クロッシェンにさようなら
その日のクロッシェンは、どこか薄暗かった。日がまだ登りきらないからというわけではなく、空気そのものが沈んでいたのだ。何かが燃えた、いや、燃え尽きた灰の匂いが辺りに漂う。
麻辺はその匂いがあまり好きではなかった。煙たいそれは麻辺の喉に攻撃を加える。彼は何度目かの咳をした。その咳を聞いたミランダが、やはり眉尻を目に溶け込みそうな位下げて振り返った。
麻辺はそれに対して緩く首を振る。彼女が気にすることではないと思っていたからだ。腹に着替えを巻き付け、まるで手足だけが長くなった幼児を大きくしたようなシルエットで麻辺はミランダを追う。
昨晩盗み聞きをした部屋の扉をミランダがノックし、麻辺を連れてきたことを部屋の中に知らせる。一瞬の間をおいて返事をしたのはリンダだった。彼女の声には僅かながら潤みがある。
ミランダが扉を開き麻辺を促す。麻辺は彼女に対して軽めの会釈をして、部屋の中に入った。部屋にはリンダと瀬良、そして眠っているリレイがいた。三人、麻辺を含めて四人の他には誰もいない。
「オーガスタはいませんよ。……処理、へ行きましたから」
部屋の中を見渡す麻辺に対してリンダが微笑みながら言う。彼女は昨日のことをオーガスタから伝え聞いていたのだ。そのため麻辺が部屋を見渡す理由をオーガスタを探しているからと思ったのだが、麻辺はただ単にそれをしていただけで理由はない。
「どうぞおかけになってくださいね。今何か飲むものを用意しますから」
「え、……あの、あ、気にしないで……あの、ください」
麻辺の言葉にリンダは返事をしなかった。普段の彼女であれば決してこんなことをしない。立ち上がった彼女は目を覚まさない娘の頬を撫でると、その場から離れなければならないというように足早にこの部屋の奥、敷居のむこうのキッチンへ向かう。
彼女に今話しかけても得られるものはない、そう判断した麻辺は勧められていた椅子に座る。それは瀬良の隣だった。瀬良は一瞬麻辺を見るとすぐに視線をテーブルに落とす。そして、そのまま欠伸をした。
「……あ、の……瀬良、君」
「……んだよ」
「眠れて……あの、寝てないんですか」
麻辺がそれを言い切る前に瀬良は舌打ちする。その音の大きさは、そのまま瀬良の苛立ちの大きさだった。
麻辺の指摘通り、瀬良はあれ以降眠ることができなかったのだ。体も心も眠気を訴えているのに、なぜか意識を手放すことはできなかった。リュックをもう一度ひっくり返す気も起きず、瀬良は眠れることを願って目を閉じ、明かりが入ってこないよう腕で覆っていたのだが、それは無意味に終わっていた。
瀬良は今日鏡を見ていないが、それでも酷い顔をしているのだろうというのは、メイドが彼を部屋まで迎えに来たときからわかっていた。久方ぶりに制服を身に付け、警棒は尻ポケットに差し混む。リュックを背負い、彼がこの部屋にやってきたのは五分ほど前だった。
「別にお前に関係ねえだろ。ほっとけ」
十秒もかからないこの発言ですら瀬良は途中で欠伸を噛み殺す必要があった。「寝ていない」「眠れなかった」と麻辺に伝えるのは、なんとなく屈辱的だったのだ。とはいえ瀬良の冷静な部分は、こんな状態では自白しているようなものだと呟いた。
麻辺はその発言を受けて、話を変えようとした。だが、ちょうどそこでリンダがティーカップ三つをトレーに乗せて戻ってきた。彼女はまずは瀬良、次に麻辺、最後に自分の目の前にそれを置くと席に着いた。
「どうぞ。お口に合うといいのですが」
彼女は寂しげな微笑と共にお茶をすすめた。麻辺はそれに小さく頷きながら、瀬良は欠伸をしながらそれを飲む。口に含んだ瞬間、それはフルーツの香りを喉から鼻に運んでくる。
「……ラオタイ」
「ええ、お分かりになりますか?」
「趣味悪ィ」
「……えぇ。そうですね」
