歪んだ優しさ
麻辺は少しだけ首を伸ばした。瀬良はこの小さな空間から出たものの、離れるつもりはないらしい。見張りを担ったのであるから当然ではあるが、麻辺はそれに少しだけ安心した。彼が完全に離れてしまったら、現実的な問題としてこの場を切り抜ける方法が狭まっていくと思っていたのだ。
距離的に小さな声で話せば瀬良には届かないと麻辺は判断し、蹲って見えない誰かに懇願し続けるリレイの背に手を置く。その背中は案外小さく、麻辺は少しだけ彼の気持ちが分かった気がした。
「あー……リレイさん」
麻辺の声に、リレイの動きが止まる。
「その……あの……僕、馬鹿だから……何て言ったらいいのか、どうすればいいのか……全然、あの、分からないんだけど……」
「……」
「……瀬良君のこと、怖いなら怖いままでいいと思う……。あぁあ謝ってるのとか、えっと、役に立ちたい……? のとかは、まだ僕わからないけど、あの……たぶん、ちょっとずつ……なんとか、なる……と思う……」
「勝手なこと……言わないで……!」
「……」
リレイが顔を上げる。依然恐慌の色は濃く残っているが、それでもそこから脱することだけはできたのだ。そして今は麻辺のことを見ている。その目に恨みの色は無く、ただ諦めとそれに対する僅かな反抗心があるだけだった。
「……」
「腕がないの……こうなったら『私』は……もう価値がない……。私、十一歳なんです。まだ子供は産めません。あと何年も『無価値』で過ごしていいわけがないわ……」
「……」
「『なんとかなる』――うん、なんとかなるよ……私は女だから子供が産める……クロッシェンのたった一人の跡継ぎだからどっちにしろ産まなきゃならないけど……でも……」
「……」
「こんなに……こんなにすぐに『役立たず』になるなんて……」
「……役に立ってる時が……あったんだ……」
「え?」
リレイは麻辺の呟きに聞き返す。
「僕は……僕はずっと……役立たずだった……」
「役立たず? あなたは?」
「……うん」
「……」
「……うん、そう、役立たず。褒められたのは一回だけ…………嬉しかったなぁ…………えっと、あとはずっと、何もないよ」
麻辺は事実を言った。彼が母に褒められた記憶は、小学校二年生の時が最初で最後なのだ。その一度を繰り返すことがもうできないことを彼はすでに知っている。それをすれば、彼は永遠に「役立たず」で終わってしまうのだ。
「あっ……えっと、僕が褒められてないから、僕の方がもっと駄目だから、あの、リレイさんがマシって言うんじゃないよ。えっと、あの、そうじゃなくて……えっと……」
「……ありがとう」
「……」
「大丈夫……大丈夫。言いたいこと、私、なんとなくだけど分かる。アサベ……さん? は、私のこと気遣ってくれてるんだってわかる……」
リレイは微笑んだ。彼女の両頬には涙の跡が幾筋もあるし、衣類には血痕があった。何より右腕が欠損しており、そんな歪な状態の彼女の精一杯の、正常な微笑みだった。
そんな彼女を見て麻辺は、自分が今まで緊張していたことを悟った。自身と瀬良が何もかも理解できない状態で出会った彼女が話が分かる人物であるということは、生き残るうえで必要不可欠だったからだ。そんな彼女が恐慌に陥り、自分たちを嫌うだけならまだいい。パニックになって泣き叫び、それによって敵――この場合、自分を害するあらゆる存在――がやってくることは何よりも避けねばならないからだ。
このか弱い存在が、自分に対し好意的であることが麻辺は何より幸福だと思っていた。
「あのね」
「なあに、アサベさん」
「えっと……瀬良君なんだけど、あの、怖いままでいいし、その、嫌いでもあの……僕は仕方ないと思う。えっとでも……優しい人だから」
「……」
「あの、大きいし、その、すぐ怒るから、うん……。でもね、瀬良君は本当に優しいんだよ」
「優しいのは……アサベさんだよ」
「え? ぼ、僕?」
麻辺はリレイの言葉が完全に予想外で、思わず聞き返す形になった。
「うん。私を安心させてくれた。私の気持ち……セラクンさんが怖いってこと……分かってくれた。
……セラクンさんは優しくないよ。『糞』とか『ガキ』とか……それにアサベさんを蹴ったり……そんなの優しくないよ」
「……」
「アサベさん?」
黙ってしまった麻辺のことを、リレイは不思議そうにのぞき込む。
「大丈夫? アサベさん?」
「優しいよ」
「え?」
「瀬良君は優しい。蹴ってきても、殴ってきても、それでも本当は優しいって僕は分かってる」
「……」
沈黙が再び訪れる。そして、ピリリとした敵意もそこにはあった。リレイはそれを感じとると、途端に力が抜けていくのかわかった。
「……」
「うん、……あ、ごめんね。えっと、リレイさんは瀬良君のことはあの、怖くても仕方ないって思う。あ、あとね、瀬良君は『瀬良』だから、あの、『瀬良さん』だから、あの、『くんさん』じゃなくて、それで……」
「……」
「うん、あの……えっと、あ、ごめんね……ちょっと止血の……壊死、しちゃうから……」
