リレイ=クロッシェン
太陽が再びその顔を地平線に隠そうとし始める頃、二人は多くの木々が茂る森に辿り着いていた。瀬良が周囲を捜索すると、大きな広葉樹の根元に洞を見つけ出した。それは三人で入るのにはなんとか不自由しない程度の広さを持っていた。とはいっても、少女を寝かせているから男二人は足を伸ばすことができない程度の広さである。
そんな状況を見た瀬良は、寝かされている少女をまたいで洞の口に座り込んだ。そして、振り返りもせずに言葉を発する。
「今日は俺が見張る。お前は寝ろ」
「え……でも、僕、あの……」
「うるせえな……黙って従えよ、麻辺。お前が死んだら……いや、別に死んでもいいけどよ、そのガキ誰が運ぶんだよ」
「……でも」
「お前寝てねえだろ。……俺が外側にいりゃあなんとか寝れんだろ。俺は半日以上寝たからまだいけるわ」
「あ……えっと、あ、じゃあ……あー……お、おやすみなさい……すいません……寝ます……」
「おう」
申し訳なさと戸惑いの色が濃い口調で麻辺は返事をする。そんな彼に対して瀬良は振り返りもしない。
麻辺は瀬良の言葉に従ったものの、どうしても寝付くことができなかった。確かに体は疲れているし、歩き続けたことによって足の痛みは深刻なものになっていた。
(寝たら……眠れたら、たぶん少し楽になるんだろうけど……)
麻辺はそう思って目を閉じるが、どうしても眠気はやってこない。彼の身体は見知らぬ状況に警戒しており眠ろうとしないのだ。
事故にクラスメートと共に遭ったと思っていたら、よく知らない場所にいた。彼と共に歩き続けて出会ったのは、右腕を切断され意識を失った少女。その少女を背負って五時間以上歩き続け、そんな彼女の隣で眠る。
安心して眠れというのは難しいが、それでも通常の人間ならば疲労がその警戒を上回り、生物としての本能で眠れたはずだ。だが、麻辺はそれができない。当の本人がその理由を理解できずにいた。
(寝ろって言われたから寝ないと……)
麻辺はそう自分に言い聞かせる。だが、そうすればそうするほど眠気は足早に去ってしまう。
そんなとき、少女がうめいた。
「今の麻辺か?」
そのうめきを聞きつけた瀬良が、意識は外に向けたまま声をかける。
「えっ、あ……」
「寝ろつったろうが……」
「すいませ」
「別にいいけどよ……じゃ、それか」
土の付いた複数の木の根を片手に、そして木の葉を数枚口にくわえた瀬良が戻ってきて顎で少女を指すと同時に、彼女はだるそうに目を開けた。
「っ……?」
彼女は現状の把握が完全にはできないのだろう。ただ細く目を開けたまま周囲を見ていた。最後に自分のことを仁王立ちで見下ろす男と、自分の隣で半分上体を起こした体勢で顔を覗き込んでくる男を、真夏の海のような蒼い瞳で不安げに見た。
「あー……なんだ? ハロー……じゃねえな、イブニング? マイネームイズ セラカオル アンド、……ヒーイズ アサベユーイチ。アイムアンドヒーイズ……イズ……おい麻辺、『俺らは安全』って英語でなんつうんだ?」
「えっ……え、あ、安全だとあの……せ、セーフ?」
「セーフ? じゃあアイムアンドヒーイズセーフ‼ ……通じてんのか?」
怯えた表情のまま反応を見せない少女に、意思疎通ができていないと判断した瀬良が麻辺に問う。麻辺は少女のことを観察した。
(この子はさっき瀬良君が自分に話しかけてきたのは分かってる……今は僕に質問したっていうのも、僕のことを見てるから、たぶん……あ)
そこまで理解して、麻辺は一つの可能性に辿り着く。それは一番言ってもいいことか判断しかねるものだった。
「……ああ……の……あ、瀬良、君」
麻辺はそれを伝えることにした。
「たぶんその……たぶん……あの……通じては……なくて……」
「……やっぱか。俺外国語できねえぞ」
「あの、それも……その、あ……せ、瀬良君のあの……英語の……とこだけ……」
