山頂の雑談
麻辺・瀬良・リレイは相変わらず、誰一人言葉を発さない。全員が座り込み、謎の頭痛とそれに伴う諸症状がいつの間にか消えてしまわないか、と思っていた。しかし現実は無情であり、症状を自覚し耐える選択をした時点で、それと付き合い続けることを意味していた。
風がざわざわと彼らの周囲を通り抜ける。周囲の木々――麓と比べると森林限界によりかなり低くはなっている。山頂付近に木は無く草原の状態だ――を見上げてはやり場のないそれの解消すらできず、視線を落とすことを繰り返していた。
「……ハハ、何やってんだか……」
不意に、瀬良が自嘲的な声色で言う。
「こんなとこでボーっとしてても意味ねえわ。さっさと歩いて、そんで……ベッドで寝てえなあ……布団で寝たい……風呂入りたい……自分が臭え……」
「……そうね。はやく帰りたい……謝りたい……『役立たず』になってごめんなさいって……」
瀬良のそれにリレイが乗る。会話ということはできないが、独白ということもできないようなそれだった。唯一無言の麻辺は、リレイを降ろした時と一ミリも変わらない姿勢で地面をただ見ていた。
「三週間洗ってない動物園のニオイがしやがる……くっせ……吐き気してきた……」
「吐かないでよ……っていうかどんなニオイよそれ……」
「知るか……三週間洗ってねえ動物園とか行ったことねえよ」
「じゃあなんでそのニオイだってわかるの?」
「俺天才だから」
「嘘だぁ……」
そんな他愛もないやり取りを終えると、瀬良は大きく息を吐きながら立ち上がった。彼は高山病の症状が三人の中で最も軽かったというのもあるが、この二人と共にいつまでも座り続けるのが耐えられなかったのだ。
「行くぞ。四日なんだろ。さっさと眠りてえ」
「あくまで国境だから……安全地帯は六日……」
「知るかよ……ならやっぱり行くしかねえし……」
立ち上がったことで襲い掛かってくる頭痛に瀬良は歯を食いしばる。数度の深呼吸をすると、彼はまずリレイの左腕を握り無理矢理立たせた。
「っ……痛い……!」
「仕方ねえだろ……クソッ、はぁー……麻辺、抱えるからな」
「私にも先にそう言ってほしかったなぁ……」
瀬良はリレイのことは無視し、未だに反応を見せない麻辺のことを抱きかかえた。さすがに両手が使えないことは不安だったので、彼は麻辺のことは俵担ぎにした。そして山頂を目指す。リレイもふらつきながら、山杖を頼りに歩き始めた。
彼らが無言で座り込んでいた地点から山頂までは、直線距離では五十メートルも無い。だが、今までの疲労と傾斜、そして足場の悪さがその行く手を阻む。そのため彼らが山頂に辿り着いたのは三十分が過ぎようとしていた。
「ゲホッ、……っハァァ‼ 着いた、てっぺんだ!」
やはり一番先にそこに着いた瀬良が叫ぶ。彼はひとまず麻辺のことを下すと、担いでいたことにより強張った肩を軽く回した。そして後ろを振り返ると、リレイがふらふらとしているのを見て彼は無言で降りていく。そして、やはり無言で彼女のことを抱えると山頂まで上がり、麻辺の隣に下した。
「……まあ、お礼は言っておくわ。ありがとう……」
「ウワきっもち悪! 鳥肌立った! ……いやマジで気持ち悪ぃ……吐く……」
「……。
アサベさん、だいじょ……じゃなくて、その、平気? 顔がすごい、真っ白だよ……ちょっと休憩しよ?」
「休みてえのはお前だろうが……。麻辺を使うな」
「私が休みたいのは本当だけどアサベさんのことも想って言ってる! あ、イタタタ……あ~た~まぁ~……」
リレイはそう言って俯いた。隻腕の彼女はその痛みを紛らわせるために頭を抱えたり、再びしゃがみこんだりすることができなかったのだ。正確に言えば後者は可能ではあるものの、再び立ち上がる時には誰かの手を借りなければスムーズにいかず、そして今借りられる手は瀬良であったため彼女はそれを避けなければならなかった。
そんな様子を、麻辺は頭を上げられずに感じていた。
(情けないなぁ……頭痛いくらい、耐えられるのに……)
彼はそう思うも、それを行動で示すことはもちろん、言葉で主張することすらできなくなっていた。口を開こうとすれば空のはずの胃から何かがこみあげてくる感覚があり、無味であるはずなのに彼の脳は苦さと酸っぱさが最低の調和をした味をそれの持ち主に錯覚させていた。
体も全くいう事を聞かなかった。立ち上がろうにも力の入れ方を忘れてしまったかのように動かない。脱力し倒れることすらできなかった。それは自分にだけ重力が働いていないのではと麻辺に思わせるほどで、彼は瀬良に下されたときと同じ体勢のまま、密かに焦っていた。
(体も駄目、頭も駄目……考えられても口が動かない……! これじゃあ僕、『役立たず』ですらない……)
そんな焦りを抱えていても、麻辺は無表情だ。表情を変えることすら今の彼にはできない。顔色こそリレイの言う通り血の気の引いた土気色ではあるものの、それは体調不良という彼らが理解し共感する状況によって消化されていく。
「おいガキ」
