服従魔法
変化を続けた風景は、いつも通りのそれとはすべてが異なっていた。
まるで何かを思い出すのを拒むように、しかしそれを思い出さなければならないかのようにゆっくりと姿を変えたかと思えば急加速し、静止し安定したかと思えば逆回しに動き出す。まるで反射的なフラッシュバックを強固な理性で押しとどめようとしているようだ。
「……っ」
麻辺は車酔いによく似た気持ち悪さを覚えた。胃からこみあげてくる朝食をなんとかあるべき位置に戻すことに彼は集中する。
その景色が真の安定にたどり着いたのは、実に十五分の時が経っていた。戦場という常に状況が動き続けている場所のシミュレーションとしては、決してあってはならない悠長さである。
「……、は、ァ……っ」
安定した、とこの空間にいるすべての存在が確信した瞬間、麻辺は短く鋭い息を吐き、がっくりと膝をついた。濡れた服の不快さをゆうに上回る体調不良だ。
(あの山のよりも具合悪い……)
ほとんど蹲り、右手で口元を押さえながら麻辺は思う。息をするという生命の基本動作ですら彼は吐きそうになっていた。体を起こしていることすら辛く横になるが、それでも悪寒や熱っぽさ、肺を塞がれるような息苦しさは消えることがない。
「あ? おい麻辺、どうしたいきなり」
景色に集中し、麻辺のことを視界に入れようともしなかった瀬良が違和感に気が付き声をかける。麻辺はそれに返事をしようにもすることはできなかった。口を動かすだけでも胃液がこみあげてくる。
(瀬良君は何とも……毒ガスとかじゃない。僕にアレルギーは地球のものには無い)
麻辺は冷静に分析する。彼の中で体調を司る生理的な部分と、思考を司る理性的な部分が分断される。嘔吐の際の無防備さを恐怖する本能によって相変わらず右手は口に添えられているが、彼の眉間からは皺が取れた。
ある意味究極に楽になった麻辺に対し、瀬良は戸惑い一色だ。不貞腐れてそっぽを見ていたら、背後の人間は急に体調不良らしく息が上がり蹲り、かと思えばそれが一瞬で、まるでなかったかのように消え去ったのだ。
「動かすからな……回復体位ってこうだったか……? 吐くなら俺には吐くなよ」
瀬良は古本で見た自動車学校の教本の内容を思い出しながら麻辺の身体を動かす。多少の強張りや口に添えられた手を動かそうともしないという想定外はあったが、おおむね記憶のとおりの体勢に細い体を動かす。その際麻辺が怪我をしていないか見える範囲で確認もするが、そういったものは一切見られない。原因らしいものは濡れた服とそれによって奪われた体温くらいのものである。
だが、その条件で言えば瀬良もほとんど同じだ。服の濡れ具合から言えば確かに瀬良の方が軽度ではあるが、それでもここまで泳いだり、そもそも朝食を口にしていなかったりと、彼もそれなりに体力を消耗し、その回復のタイミングが得られていない。地力の差もあるが、それでも麻辺のように急激に体調が悪化する理由とはならない。
「俺が平気っつうことは毒ガスはない。リレイの身体は普通に動いてるのか? そうなら瞬き一回、違うなら瞬き二回」
麻辺は目だけでリレイともう一人の方を見る。景色の変化に適応し、どうやら再び議論という名の演説会になっているようだ。
瞬きは一度する。
「じゃあ食中毒でもねえな。アレルギーも確か無かったよな? だと……あ、魔力的なもん枯渇したんじゃねえの?」
瀬良の指摘を麻辺は考える。だが、その考えがまとまり切らないうちに瀬良が言葉を続けた。
「魔法って大概魔力を使うんだけどよ、その使える……あー……使うために消費する魔法専用の体力的なもんがあって、だいたいMPって呼ばれる。レベルあげたらMPの上限値もあがって回数増えたりもっと高度なもんを使えるようになるわけだ。ここまではいいか?」
瞬きは一度。瀬良はそれを見て言葉を続けた。
「で、俺達は魔法初心者だ。バトルもほぼなし、魔法を教えてくれる聖女とか若き天才少女とか一足早く旅に出た近所の姉ちゃんとかいないし、まーMPは最低値だろうさ。それなのにこんなバンバンフィールド変えまくってお前のMPが枯渇したって思うのが一番だろ。
すぐに枯渇すんのになんでこんな使えんの、みたいに思ってるんだろうけどさ。MPだけで魔法をやりくりするタイプじゃなくて、いざとなったら体力……生命力を削って魔法使えるタイプもある。この異世界は生命力削れるタイプなんじゃねえか?」
