キャンパスの神様 1
キャンバスに向かう。筆を握れば麻友は今この瞬間、神様になる。
白い世界に筆を縦横無尽に走らせる。ある時は水面。ある時は星空。全て、麻友の作り出す風景。それらは一つ一つが現実を帯びていて。
鼻をくすぐる潮の香りや、頬を撫でる風を思い起こさせるのだ。全てがその筆をなぞった所から芽吹く。
麻友の息遣いだけと筆がキャンバスをなぞる音だけが響く。茜差す、美術室の片隅で。小さな神様は一心に世界を作り続ける。
【キャンバスの神様】
工藤麻友の印象を他のクラスメイトに聞いたら九割九分くらいで「絵の上手い子」という答えが返ってくるだろう。
お下げ髪に眼鏡。147cmの低い身長。クラスの中心から少し離れたところでいつも絵を書いている。自分から誰かと接点を持つわけでもない。放課後は絵画教室がなければ美術室で絵を描く。
特別に優等生ではないし、だからといって寄り道をするような不良娘でもない。
私立S女子高等学校。S女子、の略称は都外でも知らない人間はいないくらいには有名な学校だ。伝統のある女子高。歴史は大正までに遡る。
華族の令嬢の為に作られた花嫁修行の場が元になっているらしい。それが時代の流れに合わせ勉学を学ぶ場になり、現在のような形になった。
昔は由緒正しい家柄の娘ではないと入れなかったようだが今では特に出身などを問わず門戸を開いている。
とは言っても少しばかり他の私立高校に比べれば学費は高い。それに学力も平均水準より高い方だ。それなりに裕福で、育ちの良い娘でないと入学は難しいとされる。
しかし、麻友の家は特別裕福というわけではない。普通の会社員の父に、パートに出ている母。先日就職して出ていった姉、そして麻友。平均的な四人家族。家柄にしても華族出身の人間は家系図にいない。強いて言えば、父方の祖父母の家が地主であるくらいだ。
麻友が此処に通う一番の理由。それは普通の女の子である麻友の、唯一普通ではない才能。
「工藤さん、また金賞だって。」
「凄いね。今度都庁で表彰されるらしいよ。」
職員室に飾られた一枚の水彩絵。
麦わら帽子を被ったショートカットの少女が自分より背丈が大きいひまわり畑の中で微笑みを浮かべている。
その絵からは蝉の鳴き声、或いは蜃気楼、空気が揺れる様が映し出されそうなくらいにリアル。麦わら帽子の少女の、肌のキメまでクッキリと見えてきそうだ。
麻友の描く絵には何とも不思議な力がある。
絵画の中から手が伸びてきて、心を掴んで引きずり込まれたようだ。批評には何とも詩的な表現で麻友の作品の魅力を評価しようとしている。
しかし、審査員の語彙力を持ってしても作品の魅力は伝えきれてない。
S女子には文化特待生という制度がある。
音楽や芸術活動が得意なものを対象とする特待生制度。運動部に対する特待生制度とほぼ同じだ。
中学時代に特別な成績を収めた者はS女子の特待生枠での受験が可能なのである。
麻友もその特待生として入学をした。学力は行くか行かないかであるがそんなものは特待生には関係ない。才能が全て。
そして、このS女子に置いては特待生として入学した者は憧れの対象として崇められる。女子校という独特な社会が更にそれを助長させて、一般生徒達から一種のアイドルのような扱いを受けるのだ。
麻友も特待生としてその例外ではない。知らぬ生徒からからすらこうして声をかけられることがある。
「あら、工藤さん。おはよう。」
「ねぇ、今日の放課後。良かったら松永さんのお家に行きません?工藤さんの作品入選のお祝いも兼ねて!」
「え、あ、その…。」
「美味しい紅茶、ご用意するわ。」
しかし、麻友は致命的なまでに人見知りであった。
ただ、自分は絵を描きたいだけなのにこうして寄ってたかられてしまうのは苦痛以外の何者でもない。
キーンコーンカーンコーン。
喧騒をチャイムの音が割っていく。目の前の生徒達の意識がそちらにいったのを見計らって、麻友は踵を返した。
廊下を走るのは校則違反だから、早歩きで。背後から聞こえてくる引き止める声。聞こえないふりをして、目指すのは麻友が心を落ち着けられる、唯一の空間。
小さくため息をついて、戸を閉める。今日も一番乗り。ここは、文化特待生のみが使用を許された美術室。
各々が使いたい時に専用の鍵を使って自由な利用を許されている。
麻友はこの空間が大好きだ。少し古びているが、かえってそれが心地いい。画材の香り、デッサン用の石像が窓から差す夕日を浴びて陰影が際立つ。
麻友の特等席はテニスコートがよく見える窓際。授業が終わって少し経てば部員達がどんどんと集まっていく。やがて打球の心地いい音が聞こえてきた。続くラリーの、乱れぬリズム。それを眺めながら麻友は今日も筆を走らせるのだ。
目線の先にはたった一人。申し訳ないが対峙する生徒は目に入らない。テニスコートという部隊で華麗に舞う彼女。
ある時から、麻友の絵は彼女をモデルにした絵ばかりになっていた。長い四肢、黒々としたベリーショート、そして去年の夏の日焼けの名残だろうか。
幾分色黒な肌がテニスコートの緑によく映える。プリーツば旗めいた。そこから覗いた太ももは瑞々しい。
呼吸を忘れてしまうくらいに夢中で、窓の向こうの彼女の様を一心不乱に筆で彼女をキャンバスに象っていく。
新妻ひかり
絵以外に、誰にも興味を示さない彼女が唯一自分から名前を知りたいと思った生徒。名前の如く全てがキラキラとしていて。ハンサムなルックスに170cm近い身長、そして何より引き締まった肢体に走る筋肉の筋。
初めて出会ったときの衝撃を今でも忘れられない。まるで小さい頃、夢中になって読んだ絵本。
それに出てくる王子様に出会ってしまったのかと、本気で錯覚したくらいだったのだ。