獲物の輪郭 ※
切断、流血、嘔吐
瀬良の脳裏に浮かんだのは麻辺だった。普段の彼からは、それこそ初めてその存在を認識し声をかけた小学生の時に抱いた印象——誰とも喋らず、周囲から敬遠され陰口を言われ、そんな状況に萎縮し消えていたいような——とは決して結び付かない像。目隠しによって姿を見ることはできなかったが、それでもそう話すことが決まっていたかのように紡がれていく言葉。
(俺にはできることじゃねえわ……)
そんな風に思いながら、彼は問題を先伸ばしにすることに重点をおいた物語を始める。
「なあ、お前らはこれが分かるのか?」
瀬良は両手を挙げて不戦の意を示しながら二人に近づく。それを赤毛の男——オルトは微笑みながら、オーガスタは槍を構え警戒心を強くしながら眺めていた。
「いきなり巻き込まれちまったんだ」
「巻き込まれた?」
(……よし)
オルトの問いに瀬良は心の中で頷く。少なくとも、オーガスタが一歩踏み出さない限りは目の前の男が自分に関心を持ち続けることが理解できたからだ。
瀬良は次に続けるべき言葉を考える。文字通り出まかせのそれを矛盾なく仕上げていくことに彼は慣れていない。考えてからでなければ、彼は言葉を紡げない。
「俺、ここの所属だったんだ。懐かしいしちょっと見回って、なんなら稽古の一つでもつけてやろうかと思ったら誰もいなくてさ」
瀬良はこの地域の兵士は少年兵だと考えていた。彼らが徴兵されるようになったのはつい最近ではないことにかけて言葉を続ける。
「訓練に巻き込まれたって考えるにはどうも俺の中の常識とは合わねえ。離脱しようにもうまくいかねえし、なら少しでも状況を探ってやって、不具合とか見つけて感謝されるのも悪くねえな、とは思うんだけどさ……手詰まりなんだよ」
言葉を切り、瀬良は二人の顔を交互に見る。リレイの体でオーガスタは警戒を隠さず睨み続け、オルトは前髪で目が隠れていても興味を持っていることが分かるくらいに突然の乱入者を観察していた。
「あぁ、手を下ろしてくれて構わないよ」
五分以上無言で、面白そうに瀬良の周囲を足取り軽く動き回って観察していたオルトが瀬良の背後、彼の死角に入って足を止めて口を開いた。
オルトとオーガスタで挟みうちの形になっているのだが、瀬良はそれに特に対応せずにいた。気付いていないからだ。
「俺達もそうなのだ。奇跡的な輝かしい出会いの背景は語らないぞ? とりあえず色々お話しして、この景観に覚えはないというところまでは擦り合わせた」
「ずいぶんな寄り道もしたがな」
「いいじゃないか、女性を口説く機会なんてなかなか巡ってこないんだ。レディに年齢は関係無いだろう?」
オルトは瀬良の背後からオーガスタに向かってキスを投げた。オーガスタはそれがまるで見えなかったかのように、ただいつも通りまばたきをして、いつも通りに呼吸をした。瀬良はどのような反応を示せばいいのか全く見当がつかず、二人のことが視界に入るように、主に話すのがオルトのため彼の方が少しだけよく見えるように体を動かした。
「その濡れぶりから察するに、かなり長い時間ここにいた、ということでいいのかい?」
オルトが右手でこの空間を指す。瀬良は頷いた。
「あぁ。なんとか泳いではみたんだけどさ、服着たまま泳ぐなんてしたことねえから体力尽きて意識失ったんだわ。陸地には着いてたのか漂着したのかまでは分かんねえけど……とりあえずふっと起きたら景色は変わってるしその景色は見憶えねえしで……で、放浪してたらお前達が見えたんだよ」
「ほお……」
オルトは前髪の奥の目を細くし、にっこりと微笑んだ。その笑顔を受けて瀬良も微笑み返す。視界の端のリレイ――オーガスタの表情がほんのわずかに険しくなった理由は、彼は分からなかった。
「すごいな! 君は泳げるのか。ぜひ教えてくれないか? 俺は内陸の生まれだから泳げないんだ。いや周りも泳げないしそもそも貴重な水を汚してしまうから水に入ることはできないんだが、それはつまり可能性を一つ潰している、いや、そもそもそんな道があると知らない状態なのだ。
