羞恥が勝った
真っ赤な顔をして床に蹲っていたリレイが、まるで溶けたスライムのように三肢を投げ出して声にならない呻きをあげているのを、麻辺は黙って見ていた。つい先ほど彼は自身の脈の平均も測り終わり、今は左手首のそれを手放す可能性を考えていた。
『これを付けてたら、父さんは勇一とずっと一緒だからな――』
そう言って別れた父の顔は、悲しそうに微笑んでいた。父としての役目を果たせずに去らねばならないことが、それ以上に幼い息子を置いていかなければならないことが辛かったのだろう。
隣で母は泣いていた。どうしようもない別れだったからだ。どうにかしてこの別れを避けようとしていたのを麻辺は知っている。近所や親戚に頭を下げ、役所に相談をし、それでも避けられない別れだった。それが確定し、もはや覆らないと解ってから母はずっと泣いていた。そこから彼女が笑った記憶は麻辺にはない。
(……)
遠ざかっていく車を見ても麻辺は「悲しい」とか「辛い」など、人目も憚らず泣き崩れる母のその感情と重なるものは何一つ感じていなかったのを思い出した。ただ「仕方のない」ことだったからだ。運命なのかそういう性質なのか、一時繕うことはできても決して変わることの無い、そのようなものだという風に感じていた。
(プールとかなら外すけど『手放す』……。これを持ってたら一緒だって言われたし、それに)
「……アサベさぁぁん……」
「……、っあ、はい! あ、えっと、何です……あ、何?」
予兆なくリレイに名を呼ばれ、麻辺の思考は霧散していく。ただ、心の中で敬語を嫌がるリレイに対応できたことだけは確認した。
リレイは名を呼んだはいいものの、何か具体的なことを語りかけたいというわけではなかったらしい。起き上がったものの顔は赤いまま、目線は床のままだ。麻辺はその彼女の態度に、自分が幻聴に返事をしたのではないかと思い一人恥ずかしくなった。そして、その恥ずかしさと本人の性質から彼は口を噤む。
しばらくリレイが脚を動かしたり、小さく呻いたりする声だけが室内に響いていた。
「……アイツ探しに行く? 私達、変な誤解されてるよ、きっと」
リレイは立ち上がると渡されたものを瀬良のリュックに入れ、腹立たしそうに二度蹴りを入れてから麻辺に言う。顔はやはりまだ赤いが、言葉を発することによって冷静になろうとしていた。
「別にアイツにどう思われてもいいんだけどね? その……あの、……もおぉぉ、あの馬鹿!
……えっと、まあアイツも恩人ではあるわけだし、お母様はもちろんお父様だって三人一緒にいてほしいと思ってると思うし、その、恩人を必要以上に危険な目に遭わせるのは嫌だと思うの。今の三人旅だってお父様なら反対するわ」
自分だけの感情では納得できなかった彼女は、両親の心情を予測し、それによって自分の道筋を定めようとしていた。リレイは頷きながら言葉をつづける。
「アサベさん達の『セカイ』って戦う人とそうじゃない人がいて、『魔法』はないんでしょ?」
「たたか……あー、はい、そう、だね。魔法はない。だからえっと、僕達はここが異世界だって思って……はい」
「そうなんだよね……それなのに私達の世界よりも進んでる……。魔法がないのにどうやって……じゃなくって!」
右腕を失っているリレイは両の手を打ち合わせることができないから、彼女は左手で自分の太ももを叩いた。麻辺はそれを見て彼女の父からの遺伝を感じたが、それは口にするまでのことではないと判断した。
「魔法が使えないのは危険なの」
「あー……誰かに……、えっと、簡単なものでも魔法を使われたら……瀬良君、抵抗できないか……。あ、それと、僕も」
麻辺の脳裏にはベッドで硬直している瀬良が浮かんでいた。三人旅となる直前、ミランダが一気に警戒を強めたあの一件だ。その反応から麻辺は、あの魔法が簡単なものなのだろうと予測していた。
だが、リレイは首を横に振る。彼女の顔は真剣そのものだった。
「違う。そんなことあったら駄目なの。『魔法を使えない』なんて誰かに知られたら駄目」
その表情に、麻辺は自分と瀬良が魔法を使えないことを知っている人間がリレイだけではないことを伝えようとしたが、できなかった。真剣そのものの彼女の表情は、有無を言わせない迫力を持っていた。
リレイは十一歳の隻腕の少女ではあるが、彼女も戦場にいた兵士である。なおかつ、領地を背負うことが宿命づけられた少女だ。そんな少女の気迫は、麻辺が受け続けた暴力の主のそれとは決定的に異なっていた。経験のないそれに、麻辺の本能は「観察」の選択をする。