瀬良はそう結論付ける。麻辺はそれを否定するものを持っていなかった。そうするだけの気力がないことはもちろん、理性と生理が分断されていることによって思考をしても口を動かすことができなかったためだ。
黙ったまま、しかし二度の瞬きをしないことで調子を取り戻していく瀬良は小さな石像を数度叩く。彼は統括者ではないので景色は全く変化しないが、それにへそを曲げるようなことはしない。
「けどま、良かったな麻辺。お前には魔力があるってことじゃねえか。削れるだけの生命力もな」
「……」
「さっさと魔法覚えて、そんで遠くから殺しでもしてみろよ。日本に戻って魔法で指名手配犯操って教室に来る強盗にでもして、そんで一人冷静に学校救ってヒーローにでもなんにでもなれ」
まだそういうことを言っているのか、と麻辺は瀬良に問いかけようとしたができなかった。今それをすれば確実に吐き気が戻り、この状況の足を引っ張ることは確実だからだ。
「俺らは……戸賀は無鉄砲に飛び掛かって犠牲者一号、それに逆上した吉津と葛西あたりが飛び掛かって二号三号。カネは怯えて黙ってて、生き残ったらイキるかな……。うわ考えたくねえ……。まあ、俺がいたらお前が完全にやられるまでは鉄砲玉扱いで邪魔にならないようにしてやるよ」
「……」
「だから……つか、お前は帰る気無いんだっけか。じゃあ今の無し。……はぁ、俺だけまだ魔法使えない感じか……」
瀬良の意気消沈した呟きをつむじのあたりで聞きながら、麻辺は遠くの二人に意識を向ける。何か別のことに集中することで、現在の問題を忘れ、かついつの間にか消え行くものとしようとしたのだ。
瀬良はどうにかして魔法の片鱗でも起こらないか、と麻辺の死角に移動して小さな動作を試みる。今の彼は知らないことだが、レアリムの魔法は発動するために特定の動作は必要ない。そのためただ無意味に奇妙な動きを繰り返していることになるのだが、それを指摘できる人間がいないため、彼はそれを気のすむまで続けることとなる。
「また変化したな。植物の形からして先ほどの破壊された景観と近い年代の同じ場所のみたいじゃないか? 座っていたからこの椅子が残っていると言われてしまえばそれまでだが、ふむ。地形としては大きな差はないようだし……」
「……目印となるようなものがあったか?」
オーガスタの問いにオルトは答えず、両の人差し指を立てながら辺りを観察していた。彼の発言の根拠となるのはいまだ二人の尻の下に存在し続ける小岩である。オーガスタの言う通り先ほどまでの景観は破壊し尽くされた戦場跡であり、今の青く澄みわたった空、そよ風に身を揺らす草花、そして存在を否定したい名も知らない小虫がひらひらと不規則に飛んでいる。
平和そのもの。それがこの景観を表す適切な言葉である。
「うーん……パレオ・パスラエットがあるしそれを包み込んでいる蔓持ちもある……見たところあまり変わりはないし……。
いや、いやいやいや! もっと根本的なことがある! おいおい、俺は気づかなかったのか、それとも気づけなかったのか。……あぁやはりすごい、それと同時にこの基地の支部長は我が国にとって脅威だな」
一人納得したらしいオルトは、自身の両膝を何度も交互に叩いて笑った。その奇行の意味が分からないオーガスタは眉間に皺を寄せながら、適切な質問の言葉を探る。過不足が爪の先ほどでもあれば、間違いなく目の前の彼の演説会が始まってしまうからだ。
「ふふ、分からなそうだな? そうだな、君くらいの年代なら見たことはないかもしれないしな。お優しいご両親が目に触れ――いや、君は知っているか。俺に特に質問しなかったもんな?」
オーガスタの慎重さが仇となり、オルトにとって彼女の無言は「不足」に該当したこと二より演説の幕が上がる。
オルトは自分の両頬を――入れ墨を人差し指でなぞり、時には親指と人差し指で挟んで頬を引っ張りながら口を開いた。
「『よくないものを出した血をひいた』、君はそれで納得していた。それを知らなければむしろ俺を哀れむのさ。そして可愛く、純粋に質問するんだよ。『よくないものってなあに? どうして模様をいれちゃうの? それがなかったら普通の人だったんじゃないの? そういう模様をいれちゃうからこの人は殴られても何してもいいってなっちゃうんじゃない? 可哀想だよ、模様とってあげよう?』……あーあ、嫌なこと思い出した。何で目を離して迷子になった子を保護してちゃんと五体満足変わったのは膝すりむいた位で引き渡したのに殴られて蹴られて抵抗封じられて腕折られてそのまま観測手やらされて不要な怪我すんなクズってクソに背中蹴られてんだろ俺。可哀想な俺……うん、黙るからね」