そんな麻辺の心情は理解することができない瀬良が、リレイに語りかけた。
「……何」
「はぁ……とりあえずてっぺんまで来ただろ? 色々見えるじゃねえか。後ろは……あー……なんかのタワーと……工場か? なんか燃やしてるな。右は遠くに森、左も遠くに森、正面も遠くに森だ。……見覚えあるもんねえのか? クロなんとかの城とか見えねえの?」
瀬良の言葉を受けてリレイは顔を上げた。
確かに見渡す限り、眼下に広がるのはどこまでも続く青い草原だ。風によってその草葉が体を低くしていく流れが見える程度しか変化はない。
だが、その目線を上げれば背後には人造物の影があり、そのほかの方向にはそびえたつ山の影があった。ただの山々ではあったが、リレイは目を凝らした。特徴的な何かを見つけ出そうとしたのだ。
「まずだけど……後ろのはやっぱり《ロザ》。あれはきっと……農業都市アグファリム。……燃えてるのはね、山を焼いてそこにある命を全て神に捧げると、神はその命の代わりに沢山の作物を実らせるから……」
「……要するに焼き畑か」
「ヤキハタ? そういう言い方もあるんだ……。それで、正面からちょっと左側見れる? 変な形の山、見える?」
リレイの言葉を受けて瀬良は視線を少しだけ左にずらした。先程彼が見たときは森だと切り捨てたが、確かに山というには特異な形をしているものがあった。かなり高い山なのだろう、山頂付近に木々は無く白い雪をかぶっているその山は、まるで火口をこちらに向けているかのように思わせる「何か」があった。
「……なんかよく分かんねえ……変なやつか。雪かぶってる……」
「そう。あれは《シンシェ》を見守ってくれている山……。不思議なものが見えるでしょ、あれはね、……その人が望むものとか、おそれるものとか……わからないけど、そう見えるんだって。
……私には、あれが……不思議な武器に見える。……《ロザ》を倒してくれるのか、それとも私を攻撃するのかは……わからない、けど」
「あっそ。……俺には……目ん玉か? 見られてる気がすんな。……つまり俺は見られてえのか? 見られたくねえのか?」
そう問いかけの形を残して呟いた瀬良のことを、リレイは一瞬だけ見てすぐに視線を外した。
「知らない。興味ない。……アサベさんは何に見える? 気分は、少し楽になれそう? 少し喋ってみると、ちょっとだけ楽になってくるよ」
「……」
麻辺は自分のことを分析した。相変わらず頭痛はする。胃の中に何もないのに吐き気がこみ上げる。彼は空腹には慣れているが、それでも喉の渇きは深刻だ。それなのに口にする気は何も起きない。心の中で、かなり深刻な状況なのだろう、と彼は結論付けた。
そんな彼はリレイの言葉を受けて、彼女の言う「何か」を見ようとした。現状自分が何の役にも立っていないから、せめて彼女との雑談はこなそうとしたのだ。そうすることが今一番しなくてはいけないことだと彼は解釈する。脳の伝達信号ですら痛みになっているのでは、と思わせるそれを麻辺は押し込み、ゆっくりと顔を上げた。
麻辺はずっと下を向いていたから、その視界に太陽の光が溢れる。その眩さに目がくらみ、吐き気となって襲い掛かってくるが彼はそれを飲み込んだ。視界が慣れてくると、麻辺の目の前にリレイがいた。彼女は笑みを浮かべている。
「顔上げてくれた! ……よかった、アサベさんちょっとだけ元気になった!」
「痩せ我慢じゃねえの? お前が強制したんだろ」
「うるさい! 黙っててよ、ッ……まだ大きい声出せない……うぅー……。
それでね、あの山なんだけど、アサベさんは何に見える? 私は武器で、アレは目なんだって」
「『アレ』って、おい……もう運んでやんねえぞ」
「いいもん歩けるから。もう手を貸してくれなくていいでーす」
「じゃあその枝置いてけよ。それ俺が見つけたんだからな」
「えっ、え、それは、え……あー笑ってる! 子供をからかうとかサイテー」
「からかってねえし。本気だし」
瀬良とリレイのやり取りは聞き流し、麻辺はその「何か」を見た。ぽっかりとこちらにその存在を知らしめている「それ」。
(……ただの、山……雪が溶けて……そこに何かが造られてるだけ……誰にも見られなくなってる……?)
麻辺はそう思う。彼は現実をそのままに解釈していた。望むものも、おそれるものも麻辺はそこに見出すことができなかったのだ。
「……えっと」
「はいはい黙って! うるさいから! で、アサベさん。アサベさんは何に見える?」
ワクワクとした表情のリレイを見て、麻辺はその期待に応えることができないのだと悟った。だが、嘘をつく利点も見られず、彼はそのままを口にしようとした。
が。
「敵……」
麻辺の口が自然に動く。だが、彼はそれが当然だと思っていた。
「敵?」
リレイが聞き返す。それは当然のことだった。彼女は麻辺が「何か」をもっと具体的なものとして感じていると思っていたのだ。「敵」はあまりに抽象的過ぎる。
「アサベさん、敵って――」
彼女の言葉は続かない。
三人の足元に不思議な陣があらわれた。