「今は……今はクロッシェンが戦場になる可能性があって、一番近いワミサの人達が集められた。……クロッシェンが落ちたら、次の軍の町まで落ちる。今、ワミサには誰もいないから」
彼女は呟く。生まれ故郷が消えていく絶望よりも、それを前提とした話を進めることの重要性が彼女の中で優っていた。
「もし、私が敵だったら……ここに来る。空っぽの軍の町。設備は整ってるし、挟み撃ちにできる。される可能性もあるけど、でも、一人でも生き残れたら情報を持って帰れる。薬とかも盗んでいく。
……軍の町なら薬とか包帯は優先されるから王族よりもいい治療が受けられる、なんて話もあるくらい。お医者さんもすごいんだ、魔法の学校に行って成績優秀者になって、そのあとに五年くらい治癒特化の魔法を勉強しないといけないの。軍の町の医者はその学校の成績優秀者が何年も経験積んで、それでやっとらしいから」
彼女はそう言って自分の右腕だったものを振って見せた。空っぽの袖が少しだけ揺れる。麻辺はそれに頷いた。当然のことではあるがこの世界の知識が圧倒的に不足している自分よりも、リレイの判断に従った方が賢明であると思えたからだ。
「ま、私は腕が見つからなかったし仕方ないんだけどねー。でももう少し長く残ったかも……ううん、ここまで短くなったら諦めるしかない。
で、アイツを探しに行く時間なんだけど、どれくらいがいいと思う? 早ければ早いほどいいとは思うんだけど、今、ワミサ基地には誰もいないみたいだから退避命令が出てるはず」
「……」
リレイの言葉に麻辺は引っかかるものを感じた。彼は沈黙し、リレイの発言を一から追っていく。違和感のないところを少しずつ削り落とし、彼は最後に残ったそれを口に出した。
「あ、あの、リレイさん。……その、なんで『この基地には誰もいない』って……」
「え? あそっか、麻辺さん知らないもんね」
リレイは得意そうな顔をする。年上の人間に物事を教えるときのそれだ。
「軍の基地が空っぽになると明かりが消えるの。今はあんまり意味ないんだけど、正確な場所を知らせないためなんだって。今ではみんなが簡単に明かりをつけられるけど、昔は向いている人がやらなくちゃいけなくて、その方法も確立してなかったから明かりは大切だったみたい。
それに戦うのは兵士の役目だから、それ以外の人が戦場になりそうな場所にいるのはよくないでしょ? だから軍の町の普通の人は出兵の知らせがあると近くの町とかに退避になるんだ」
「そうなんだ……それって、あの、《シンシェ》だけ? えっと、他の国とか、あ、その前に地域とか……」
「あ、どうなんだろ……少なくとも《ロザ》、《エヴァリ》、《ガイヴァ》……うーん、とりあえず《シンシェ》の近くで戦闘になる可能性がある国はそう……の、はず……」
リレイは先ほどまでの得意そうな表情は消え、心配そうにに呟いた。彼女にとって先ほどまで述べていたことは常識であり、それに対して疑問を持つ機会は皆無だったからだ。彼女は思いつく限りの国と、その軍の在り方を思い出すために眉間に皺を寄せる。
実際のところ、リレイが言ったように戦闘となる可能性がある国――換言すれば、国境が隣接している国さえ知っていれば問題はない。なぜなら、レアリムに国を跨いでの戦争という発想がないためだ。飛行機という文明はないため空戦の心得はなく、またレアリムの戦争が領土拡張を代表とする利権の争いとは別種の、決して譲ることのできない目的を持っているためである。
戦争は現代日本を生きる麻辺にとっては学校で学ぶ知識でしかなく、それ以上の価値は彼にはない。それでも太平洋戦争での飛行機を使った空襲、小型ドローンを使った偵察などを知識として持っている彼は、そのふと抱いた疑問を捨て去ることはできなかった。
「……僕個人としては、明るくなってからがいいかな」
黙ってしまったリレイを見て、彼女が口を開く様子を見せなかったため麻辺は言葉を発した。
「どうして? 確かに私、魔法はまだまだだし、明るい方がいいよ? だけどアサベさん、アイツはどうするの? えっと、私は全然そう思えないんだけど、アサベさんにとってアイツは優しいんだよね」
「まあ、はい……優しい人だと、ずっと思ってる」
「その優しい人を一晩放置するってことだよ。魔法は使えない。戦争がない。えっと……ジェータイでもない。あの人は戦えるの? 素手で、魔法に対抗できる?」
今度はリレイが抱いた疑問を麻辺にぶつける番だった。戦闘経験のない非戦闘員を一人にすることについて、当然抱くものである。
「……瀬良君、強いし……」
「その『強い』はこのセカイでも通じるもの?」
「えっ……それは、あの……」