もはやお約束のようにオルトは微笑みを浮かべ、同時に降参の仕草を見せながら口を開く。
「とりあえず君は俺みたいな存在を知ってる、それは間違いないんだろう? 同一、相似、類似……何でもいいけどさ。疑問に思わないか、嫌悪憎悪しない程度には知っている」
「……そうだな。お目にかかったことは今までの人生ではないが、知っている」
オーガスタは嘘をついた。確かに生まれでその烙印を受ける者に出会ったことは無いが、目の前の彼のような入れ墨を施される人間に出会ったことがある。いや、オーガスタはそのようなモノと行動を共にするだけではなく、その入れ墨を施す側である。その理由が生まれではなく、かつての敵である、という違いしかない。
「そんでこの服従魔法。危険物、あってはならないもの、何してもいいものってなかんじでこう、顔の見えやすいところに変な絵描くだろう? それの起源、いつだかわかるか? はじめにヒントを言っておく三百年前だぞ」
「それは最早答えでは……」
「フフッ、うん。正確にいうとこのクソ魔法が表面化したのが三百年前。理由なき大規模侵攻、ゲロクソゴミカス曰く関心から発展した殺戮。下手人はまさかの十二歳の少女エリアス=ロゥミニ・ルモで、十四歳の年上の愛しい愛しい隣人ガスター=ロゥミニ・キセに気に入られたいがためっていう悲しい悲しい出来事。エリアスの胎には誰相手のかもわからない子供が宿ってたって話だし」
「……それは初耳だ。悪女に仕立てあげるための嘘のような気もするがな」
「まー処刑人がその直後に殺人刑食らってるし、弟自体が創作物でもない限り史実かもしれないぞ? とまあ、うん。それはいいんだ、それは。
レパトゥルタームが魔法として成立したのは三百年前。暫定壁は四百年前。レパ糞は俺の場合は任務最優先、あらゆる抵抗剥奪、報告以外の発話禁止、密告禁止、逃走禁止、命令以外の自傷禁止、許可されない睡眠禁止、許可されない排泄禁止、自慰をはじめとする性行為禁止、……自覚してるのだけでも酷いなこれ。睡眠排泄は自由に認めてほしいなぁ……戦場じゃないのに死んじゃうよホント。最悪なことに思考力は残ってるから本当に辛くて死んでしまいたくなるが死ねないし言葉話せないから訴えられないし魔法の力で寝落ちも失禁もできないし。そこらへんの三歳児の方が人間してる……可哀想俺……」
「……まあ、そうだな。今のうちに人間らしくいればいいが雑談は後回しにしてくれないか」
「あーうん、じゃあ雑談したいからさらっと。
レパトゥルタームが四百年前には『魔法』として存在してなかったから、おそらく四百年以上前のこの仮想戦場では俺にかかっているのも存在しないことになってて自由に話せるんだろう。そして景観だけではなく当時の状況って言ったらいいんだろうか、そこまで表現できてしまう支部長さんは本当に脅威」
「……」
「雑談に切り替えるぞ。こんな状況になるとは思わなかったから命令もらって排泄諸々済ませてきた自分が憎い。十年ぶりくらいに自分の意思でできるっていう人生に二度とないことができただろうにいつもの任務のつもりで命令受けてホッとした自分が憎くて仕方がない」
「……待て。お前すごい大事なことを言っ」
「君が俺をリードできるような年齢であれば一緒に命令の限界を探ってほしいが……はあ。子供だものな……罪悪感抱えてまたレパ糞と血をわ」
「雑談に戻るな! 早すぎる、もう少し考察を――」
「考えるのだけはいつもできているから嫌だ。自由に言葉を発していられる今! このいまが俺には大事なのだよ」
「それは分かる。レパトゥルタームを受けていない私が言うのもおこがましいが、分かる。だがもう少しこの状況を考えてからでも……!」
「んー……もうすこし話してからで」
「ああぁぁ……っ!」
オーガスタはリレイの体で頭を抱える。片腕だけではあるが、その絶望がよくわかるようだった。オルトはその様子を一瞬だけ目にいれると、まるでそれが視界に入っていなかったかのように演説を始めた。