「は?」
「だから……あの、たぶん……今、その、僕と瀬良君が話してるのは……あの……」
「……」
「……」
「……」
数十秒の沈黙。
「おい」
瀬良の冷たく、地の底から響くような声に少女はびくりと体を震わせた。
「お前……今、俺がなんつってるか分かんのか」
「……はい。その……セラクンさんがこちらに来てから……大体りか」
「糞ッ‼」
瀬良のその簡潔な叫びは、『ダンッッ』と彼が壁をたたいた音にも負けないくらい大きなものだった。パラパラと木の皮が降ってきて、それが彼の羞恥のほどを表す。
「めっ……ちゃくちゃ日本語じゃねえか! は? 詐欺だろお前なんだよその目ん玉とか髪はよぉ! 外人みてーな面しといて‼ アァ⁉」
喧嘩腰の強い口調の瀬良に、少女は素直に怯えを示した。目を覚ましたら見知らぬ男性二人に囲まれ、片方は自分に対して怒っているのだから当然である。少女は自身に対して現状危害を与えてこない男の影に隠れた。
そして、怯えた口調で言う。
「ここは……どこですか……?」
そんな彼女の問いに答えられないのがこの二人だ。麻辺も瀬良も「ここがどこか」というのが分かっていない。彼女の問う「ここ」が「いったいどのあたりか」というものであるのに対し、二人が今一番知りたい「ここ」は「いったいここはどこか」というものだからだ。
沈黙を続ける二人に対して、少女は血の気の失せた顔色で、半ば悲鳴のような声で言う。
「人攫いですか……《ロザ》の方ですか……?」
「《ロザ》?」
聞き慣れない単語に瀬良が聞き返す。少女は瀬良が一気に苦手になったようで、身体をびくりと震わせたのが麻辺には分かった。
「私にできることは……なにも、ないです……」
瀬良と麻辺は顔を見合わせた。それは少女に言われるまでもなかった。片腕を失い、衰弱しているその子にできることなんてたかが知れており、その内容も二人が求めるものではないのは明らかだ。
答えるべき言葉を持たない二人に対し、少女は自分に対して価値をどうにかしてつけようと頭を巡らせる。そして、本来であれば禁じられているそれに手を伸ばした。
「でも、あの……! 私はダメですけど……私の家族なら……!」
「家族?」
「はい……私は……《シンシェ》の……クロッシェン家の者です。クロッシェンは、田舎の方ですけど、土地があります。お金もあります。私を……私を人質にしてください。私に兄弟はいません。私だけがクロッシェンを継げます。
だから……だから……お願いします……殺さないで……」
麻辺の背中の影で怯え、懇願する少女を瀬良は眺める。どうやら現状を生命の危機としたらしい彼女の本能は、鈍っていた意識を覚醒させることに成功したらしい。話すうちに口調はしっかりとしてきたし、今はきつく閉じられている瞼も、「人質に」と言った際にはまっすぐと瀬良の方を見ていた。
「殺すって……なぁ?」
瀬良は木の葉を吐き出しながら言う。そして、掘り返した根を口にくわえた。
「あー……けど、そうだな。お前、けっこういい所のガキなのか」
「クロッシェンは小さな領地で、何もない田舎町です。そこの領主の娘です。父も母も私を――」
「交換条件だ」
少女の必死な様子に利用価値を見出した瀬良がにやりとしながら言う。
「俺たちはお前を殺さねえ。けど、そうだな、俺たちは流れもんだ。どうしてこうなったかは探るなよ、探った瞬間お前は死ぬしその領地もぶっ潰す。お前ん家に俺達を無期限で泊めろ。対価はそいつが払う」
「あ……えっと、あ、……おっ、……働き、ます」
「麻辺、少しは堂々としろよ、おい。
つうわけでお前は今ここでおっ死ぬか、俺達の宿になって生き延びるかだ。選ぶぐらいならさせてやる」
そう言うと瀬良は麻辺の脇腹を蹴り、少女と向かい合った。今まで仁王立ちしていた彼は、ほとんど跪くような体勢になり少女に問う。
