだろうと思い知った。
一方の麻友も、好調なわけではない。何故か、全く筆が進まないのだ。今までこんなことはなかった。気に入らない部分が出てくれば寧ろ燃える方なのに。筆を取ることすら億劫な時がある。
全身の空気を入れ替えるように一気に深呼吸。自分の心内が、どうも停滞してしまっている気がするのだ。大きな感情に堰き止められて、全体が廻らずどんどん淀んでいく。今までに感じたことのない感覚。
「麻友ちゃーん!入るよ!」
ガラリと扉が開いた。そこにはひかりが立っている。搬入関係の大部分を、更に言えば美術部の搬入の責任者に携わっているひかりが来るのは決して不自然ではない。しかし、今は何となく顔を見たくない気がした。停滞している自分を見せたくない。
「…何かあった?」
「え?」
「いや、何となく。ね。」
ひかりは恐ろしく感の鋭いところがあった。今も麻友の抱えている停滞をすぐに見抜いてしまう。麻友は、尊敬と少しばかり恐ろしさすら感じてしまった。
「なかなか、展示の作業がうまく進まなくて。」
「文化会の作業もあるからね。…そうだ!私がモデルになったら解決しちゃうんじゃない?なーんてね!」
それは、麻友を元気付けるための戯けだったのかもしれない。でも、麻友にとってそれは突如現れた救いの手に感じた。思えば麻友はずっとひかりをモチーフにして絵を描いてきた。それが、深く関わりを持つことによって。窓ガラス越しの姿では満足できなかった。
欲が出たのだろう。もっと、近い距離でひかりを描きたいと。叶わぬ願いが創作のモチベーションを阻害していたのだとしたら。
麻友はひかりの手をそっと握った。ひかりは大人しい後輩の大胆な行動に目を見開いた。麻友はゆっくりと口を動かす。発された声は情けなく震えていた。
「新妻先輩、絵のモデルになっていただけませんか?」
初めて自分から触れたひかりの手。肌の滑らかさに、思わず喉がなってしまった。