「私、なんとなくだけど覚えてるよ。アイツ、私の腕を斬るような危ない人がいるところで見張りはしたくないって言ってた。あの時は役立たずになるのが怖くって私もそれどころじゃなかったし、今は『イセカイ』を知ったから納得するけど……異常だよ?」
リレイは麻辺の手を握った。熱くもなく冷たくもなく、いたって普通の彼の腕は、男性特有の、太い骨が一本通っているような硬さを持っていなかった。むしろ、その肉付きの悪さから骨の硬さを直に感じ、一抹の不安を抱くようなものだった。
「私、殺すのは嫌だ。殺されそうになるのも嫌。それに死にたくない。
でもね、きっと殺されそうになったら相手を殺そうとすると思う……そういう風に教わったから。それに、そうやって生き抜いたし……」
彼女は再び腕だったものを振る。決定的な損失の証であり、生存の証明だった。不可逆的なそれは、そうすることで少なくとも地球育ちの麻辺には説得力を持つ。
「たぶんだけどね、アイツはこの世界じゃ強くない。十六歳なんだよね? それは魔法を使いこなしている歳だよ。どれだけジュードーが強くっても、魔法を使わないで最強でも、魔法を使われたら、終わり。簡単に死んじゃうよ」
「……そう、だね。うん……うん、この世界だったら……」
きっと地球の大半の人間はなす術もなく殺されるだろう、と麻辺は思った。
技術をベースとした文明的には地球の、特に先進国に限定すればレアリムのそれは格段に劣る。電気はなく、当然インターネットもない。水道はあくまで水を引いているものであり、ガスというものも生活に隣り合うものではないのだ。だが、その「技術」の部分をこちらの世界では魔法で補っている。明かりは己の意思で灯すことができ、遠くに離れた人とも意思疎通が可能である。水も自己の所有をもってすれば移動が可能であり、火は明かりと同様に自分で熾すことができる。
そして、今彼らがいる世界は魔法をベースとした文明だ。技術を消費するのみの麻辺と瀬良が、現在この世界と対等たり得ることはない。
「……僕は、瀬良君を信用して……違う。瀬良君だけじゃなくて、えっと、あー……この世界を信用して、明日明るくなってからにする」
「……信用?」
「えっと、まあ、都合よく動いてほしいなっていう……じゃなくて、動かないでほしいなって。瀬良君はあの、全然馬鹿じゃなくって、頭が良いから……うん。あの、たぶん、動き回ったりしないと……。
それと、この世界に対して。少なくとも僕達が瀬良君を見つけて、ここから離れるまで……誰も……そう、あの、誰も来ないでほしい」
「……」
「僕達が離れたらどうなってもいい……って訳じゃないんだけど、あの、すいません。えっと……」
「うん、なんとなくは分かる。アイツは余計なことをするな、そしてワミサ脱出までなんにも起こるな。そういうことだよね?」
「あ、はい、……そうで、あ、そう」
麻辺は頷いた。リレイの要約が的確だったからだ。
「じゃ、今日はもう寝ちゃう?」
「え、……リレイさん、眠いの?」
つい先ほどまでリレイが眠っていたのを知っているので、麻辺は戸惑いながら彼女に問いかけた。オーガスタの魔法により一日の大半を寝て過ごす彼女がさらに眠れるとはとても思えなかったのだ。
麻辺の指摘を受けてリレイは困惑した表情を浮かべる。
「眠いっていえばそうじゃないけど……でも、眠れそうだし。そうだアサベさん、アイツいないしあっちのベッドで寝ちゃわない? 一緒に寝ようよ」
「それはいいけど……あの、僕怒られない? お父さんとかに……」
「ばれなきゃだいじょーぶ! ね、ね、どうせならベッドくっ付けてみない?」
「あー……いいのかな、勝手に動かしても……」
「また元に戻せばいいでしょ」
「うん……あ、でも、この建物の人、警戒してるみたいで。僕も瀬良君も、あの、全然リレイさんに触れなくなってて……あ、じゃあ問題ない……?」
麻辺が何気なく発した言葉で、リレイの頬は一気に紅潮する。だが、それに気づかない麻辺は、瀬良の荷物をリュックにまとめるとそれを床に移動させた。そのとき、枕の下に硬いものがあることに気づいた。用心して引き抜けば、それは警棒だった。それはリュックの分かりやすいところに彼は刺した。
ベッドの脚を確認し、どうやら床に固定されていないことを悟ると麻辺は顔を上げた。
「リレ」
「やっぱり一人で寝る!」
はじめに寝かされたベッドの上に移動していたリレイが叫ぶ。
「えっ、あ……そう」
「うん。お休みアサベさん!」
「あ、はい……おやすみなさい。……僕、何かした……?」
リレイの心が分からない麻辺は、一人呟いた。




