四百年の壁
リレイ=オーガスタが座ったのを見て、オルトは安心したように笑った。
「いやはや、去っていかれたらと気が気じゃなかったよ」
「そういう自覚があるなら己を省みたらいいじゃないか」
「そう言われると返す言葉がないが、あえて言うなら話せるのが本当に嬉しいんだ。クソのせいで俺は父からも母からも大好きだった女の子からも引き離されて、ちょっとしたおしゃべりは『うるさい』で黙らされる。金はいいけどさ、余計なことを話せないのはつまらないだろう? 余計や無駄を楽しめてこそ人生だと俺は強く思うね」
オルトは大きく頷いて主張する。が、正面に座った少女の表情がだんだんと冷たくなっていくのを見て、彼は二度頬を叩いた。
「うん、うん。切り替えるから、うん。信頼してくれると嬉しいと言わせてくれ。
ええと、よし。『この大掛かりで素晴らしい魔法の術者の名前が残らなかったのは、その名が残るのは望まれなかった』というテーマで拙いながらも我が考えを述べさせてもらおう」
彼は目を伏せ――他の人間からは、そうしているのが見えないが――、顎の前で両手を組んだ。その指を波に揺られる磯巾着のように動かしながら、彼は思考をまとめていく。
「レアリムの常識として」
五分間の沈黙のあと、オルトはゆっくりと口を開いた。その声色は先ほどまでの「余計」「無駄」を楽しむ一人の人間としての色はすっかりと消え失せ、《ロザ》の精鋭部隊の観測手を勤める戦闘にその生を捧げる兵士としてのものに変わっていた。温度は無く、高さもない。感情も見る影は無く、発音の抑揚だけがその言葉に乗る。
「何かを成し遂げた人物の名は残される。今となっては常識でも、はたまた唾棄すべき誤りでも、当時としては生活がひっくり返ってしまうような、そんな発見ならば特に、だ。
例えば現在の基礎魔法を体系化した《ガイヴァ》のソル=セフラボイス、その弟子ノイロト=パパスとボナロン=アクトール。優れた者だけが使える、奇跡かつ争いの種となっていた治癒魔法を学問に落とし込み、国境を越えて学校を作った今は無き《ナムラニア》のアイリーン、彼女の姓は伝わっていないな……奴隷階級の出だからか。あらゆる知識を持ち、全ての人間に分け隔てなく接し無血の内に国を平定した《エヴァリ》の三代目キリカ=エヴァリ。
我が国で言えば一介の兵士から頭角を現し、王家補佐までのぼりつめたハレイシモ、彼もまた姓は伝わっていない。功績が一代が故に名乗れなかったのだろうな、妻も子もいなかった」
灰の香りがする風が二人の間を通り抜ける。オルトは沈黙を続け、そして少女に話すよう小さく手を差し出した。
「……期待しているようだが、私は一人もその名は売らないぞ」
オーガスタはその手の意味を理解し、静かに口を開いた。目の前の男がリレイの戦闘を見ていたのが真実だとして、それだけで出身地やその階級こそ知られはしないものの、どの国の生まれかは必然的に知られている。
今のところ彼の語りは聞いているが、そもそも彼の名乗りをすべて信用しているわけではなかった。《ロザ》の出身だということも、仮に彼が他の国の諜報機関に属する人間であり、それで知ることができた情報を掴ませている、ということは否定できないからだ。
「おや、別に君の国の英雄の名を挙げる必要はないのだが。レアリムの常識として、そう、『誤り』側を挙げてくれればそれてよかったのだが、ふふ、とりあえず『君』は俺が今挙げた国の民ではないのだね。わざわざ成功例のみを口にしたんだ、もっと視野を広く持つといい。
誤りの例としては、禁じられた拷問を作り出したキリカの兄の二代目国王アルゼイフォス、悪女サタニフィア。
そして俺が今から語りたいのは悪女サタニフィアなのだ」
オルトは自分の言葉がいかに素晴らしく、そして重要なものであるのかを噛みしめるように、前髪の奥で目を閉じてゆっくりと、そして何度も頷いた。自分に酔っている、というのが嫌でも分かってしまう、そんな様である。
オーガスタは「悪女サタニフィア」について知っていることを思い出そうとした。
いや、その必要はなかった。
その女性の名前はレアリムに生きる者なら誰もが知っているからだ。それも、魂に刷り込まれたかのように、そうであると天から定められたかのように、あるいはそれがこの世界に生きる人間であるための資格であるというように、その名前に本能的な恐怖と拒絶を感じさせる。
「サタニフィア。その名前が現れるのは約四百年前のこと。彼女は厄災を育てた――と伝わっている。あらゆる大地を破壊しつくし、全ての善良な人々を戦闘に駆り立て、多くの血を流し、妻を持つ男を、まだ次代を継ぐこともできない少年を咥えこみながら、彼女はその中心で高らかに笑っていた、と」
彼は冷静に、この世界の民が当然に持つ「サタニフィア」の名への忌避感を微塵も感じさせない口調で、平坦な演説を続ける。
「だがな、おかしいとは思わないか? 四百年前だ、現在までその名を残す国はほとんど成り立っていない。最古の《ガイヴァ》は八百年、その次に古い《シンシェ》《エヴァリ》は五百年。我が《ロザ》は四百五十年ほどか」
「何がおかしいのか、その説明はしないのか?