だから、なあいいだろう? 今から共に水流を探して……あぁ、レディがいるからお預けかな? 見たいものでもないだろうし」
「構わない。貴様らの粗末なブツには関心はおろか恐れを抱けないからな」
「そまっ、そ、そうか……」
戸惑いも躊躇も一切ないオーガスタの返事にオルトは瀬良の体の向こうから致命的な一撃を受けたような雰囲気で言葉を返した。
「いやまあ、まあ……うん、一つ忠告しておくと、あまり理想を追いかけない方がいいぞ? 大きさとか生き物である以上限界があるし、肥大化した理想はもはや暴力だ、略奪だ、殺戮だ。それに受け入れるのは基本的に女の側だからな、まあ理想からすれば見劣りするような大きさでもな……ほどほどが一番だと思うぞ、ほどほどが。うん、うん……負担とか、色々あるし……。
……では、この場所のことをさらに考察しながら、まずは水流を探そうじゃないか」
オルトが瀬良に右手を差し出した。
「あ、おぉ……大丈夫か? なんか色々と」
瀬良はその手に答えた。オルトの手は瀬良からすれば見た目からは分からないが、岩を握っていると錯覚するような硬さだった。掌の全てが分厚い皮に覆われ、しかし繊細なしなやかさを持っている。
まるで半世紀もの間それ一筋に生き続け身体の一部となり、さらに一体化していくのを本能で理解させられるようなそれを、目の前の年齢はそう変わらない男から瀬良は受け取る。
「あぁ、なるほど」
オルトが左手を重ねる。瀬良の手の甲の肌理の一つ一つを覚えるかのようにゆっくりと撫でる。
「何? なんか照れんだけど。手相占いでもすんのか?」
「テソオウラナイ? いや、そんなことはしないよ」
ゴキン、ぐじゃ、湿った音がオルトの手の中から響く。
「……は」
「俺は君を知る必要がある」
「いだ、ぁあア⁈ ぇぐっ、?」
「血が出る。まるで生きている人のようだ」
オルトが瀬良の手を放す。瀬良の両手はまるで粘土でできた手の模型を握りつぶしたかのようだった。
骨が突き出ている。そこから血が出ている。ありえない方向に曲がっている。
「ひっ」
「画面蒼白。まるで生きている人のようだ」
「あ゛、ぅぶッ、手、ぇ、……っぉエえ……ッ」
「嘔吐する。まるで生きている人のようだ」
オルトは獲物の腕を握る。後ずさる獲物の足を払い、何の抵抗もせずに地に尻を付けるそれの喉に指を押し込む。それの喉は侵入者に暴れ、拒もうと動かした手は痛んで肩は飛び上がり、そして生温い液体が彼の指を、手を、手首をつたって落ちていく。
それの踵は地面を蹴る。
「恐怖する。まるで生きている人のようだ」
「待ッ! ア」
「目で追う。まるで生きている人のようだ」
「いだ、待てっやめろっ、待っ……」
「逃亡する。まるで生きている人のようだ」
「グァ、あ、ぁあ、ッ……ひ……ッ」
「頭を庇う。まるで生きている人のようだ」
「痛い、なに、何……」
「混乱する。まるで生きている人のようだ」
「刺ッ……斬っ……なんで、な、ゥげッ……」
「考察する。まるで生きている人のようだ」
「待って……待っ……ぅぇエ゛、……っやめ、やめて……」
「乞い願う。まるで生きている人のようだ」
「ひ、……ぁッ……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「死んだかな?」
轍はほんの数メートルだ。初めて歩いた赤ん坊が笑顔で自身を呼ぶ両親の元に誇らしげに飛び込んでいくような、そんな距離だ。
そんな短い距離に血が、中指が、骨が、吐瀉物が、右の手の甲が、肉が、左手首が、点々と落ちている。その持ち主は轍の先で欠けた腕で頭を庇い震え、蒼白な顔色には自身の血液で紅を点している。
「俺はオルト=ベーク。《ロザ》精鋭部隊の観測手」
再び透明な液体を嘔吐し、頭を庇いながら逃げようとしている瀬良にオルトは名乗る。その名乗りに瀬良は必死に頷くが、それ以上の反応をすることはできなかった。
そして、求められてもいなかった。
「観測手だから非力だとでも思えたか? 労せず制圧できると思いあがったか?