麻辺はリレイの返答を待たずに、彼女の右肩の布をほどく。リレイはそれに顔をしかめた。鈍痛が形を持って襲ってくるのはもちろんだが、その止血帯の存在を思い出すと本当に右腕を失ってしまったということを現実として受け入れなくてはならないからだ。
ジワリとその面が熱を持ち、何かが滴り落ちたのをリレイは感じた。麻辺はそんな彼女の肩を、果たして効果があるのかは分からず、また正しいことなのかも判断できないが数度揉み、再び布で止血する。清潔さを保つため、麻辺はそれを蝶結びにした。
「……優しいんだよ、瀬良君」
麻辺は木の根を口に含んだ。
「……」
「あっ……ごめんね、僕、あ……リレイさんに、お……し付けてるね……えっと、気にしないでね、……瀬良君のこと、怖くていいから……じゃあ、お休みなさい」
「うん……お休みなさい」
麻辺は横になる。リレイはそれを見て、彼に倣った。彼女の視線の先には瀬良が投げ、麻辺が受け取り損ねた木の根っこが二本あった。
「……」
リレイはそれを見る。彼女はそれを手に取ることはできなかった。
(……ちょっとおかしいよ、アサベさん……蹴ってくる人や、殴ってくる人は優しくないよ……)
彼女の心の中の言葉は、麻辺には届かない。
間もなく、彼女の意識は睡眠という安寧の中に溶けていく。
麻辺は自分の意識が浮上していくのを感じた。それと同時に、自分の隣と足の方向から慣れない存在の気配も感じた。彼は頭の中でその存在の正体を探る。寝ている自分に近づく可能性のある人物を順番に思い浮かべようとした寸前に、麻辺は今自分が不可思議な現実にいることを思い出した。
隣の静かな気配は右腕を失った少女、リレイ=クロッシェン。ならば、足の方でガサガサと乱暴な音を立てているのは――
「……瀬良君?」
「麻辺? 起きてたのか? それとも起こしたか?」
「えっおっ……あの、……ううん、今起き、ま……した」
「じゃあ俺が起こしたんじゃねえか」
「ちが……」
「いちいちうるせえな」
「すいません……」
起きてすぐに謝罪をする麻辺に対して、瀬良は気まずそうな表情をする。
「それさ、もうやめねえか。いちいち『すいません、すいません』ってウゼえし。
……。
いや、まあ……悪かったとは思ってんだよ……色々と……お前に対してはさ……なんつうか……殴るようになっちまったり、蹴ったりとか……」
「……あの、別に僕……瀬良君のこと……」
「また『恨んでない』か? それとも『僕は傷ついてない』か?」
「それ、は……」
瀬良の問いに、麻辺は言葉が続かない。いや、続かないだけであればいつものことだった。相手が言っていることに対してほとんど心が動かなくなってしまったが故に応答ができなかったり、強い態度に委縮してしまい言葉が出なくなったりなど彼にとっては日常茶飯事だった。また、言葉を発さなくてはいけない場面で、「これは本当に言っていいことなのか」という囁きが麻辺の言葉を奪っていくことなど珍しくはない。
だが、今の彼はその日常の範囲外にいた。目の前の男に殴られたときも、蹴られたときにも決して感じなかった、表現することのできない嫌悪感が麻辺の全身を、血液と共に巡っていく。
「う……あ……」
麻辺の脳裏に、ある光景が浮かぶ。
隣で泣く母、二人組の「知らない人」、語りかけてくる柔和な「敵」。
張られた頬は珍しく熱を持っている――
「麻辺? おい、お前、どうしたんだ?」
いつもの無表情でありながら、どこか様子のおかしい麻辺の身体を瀬良が揺り動かす。麻辺の首はまるで人形のようにグラグラと揺れた。
「ちが……わる、いのは僕で……」
「そう言わせちまうのも、俺らのせ……いや、俺だ。俺のせいだ。
……あ、俺何言ってんだろうな。『やめねえか』じゃねえよな。……あー……『やめてください』……。えっと……今までのことは……あー……なんだ、まあ、すんませんでした、許し……いや、許さなくていいです。恨んでろ、だから今は協りょ……おい麻辺! 聴いてんのかお前‼ 俺が謝ってんだぞ‼ ……麻辺?」
「……」
「おい、麻辺? あーさーべ? あーさべゆーいち? ……ゆっ……ゆ……勇ちゃん……?」
反応を示さない麻辺のことを瀬良は呼び続ける。最後のそれは殊更気まずそうに、照れ以上に彼の先程の謝罪の言葉よりも純粋な、混じりけのない申し訳なさを感じる声色だった。
そんな瀬良の言葉以上の謝罪に対しても、麻辺は反応を示さない。瀬良は目の前の少年に集中していたから、そんな二人の間で必死に気配を押し殺す存在には気づかなかった。
「はぁ……っかしいな……こいつこんな――」
瀬良はため息とともに視線を落とす。目が覚めていて、辺りを窺うためにちょうど目を開けたリレイと彼の視線はバチリと合った。
「……」
「……」
「おは、ようござ」
「だあぁぁァァあアッ‼ 糞、あ゛ーもうッ、死ね、死んじまえ糞共! 今すぐ死ねこのっ、ア゛ア゛ア゛ーッッ‼」
絶叫の主は頭をかき回し、それにあわせて長い金髪が躍る。羞恥を紛らわせるための数十秒のそれは唐突に終わりを迎え、瀬良は未だに心ここにあらずな麻辺を洞の入り口まで引っ張り移動させた。そして戻ってきた彼自身は空いたその場所に寝転がり、二人に背を向けてしまった。
リレイはその様子を、ただ茫然と見ていた。