無知の無計画
リレイの父が持つクロッシェンの地へは一月以上かかってしまうという予測から、一行は今いると予測される《ロザ》の地から、四日かけて《シンシェ》との国境を目指すことにした。
昨日と同様麻辺がリレイを背負う。彼女はその背中の上から道案内だ。瀬良は自分の荷物であるリュックを背負い、高校の制服であるブレザーを腰に巻きつけ、スラックスは膝のあたりまで捲っていた。
「なあ麻辺、腕捲ってたら威嚇になると思うか?」
洞の外に出て、五分ほど歩いたときに不意に瀬良が口を開く。
「え? えっと……たぶん、なると思」
「ならない!」
麻辺が瀬良の言葉を肯定する途中に口を挟んだのはリレイだ。彼女は瀬良のことを呆れた、そして蔑むような目で見ている。そんな目で見られた瀬良は反射的に手を出すことこそしないものの、かなり強い口調で言い返した。
「俺は麻辺に聞いたんだよこのクソガキ! 学校では不良共と喧嘩してるし小学校まではバスケとサッカーと野球やってっから筋肉はあんだぞ!」
「筋肉なんて無意味! そんなことも分かんないの⁈ 今まで何してきたのよ!」
「うるせえな! 俺は強えんだぞ! 二年の中じゃあリーダーなんだかんな!」
「はぁ? 意味わかんない! 『ニネンの中』ってことはちっさい括りでしかリーダーじゃないんじゃん! そんな程度で威嚇って本当に何してきたの‼」
「アァ⁉ テメェ喧嘩売ってんのかよ! ぶっ殺すぞ‼」
「殺す? 私を殺していいの? そしたらアンタ敵につかまっちゃって殺されちゃうよ!」
「殺されねーし! むしろ俺が殺しまくるわボケ!」
「あーどうだか? いいもん、私アサベさんと逃げるもん」
「そのヒョロモヤシと? 自殺行為だぞばーか」
「うるさいお馬鹿!」
「あ゛?」
「何⁉」
「……」
はじめは抑えていた二人の声量が次第に大きくなっていくことに、麻辺は静かな焦りを感じていた。どうにかして口を挟みその言い争いを中断させようとするが麻辺はそのタイミングをつかむことができずに、まるで酸素を求め力尽きる寸前の金魚のように口をわずかに動かすことしかできない。
言い争いは呆れるほど低レベルになり、それでもなお続く。麻辺はそれを自己の認識から遮断しようと考えた。瀬良の言葉はもちろんだが、リレイの言葉からも自分が置かれている状況の確信を得ることは難しくなったと判断したのだ。
瀬良とリレイの幼稚な言い争いは一時間半続き、三十分前に終わりを迎えた。今、二人だけではなく麻辺も無言である。
その理由は簡単だ。森の正反対に出るために、三人は山頂を通る形で突っ切ることを選択していたのだ。リレイはこの形で進めば森自体は半日もあれば余裕で越えられるようなものと予測した。森に沿う形で平地を進む案もあったが、相変わらず瀬良のスマートフォンは役に立たず方角を正確に知るのは困難だった。また身を隠せる場所が限られるという点ですぐにその案は捨てられたのだ。
敵襲に備えるという点ではこの進み方は良いものになる、と彼らは予測していた。だが、三人は肝心なことを忘れていたのだ。
「……ッ、クソ……」
「頭痛い……もうやだぁ……」
ほとんど休みなしに三人は移動を続けていた。結果として山頂が見える位置まで一気に進んだものの、それは身体に山の薄い空気に慣れさせる時間を与えないということを意味していた。また、麻辺と瀬良は意識を取り戻して以降ほとんど歩き通しであり、リレイは片腕を失いそれに伴って血も失っている。
つまるところ、三人はそれぞれが疲弊していた。結果、揃って高山病になってしまったのだ。そしてその三人がこの病についての知識を持っておらず、暗黙の裡に「行ける所まで行く。せめて今日中に山を下りる」という判断を下していた。
一番前を歩く瀬良が何となく振り返ると、表情を険しくして立ち止まった。
「おい、お前歩けよ……。麻辺を殺す気か……」
彼は隣に麻辺がやってくると、リレイを睨みながらそう吐き捨てた。長く続いていた誰にでもない罵倒や弱音を繰り返す状態を終わらせたのだ。
その言葉を正面から受けたリレイは不快感をあからさまに示すも、麻辺の横顔を覗き見てそれはすぐに奥に引っ込んだ。
「やっ、やだよ……アサベさんもういいよ……私歩くよ……」
「……」
「降ろしてアサベさん、私アサベさんに死んでほしくないから……。お願いアサベさん……」
「……大丈夫、だから……」
「アサ」
「大丈夫じゃねえだろ……ぅあ゛ー……クソ……痛ぇし眠ィ……」
「……大丈、夫……僕は全然、辛くないし……」
麻辺は強情だった。彼は「リレイを運ぶ」という役目をひたすらに果たそうとしていたのだ。リレイを背負っているという点で一番消耗が激しいのは彼であり、一番その症状が重いのも彼だった。
リレイがもう一度麻辺に自分を下してほしいと頼む。だが、彼女も消耗している状態だから、その声は弱々しいものだった。その声色が余計に麻辺を強情にさせる。彼は首を横に振り、リレイに言った。
「大丈夫……本当に……あの、大丈夫だから……。えっと、リレイさん、僕……あの……けっこう頑丈だから……。今までね、学校休んだことないんだ……殴られても、何されても……」
「ちょっと?」
「……知らねえし……」