“ラオタイ”は見た目は薄紫のミニトマトで、それは房状に実をつける。味はブドウをベースにした野菜ジュースに近かった。クロッシェンの特産の一つで、特にグラッぺで盛んに作られているものだった。大半は酒に加工され、時期に外れたものが紅茶の香り付けに利用される。果実そのものを食べることは稀だった。
この紅茶の香りの正体を当てた瀬良は舌打ちした。仮にも領主の妻、今は領主代理ともいえる立場のリンダに対してしていい態度ではない。だが、今そんな彼を咎める人間はいなかった。
「……娘を……いえ、クロッシェンの希望、クロッシェンの明日であるリレイを。――お願いしますね」
「その辺は麻辺に言え。俺は嫌われてる」
「……えっ、え、あ……あー……」
「まぁ。そんなことないですよ。リレイはセラ様のことも好いています」
「ハァ? 俺を好いてんだったらリレイはゴキブリ愛してる並みに博愛主義者だ。そんでリレイは博愛主義じゃねえ、クソガキだ。ちゃんと娘見とけ。
つかリレイが好きなのは麻辺だろ。『アサベさん、アサベさん』だぜ、ずっと」
瀬良はおどけた口調で言う。特にリレイの物真似――彼女は似ていないと怒るだろう――をしたときは、声を一オクターブは高くして、リレイが廊下の端で麻辺を見つけ名を呼びながら駆けてくる時の声の調子を忠実に表現していた。
麻辺はそんな瀬良の様子をただ見ていた。その視線に気がついた瀬良は一瞬麻辺を見て不快そうな顔をするが、すぐにリンダに視線を戻して口を開く。
「んで、俺達はどこまでリレイを誘導すりゃいいんだ? 学校がどことか知らねえし、せめて地図はねえのかよ。あと金。可愛い一人娘、将来の……あぁ、領主か。身の安全の保証ができる最低限はくれるんだよな?」
瀬良は言い終わると大きく欠伸をした。彼の雰囲気は相変わらず敵対的なものを持っていた。無礼だと言うのもあるが、彼は悪役を演じていたのだ。
それを察した麻辺は口を挟もうとは思わなかった。加えて瀬良が今リンダに要求したものは、麻辺もあてのないこれからの旅路で必要なものだと考えたのだ。
地図があれば――たとえこのクロッシェンの地からリレイが行くべき学校までのものであっても――この世界のことを学ぶことができる。異世界からやってきて常識もなにもかもない彼らにとって、それは不要なものになることはない。
金もそうだ。むしろ異世界か否かを問わず「人間」として生きていくために最も必要なものだ。《シンシェ》は既に物々交換の文明は通り過ぎ、通貨という文明を使いこなしていた。そんなところに無一文で乗り込むのはいらぬ争いを生み出すことに他ならない。
「学校は」
瀬良の要求を受けてリンダが説明を始める。
「『セイテロ・ヴァ・イツィフ』という名で、それがそのまま地名ですわ。学園都市で、リレイはそこに通います。商業都市シェントンに隣接していますの。そのシェントンの更に隣にはこの《シンシェ》の都が」
「言葉で説明すんな。地図よこせ地図」
瀬良がなげやりな態度で言う。この世界のことはクロッシェン以外ほとんど知らない彼の悪ぶった態度として当然のものだった。
そんな彼に対してリンダは悲しげな微笑を浮かべ、しかし毅然とした態度で口を開いた。
「地図は『リレイ』です」
「は?」
「リレイが道案内をします。彼女にかけられた暗示がそれを果たします。お金も彼女が造ります。オーガスタの暗示が、リレイがまだできない召喚魔法を成功させます」
「あ、じゃあ……僕達は、あの、……リレイさんを絶対に守らないと……あの、いけないわけですね」
「ええ……そうですわ。お願いしますね?」
「あ……はい。それは……あの、あー、やります。ちゃんと……」