それならば申し訳ない、俺は『よくないもの』を出した血から産まれたものだ。残念ながら単独で国に貢献できるほどの力は得られなかったが……。両頬だけじゃない、身体を、心を、尊厳を、全てを差し出してやっと生きることを認められるものなのだよ。だからこの存在をもって壊れない方法を学んでいる。換言すれば……壊し方をよおぉ……く、理解しているつもりだよ」
「わぁ……わか、わっ……」
「分かった? そうか、じゃあ本当のお前を教えてくれるよな」
「教え、おしっ、お、ぉし、えっるっ、……!」
手首から先を視界に入れないようにしながら逃げようとする瀬良のことを蔑んだ目で見るオルトは、数歩彼に近づき観察してから大きく失望の息を吐いた。
「うーん……、少しくらい抵抗するものだと思っていたんだが」
オルトは目線でオーガスタに同意を求めた。
「さっさと退役した貧農の倅あたりだろう。その階級は基礎だけ学ぶと退学する者は少なくない」
「んー……貧農というには体格は立派だし、脳足らずらしく腕が発達しているかといえばそうでもない。肉刺もささくれも一つもないが、これはどう考える?」
地に落ちていた瀬良の左手が一瞬光り、青い紋章と共にオルトの左手に現れた。オルトは血液を滴らせるそれを観察しながらその持ち主の腹を踏む。足の裏で痙攣を感じながら、彼はオーガスタに笑いかけた。
オーガスタは無表情のまま考える。オルトの足からどうにかして逃げようとしているらしい瀬良は「ナンミン」だという。だがその「ナンミン」という概念を伝えることはオーガスタにはできなかった。今まで知らなかった概念を伝え、瀬良がそれに同意してしまえばオルトは二人が繋がっている、という判断をするだろうと予測ができたからだ。
「ならば脱獄衆の一員かもしれんな」
「脱獄囚?」
「……私はその存在を直接見たことはない。あくまで伝聞だが」
オーガスタは「伝聞」を強調した。
「主に戦場外で殺人や略奪を犯したモノに、その生涯をかけて償わせるため絶えず戦場に出し、最も危険な任を負わせ、使い捨てるためのもの。あるいは『禁じられた魔法』を失伝させないために使われるもの。それを脱獄衆と呼ぶ、と聞いている」
「そういうものは《ロザ》にもあるな。ただ、そんな悪逆非道を犯した割には、これは暴漢の前に差し出された処女よりも震え怯えているみたいだが」
オルトは持っていた左手を軽く放る。それは瀬良の肩にあたり、顔の横に落ちた。瀬良は身を捩ってその断面図を見ないようにするが、それに気づいたオルトが小さく笑いを漏らした。そして「魔法」でまるで飛び跳ねる小動物のように、瀬良の視線の先に彼の左手を飛び跳ねさせて遊び始める。
「……、こういうものの黒幕は驚くほどに隠れるのが巧い。彼は下っ端中の下っ端だっただけだろう。この体格はある程度は勘違いさせるのに役立つ。
もう足を下ろしたらどうだ。片足で体重を支え続けるのがどれほど愚かなことか、わからないお前じゃないだろう」
「ふふ、ご忠告ありがとう」
オルトは笑って瀬良の腹から足を退けた。そして飛び跳ねさせていた左手と轍に散る彼の破片を自身の手に収めると、今度は瀬良に馬乗りになった。
「あぁなんだ、処女と言われるのは不服か?」
「……」
瀬良は答えず腹の上に座る赤毛を睨む。その目は前髪の奥で見えず、口は友人と秘密の会話をしているかのように弧を描いている。
その無垢に少しでも反抗しようとすれば胃液がこみ上げ、体を動かそうとすればそのわずかな振動が嫌でも腕に、その先の無に伝わる。
「今まで生きててそういう機会はなかったとなれば男なら複雑だろう、例えであったとしても屈辱だ屈辱。男であるのに胎壺の真似事なんて最悪だ。己の快楽を追求したからだとか、国の交渉材料として俺を使うという判断が下されたからなら割り切れたかもしれんが、ただ弟が犯されているのを見てみたいからという理由でだと……、……。
……。
……あぁ嫌な思い出だ…………」
オルトは無表情で立ち上がった。
「……。
これは脱獄囚ではないな。クソゲロゴミカスはやろうと思えば先ほど君が述べた悪逆非道をやってのけるし、そもそもまずは倫理観を何とか保っている俺に命じてやり遂げた俺のボロボロになった感情を読んで手を叩いて笑うはずだ、間違いない。想像するだけで泣いてしまいそうだ。
こんな真っ白な顔をして泣きそうになりながら現実から目をそらし、指先に一秒でも触れれば号泣失禁気絶嘔吐そしてめでたく昇天しそうなやつがそんな大それたことできるわけがない」
「……お前の言い分は汚すぎる」
「それはまぁ、普段は清廉な言葉遣いを命じられているからな。そもそも喋らせてもらえないけど。汚い言葉の一つや二つ、三つや四つ五つ六つ七つ言わせてくれよ。せっかく喋れるんだ。
なぁ、お前自身もそうだと思わないかい?」
「……」
瀬良は口の動きだけで「知るか」と伝える。痛みはもちろんのこと、両手を斬り落とされた「錯覚」からもたらされる精神的なダメージから回復することができていない。
瀬良はこの空間が架空のものであるということを知らない。これが解ければいまだ湿っていると「錯覚している」衣類は乾いており、その手も何事もなく前腕から続いてそこに存在する。彼の顔を汚す血も一滴もその体から出てはいない。
この空間はまだ瀬良を「死亡」したと判断していない。
オルトは困ったように笑いながら、オーガスタの方を見た。