麻辺の言葉を受けてリレイが瀬良を睨む。瀬良はただ居心地が悪そうに呟いただけだった。
「うん……大丈夫……僕まだ歩けるから……リレイさんを……運べるから……」
そう言って麻辺は歩きだす。このやり取りの間立ち止まっていたのを取り戻そうとするように大股だ。だがその足取りは、深夜の酔っぱらいの千鳥足すら頼もしく見える程度のものだった。彼はもはやただの意地で歩き続けていたのだ。
「ふざけんなよ……お前はいいかもしんねえけどな、俺は嫌だからな。お前が死……お前が倒れたらこのガキ運ぶの俺なんだろ……ぜってー嫌だからガキ歩かせろや……」
「大丈夫です……僕はだい、じょ……ぶ……だから……」
もはや麻辺のそれは暗示だった。さすがのリレイも瀬良に助けを求めるような視線を向ける。その視線を受けて瀬良は大きく息を吐いた。そのまま数秒思案すると、舌打ちした。彼は背負っていたリュックを前抱えの状態にすると、今まで空いた距離を詰める。
「ガキを降ろせ」
「瀬良く……あの僕、大丈夫だから……本当に、だい……」
「大丈夫は信用なんねえよ。……俺がとりあえず運ぶから降ろせ」
「えっ待って!」
予想外の申し出にリレイは反射的に声を出す。
「黙ってろよお前は……お前は俺が死んでもいいんだろ。だったら大人しく背負われとけよ。……こいつ死んでもお前を歩かせねえ気だぞ」
「……」
「麻辺」
「……リレイさんは……僕が……」
「……はぁー……」
「アサベさん……もういいよ。ここまで背負ってくれてありがとう。……これからは……この人に背負われるから……アサベさんは気にしないで」
「……」
「アサベさん、もう私を背負わなくていいよ。私を大事にしてくれてすごい嬉しかった。ありがとう」
「……最後までできなくて、あの……すいません、でした……」
リレイの言葉が最後の一押しになり、麻辺はそれを受け入れた。彼はゆっくりとしゃがむと、リレイを自身の背から降ろす。彼女の体温が離れ、それが高所ゆえの低気温に奪われても彼は立ち上がることができなくなっていた。「リレイを運ぶ」という使命感が彼を二本の足で立たせ、歩かせていたのだ。
そんな麻辺の様子を見て、瀬良とリレイは顔を見合わせた。この状態で争うほど二人は愚かではなかった。
周囲を見渡した瀬良は、二人から離れる。三十秒後に彼は太い木の枝を片手に戻ってきた。細かく枝分かれした枝を落とすと、それをリレイに差し出した。
「ガキ。お前、歩けるか」
「……ゆっくりなら。時間はかかっちゃうけど、でも、歩くよ。……歩ける」
リレイはそれを受け取りながら頷いた。瀬良が持ってきた木の枝は彼女にはいささか太すぎるが、山杖としての役割を十分に果たせるものだった。
山杖として使える木の枝を見つけ出してきただけではなく、それを枝分かれしていない一本の杖にしてくれた瀬良について、リレイは麻辺の言った通り「優しい人間」なのではないかと思ったが、彼女はそれを認めるのが悔しかったのでもう一度彼に向って頷くにとどめた。
「いざとなったら蹴っ飛ばして運んでやるから泣いて感謝しろよ。
……つーわけで麻辺、背負うのはお前だ。お前も俺に泣いて感謝しろ。お前限定で笑ってでもいいぞ、でも跪けよな」
「……駄目……リレイさんを……僕は……僕、は……平気……」
「いや一番駄目なのお前なんだよ。足手纏いなんだよ今のお前は……ったく。平気っつうならせめて立てやクソが」
瀬良が乱暴な口調で吐き捨てる。その態度にリレイは先程の自分の思いが間違いであると思い、同時にそれを表に出さなかった自分を心の中で褒めた。
「つかさ……なんなんだよこれ。頭痛えし眠いし腹減ってんのに食う気おきねえし……」
「私も頭痛い……私アサベさんに背負われてたのにすごい疲れてる……」
「麻辺は見たところ頭痛と眩暈か? ……呪われてんじゃねえのこの山……疲れた……」
「そんなことない……と思う。麓にあったシェラクは癒しの木なの。呪いじゃない……」
「癒しィ? 本当なら出てくる前に持ってくりゃ良かった……あぁ……頭痛え……あと寒ィ……」
瀬良はブレザーを羽織ると釦を留めた。その金髪さえ除けば校則が定める通り正しく制服を身につけている人間となった。もしこの状態を彼の通う高校の生徒指導が見たら腰を抜かしただろう。
「……。アサベさん、大丈夫?」
「はい……すいま……せん……大丈夫……」
「『大丈夫』って聞いたら大丈夫ってしか答えねえんだぞこいつは……」
「そうしたのは」
「はいはい、俺達ですよ……俺ですよ……ったく。嫌なら嫌って……言え……ねえか……はぁぁ……」
瀬良がリレイに目を向けながら言う。彼はそのままリュックを抱える形で座り込んだ。
「疲れた……もうここで野宿すっか?」
「……」
「それともさっさと下山か? 呪われてんならちょうどいいだろ……いっそのことなんだ……滑落するか? そしたら麓まで一気だろ。最高じゃん」
「死んじゃうよ馬鹿」
「黙れやボケナス。策がないガキは黙ってろ」
「……」
「……」
「……」
再び三人に沈黙が訪れる。それも打開策のない、気まずさよりも険悪さの色が濃い沈黙だ。
そんな三人の頭上を、この空気を知らない鳥が飛んでいる。