麻辺はそう言いながら瀬良の方を見た。彼は信じられない、という目でリンダとリレイのことを交互に見ていた。リンダの言葉に納得がいかなかった彼は、しかしどう責めるべきか言葉も見つからない。最後に麻辺の方を向いて、彼は口を「マジかよ」と動かしたがそれは言葉になっていなかった。
そのまま瀬良はこの場から下りた。体はこの場に居続けるが、心は完全に拒絶に染まり、もうリンダの方を見ようとすらしなかった。ただ最後に彼女に向かって大きく舌打ちした。その舌打ちにリンダは目を伏せる。
「……あの、じゃあ、あの……。り、リレイさんを起こしても……あの、それとも起きるまで待っていた方がい……いです、か?」
瀬良の不干渉の意思が固いと判断した麻辺はつっかえながらリンダに問う。彼はそうするべきだと思ったのだ。その理由はわからない。ただ、一般的にそのような提案は発案者がやるものであろうという思いを麻辺は自分の中で後付けする。そうすれば自分の責任が軽くなるような気もしていた。
「……荷車を裏門に用意しております。あなた方の設定ではあまり立派なものをお渡しするわけにはいかないものですから……その」
「……今すぐ、ですか」
「はい。できるだけ早く。……わたくしの気が、決意が揺らがない内に……どうか」
悲壮な決意を隠しきれていないリンダの言葉に麻辺は頷く。それに彼女も頷きで返すと、わざとらしい、明らかに嘘である微笑みを浮かべて立ち上がった。そのまま扉まで歩くことで、彼女は自分の意思を「領主の妻」「次期領主の母」という揺らいではいけないものできつく縛り形にしているのだと暗に語る。
麻辺はその誘導に従い立ち上がるとリレイの元へ行き彼女を背負う。かつて、この世界に来て右も左も分からず、体力も底を尽きかけているときにも彼はそうしていた。リレイを背負って運ぶというのは、麻辺勇一のこの世界での役割だった。
そんな麻辺の行動にリンダは刹那顔を歪ませたが、それはすぐに彼女の公の部分が隠す。
「……お願いしますね、アサベ様」
「っあ、はい」
「セラ様も、どうか」
「……」
瀬良は名を呼ばれたことで一瞬だけリンダを見て、面倒くさそうに頷いた。
「なにより、皆様……どうか、どうかご無事で」
「……」
「……あっ、ぁありがとうございます。えっと、あ、気を付けます。行ってきます……あ、はい。行ってきます」
いつもはすぐに言葉を発する瀬良が無言だったことで生まれた間に麻辺は音を生む。そうしなくては仮にこれからも世話になることになった時、なにかしらのしこりが残るような気がしたのだ。
(たぶんこれで大丈夫……だけど、リレイさん死んだら無意味か……)
そんなことを思いながら麻辺はずり落ちてきたリレイを背負い直し、リンダの前を軽く会釈して通りすぎる。そのあとを瀬良が仏頂面で通り、二人は裏門に歩を進めた。
「……まあ」
十数歩進んだあと、不意に瀬良が口を開く。彼は振り返ると少しだけ驚いた表情をしているリンダをまっすぐと見た。
「できることはする……。リレイは……こいつ自身が必要とされてるみてえだし……」
「……」
「……っ、まー盾くらいならなるわ、麻辺が!」
「盾……あ、はい。なります」
「えっ、お、そういうことで、まー祈るなら麻辺に祈っとけ!」
瀬良はそう言うと、もう後ろを振り返らずに進んでいく。明らかにこの場を離れたいらしい歩幅とスピードだった。麻辺はそれにおいていかれないために、体を少しだけリンダに向けていて、彼女のことが視界に入っていたからリレイを落とさないよう目礼だけすると、小走りで瀬良を追った。
リンダは、その二人が見えなくなるまで見送っていた。微笑みを浮かべ、一瞬たりとも取り乱すことはしなかった。
彼女のその公の姿が崩れたのは、煤で身体中を黒く汚したオーガスタが報告のために彼女の元を訪れたときだった。
まるで三歳の幼い子供がするように泣きじゃくる彼女を咎める「人間」はどこにもいなかった。