《ガイヴァ》は国の安寧を優先させ、戦闘には消極的だったからこそ平和を望む者たちが集まり、それが早くに『国』としての基盤を確かなものとすることができた。だから学問も栄え、お前が挙げたソルとその弟子達を輩出した。
《エヴァリ》は《ガイヴァ》の隣国、《シンシェ》は更にその隣国。後の《ロザ》相手の防衛としての戦闘こそ継続的にあれ、やはり最古の国が相手でそれに影響されたのか、基本的に戦闘はしなかった」
「そう。学問が栄えた《ガイヴァ》。ああ、これが答えではないか。
オルト=ベークは君に問おう。《ガイヴァ》が誇る賢人ソル=セフラボイスとその弟子ノイロト=パパス、ボナロン=アクトール。彼らはいったい何年前の人間だ? 基礎魔法が体系化されたことにより、それまではただ戦闘を叩きこむだけだったという学問施設が、魔法を学ぶ『学校』となったのは、君の国ではいつだと学んでいる?」
「それは……約四百年前……と記憶している」
オーガスタは答える。彼女が約二十年前に学んだことだった。一度その数字を口に出すと、まるでそれが呼び水だったかのように忘れていた、もしくは思い出そうともしなかった知識が流れるように彼女の口からあふれ出る。
「《ガイヴァ》が結果的には先導し、それを各国が真似て現在の学びのプロセスができたと私は記憶している。《ガイヴァ》以外の国にとってその学び舎の完成は急務であり、五年以内にはほとんど今の形と変わらないところまで発展したようだ」
「では、《ナムラニア》のアイリーンは?」
「アイリーンは……ソルらの功績による学校の高等教育と位置付けることで治癒魔法学校を作ることができた。現在の医師を養成する学校の前身であり、それは……約、四百年前……。
待て。《エヴァリ》のキリカはアイリーンのパトロンでもあった。ならば彼女が生きたのも四百年前。その兄アルゼイフォスも……四百年前になるな……」
「そう。俺が挙げた偉人達、聖人賢人極悪人、全て四百年前の人間だ。おかしい、いや、面白い。ハレイシモもそうなのだよ、彼は頭角を現し全ての国民を、領土を『防護魔法』により守護したのだ。それ以後、彼は王家の補佐にのぼりつめた。武官として我々は尊敬しているが、剣となり戦うのではなく盾を作り護る、という方向だな」
「……」
「さらに問おう。君は四百年以上前の人間の名を知っているか? 国の祖ではなく、また大逆人でもない。このレアリムの民が知って当然の、その人の名前を知っているか?」
「それ、は……」
オーガスタは口ごもる。彼女の呼び出された記憶は今、オルトの問いに適当な名前を連れてはこなかった。約五百年前の人間である《シンシェ》の初代国王、二代目国王――彼女はその名前を知っているが、先ほどオルトが挙げた人々の名と比べれば、それは当然劣る。いや、そもそも彼女がその王の名を知っているのは、彼女が《シンシェ》の民だからだ。
《ロザ》の初代国王の名を述べよ、という問いに彼女は答えられない。つまり、「その国の民であるから知っている人間を除き、この世界の民の常識として四百年より前にその生を受け、活躍した人の名を述べよ」、この問いに彼女は答えを持たない。
オルトが面白そうに、笑う。
「……何が、おかしい」
少しだけ傷つけられたプライドに、彼女は幼稚ながらも刺々しい声色で反抗する。
「誤解してはいけない。あぁ、俺は今驚いている。それどころじゃない、こんな気分は初めてなのだ」
「……」
「あぁ、俺と君はもしかしたら、今、このレアリムの真髄に触れているのかもしれないぞ。考えてみてくれ、視野を広く持ってくれ、自分の過去を振り返ってみてくれ。
俺たちは疑問を持ったことはあったか? 八百年の歴史を持つ《ガイヴァ》の祖の名前こそ知れ、その間の、例えば七代の名を知ろうとしたか? 有史以前、古代の環境に思いを馳せたことがあったか?」
「……」
「歴史が本格的に記録されるようになったのは何年前だ? それは四百年前だ。学校が整備され、文字が特権階級の専有物ではなくなったからだとしても、……そうだな、話伝えのそれが無いのは何故だ?」
地球でも、文字を持たない民族は存在する。その場合伝承は絵や歌で伝わっていることがほとんどだ。文字を持つ他の民族とある程度の信頼関係と交流があれば、他の民族側がそれを記録したり、あるいは文字を持たない民族が文字を借りてそれを記録するだろう。特に文字を持つ民族が多数派であれば、記録のもう一つのしかたとして異文化を取り入れることは想像に難くない。