脇腹を蹴られた麻辺はというと、瀬良にされた行為でこみあげてくるものは何もなく、ただ二人の邪魔をしない様にそっと彼らから距離をとった。自分という要素が介入すれば瀬良の思い通りに事が運ぶか分からなかったし、たとえ運んだとしても今は「瀬良と少女」の話し合いだから極力自分を排除したかったのだ。
「……。分かり、ました」
少女は呟く。彼女にとって選択肢は無かった。
「父の領地に……《クロッシェン》の館にお二人をお招きします。私の……リレイ=クロッシェンの責任で父を説得します」
「あっそ。気がかわったらいつでも言え。右腕みたいにとは言わねえが、首――」
「右腕?」
少女――リレイはぽかんとして聞き返す。そして、彼女は自分の右腕があるはずの場所を見た。
途端に彼女の顔が蒼白になる。それはまるで死人のようだった。
「……う、で……腕が……!」
リレイはガタガタと震えた。今まで決して見せなかった涙も堰を切ったように流れ出す。
「いや……嫌、嘘、嘘でしょ……?」
「へ?」
「……」
「なんで、なんで私なの……! 嫌だ、イヤ、私、これから……私……‼」
恐慌に陥ったリレイの、涙声の呻きが洞に響く。
瀬良はそれを呆然と見ていた。彼が脅す意図をもってした発言にはリレイは気丈に答えていたため、何気なく指摘した事実にこんなにも乱れるとは予想だにしていなかったのだ。
「おい、お前、どうしたんだ? は? おい、……リレイ?」
「いやだ、嫌……死にたくない……死にたくないよ……!」
「別に殺さねえって言ったじゃねえか、おい、話聴いてんのか?
おい麻辺! このガキどうしちまったんだよ! つうかこんなに煩くしていいのか、追手とかいるんじゃねえのか⁉」
「えっ……」
「麻辺! こいつ腕斬られてんだからなんかいるんだろ! それくらい分かんねえのかよ糞が‼」
「あっ……え、あ……すみませ」
「いいから! お前はこのガキ‼ 黙らせろッ‼」
瀬良が叫ぶ。リレイの恐慌につられ、彼自身も心の奥の方にあった不安が押し出されてしまったのだ。だが、彼はそれを素直に出せるような人間ではなかったから、麻辺に対して強く当たることでそれの解消を図っていた。無意識ではあったが、彼が日常的に行っていることだった。
麻辺はそれを戸惑いながら見ていた。彼は今左手で頭を抱え「死にたくない」「ごめんなさい」「許して」「捨てないで」「役に立ちます」と見えない誰かに泣き縋る少女のことはよく知らない。また、咥えていた木の根を顔面に向かって投げてきて「お前がどうにかしろ」「やる気あんのか」「役立たず」「ぶっ殺すぞ」と脅す彼のことは見慣れていた。
つまり、今この場に麻辺の心を揺らがせるものは何一つなく、彼は冷静だった。冷静過ぎて何をすればいいのかが理解できないほどに、だ。
「えっ……と。あの、瀬良君は……その、少し……あの……みは、見張り、……お願いできますか」
「は? 見張り? お前ふざけてんのか? こんな状況で見張りなんて意味あんのかよ! こんなガキの腕ぶった斬るキチガイがいる所で見張りしてなんになるんだよ‼」
「り……リレイさんはあの、瀬良君が怖いんだと……あの……たぶん。それにあの……瀬良君、つ、強いから……」
「っ……。分かったよ、ったく……」
瀬良は渋々と引き下がる。今まで麻辺に対して暴力を振るってきた手前、「強い」という語句を出されて尚反論を繰り返せば、今までのそれが虚構になってしまうことを予期していたのだ。
「……これ吸え。木の根っこ……水飲めるぞ……あとはしゃぶって唾でも出しとけ」
瀬良は持っていた木の根を麻辺の方に放った。麻辺はそれらをいつも通りに受け取り損ね、彼の膝のあたりに散らばった。
「……」
「……んじゃ、見張る」
そう言い残した彼は、この木の洞から出た。彼なりのリレイに対する気遣いだった。