しかし、レアリムにはそれがなかった。正確に表現すれば、今この時を生きるすべての人間が、それを探し出そうという発想すら誰も持たなかったのだ。
「『この大掛かりで素晴らしい魔法の術者の名前が残らなかったのは、その名が残るのは望まれなかった』というテーマに戻ろう」
この世界の「異物」は宣誓する。
「四百年前、何か不都合なことがあった。それは突発的な災害だったかもしれないし、同時多発的な戦闘だったかもしれない。それを隠すために、『学校』を作りあげた偉人たちが『悪女サタニフィア』を作った、と考えるのはいきすぎだろうか?」
「考えすぎでは……」
「たった一人の女がそれを成し遂げられるとでも? 騎士達が暴走した可能性もあるが、それならば悪に付き従う愚か者の名があって不思議ではないのに、それが全く無いのだよ。
ならば『何かを隠したかった』と考えてもいいとは思わないか? その対処によって我らは四百年の壁を超えることができない、と」
一理ある、とオーガスタは思った。それどころか彼の指摘に手放しに首肯したくもなっていた。彼女がそれをしないのは、クロッシェンの警備隊長だからである。もし、彼女が持つものが一般家庭の大黒柱であるとか、子供の命を護るべき母である、というだけならば彼女は己に正直になり、同意していただろう。
彼女は目の前の青年の、前髪で隠された目を見ようとした。それを見たところで彼の感情は分からないだろう。だが、それがどうしても必要であるように感じたのだ。
オルトはその視線を理解した。彼はふっと笑うと前髪の一部を分ける。片目だけの露出ではあったが、それが彼なりの最大限の譲歩であり、同時に最高の敬意であった。
「その沈黙が答えだな。真っ向からは否定できない、だが、同意しないのもどこか心に痛みを感じる。……あぁ、言わなくていい、返事は求めていない。これは俺に必要な『納得』だ」
「……その隠したかったことが何か、を知るべきなのか……?」
「さあ。ただ、とても愉快な気分ではないか? ……ふふ、ああ、初めて観測手でよかったと思えた。こういう任務ばっかりなら俺は本当に幸せだよ、楽しいなあ」
オルトの言葉に温度が戻る。それにオーガスタはひそかにげんなりとした。
「俺の考える通りだとこの基地の支部長さんはすごいな」
「すごい? あいつが?」
オーガスタはワミサ基地の支部長の姿を脳裏に描く。その地位を任されるだけあって、一般的な人間と比べたら確かに彼女は賢く、また勇敢だ。だが、それはあくまで小さな団体の長として優秀であるというだけで、それこそ国を束ねられるような人間であるとは思えなかった。
「そうだ。だって、俺たちはこんなことができるか?」
オルトはこの辺り一帯を示した。
「できないだろう。どのような仕組みか考えもせず、ただ『偉大なる賢人様の功績の一かけら』でこれを行い、再現を試みようともしない。息は吸って吐くものという位当たり前で、それがどうしてそうかなんて考えもしないのと似ている、と思う。
四百年の壁も俺たちに意識させることは無く、それを疑問に思わせることもしなかったってことだろう?」
「それはそうだが……」
「その四百年の壁を支部長さんは越えさせた。案外、有史以来の天才なのかもしれない、そうは思わないか? あ、『名が残るのを望まれなかった』ではなくて『その名を継げる人間を待っていた』『この大掛かりで厳重な素晴らしい知恵の結晶を破る人間が必要とされている』、そういう可能性もあるな。四百年前からの約束、四百年かかった魔法、四百年前からの宿命……。
……いやあ楽しい、興味深い」
オーガスタは脳裏のイメージを修正する。オルトが言う「有史以来の天才」、それはワミサ支部長ではない。今この仮想戦場を作り上げている、「ナンミン」のアサベユーイチ。そして、アサベと同郷の人間であるセラカオル。 彼らが「有史以来の天才」であり、かつての天才たちが求め、何かを託そうとする人間である――その可能性に彼女は触れる。
二人の印象と、この突拍子もない考えは重なることは無い。
(……魔法が使えない、のが嘘という可能性……いや、『何か』のために魔法を使わず、その時まで潜めて……。
『四百年の壁』。これが事実であるならば……そうだ、二人の存在を、その欠片すら誰も知らなかった理由も……説明が……?)
オーガスタは眉間に皺を寄せる。考え込む少女をからかおうと、オルトが口を開こうとした、まさにその時。
バヂンッッ――……
唐突に、短く、しかし確かな余韻を持つ濡れたゴムが切れるような音と共に、景色が変化していく。




