一日目
来るべき衝撃に目を閉じ歯を食いしばっていた瀬良は、それがいつまでたってもやってこないことに拍子抜けした。ならばこうしていても仕方がない、と彼はきつく閉じていた瞼をあげる。
「……あ?」
瀬良の目に飛び込んできたのは血まみれの自分でもなければ、大破したトラックでもない。心配して集まってくる通行人もいなければ、蒼白の顔で激怒しトラックから降りてくる運転手もいない。
彼の視界に広がるのは、青々とした草原だ。どうやら数日前に雨が降ったらしく、それを示す湿り気が彼の衣類全てに纏わりついている。彼の最後の記憶と同じなのは雲に覆われてその光が届かない空くらいだ。
瀬良は思わず舌打ちする。
「って、おい、麻辺! いんのか、麻辺‼」
瀬良は最後の記憶では自分の体の上にいた麻辺の姿が見えないことに気がつき、その名前を呼ぶ。それは反射的なことであり、普段麻辺を虐めているということは、今の瀬良の頭の中にはなかった。
麻辺はその声を背中で聞いていた。彼は既に目を覚ましており、瀬良の姿が確実に見える範囲で、つまり瀬良を中心として円を描くようにして移動し、この場所を観察していたのだ。
(……なにも、ない……)
彼は数十分ほど前に目を覚ましていた。今までの観察で「ほとんど何も見えないくらい真っ暗だから、今は夜だろう」というただ一つだけしか得られなかったと理解すると、小さく息を吐いた。死後の世界というにはあまりにも現実と地続きだから、彼はこれを現実だと判断していた。
それに、これがもし死後の世界だったらと思うと、彼は少しだけ失望したのだ。
「麻辺! いねえのかよ! 麻辺ェ‼ 死んじまったのか、おい、どこだ! あーさーべーッ‼」
「……はい」
未だに自分の名を叫び続ける瀬良に聞こえるかどうかは分からなかったが、麻辺はその呼び声に返事をする。そしてゆっくりと彼の元に向かった。
「……あ……っと」
「うぉお⁈ ……お、麻辺か、なんだ、いたのか……」
「はい……まあ、一応……」
「んだよ……はあ……で、なんだここ。お前、ここなんだか解るか?」
「あー……現実だとは――、……すいません……」
麻辺が「現実」というワードを発した瞬間に瀬良の腕が動き、次の瞬間には乾いた音が辺りに響く。音の正体は、瀬良が麻辺の頬を平手で打ったのだ。麻辺は頬を張られることはすでに慣れていたから特に悲鳴を上げるでもなく、その余韻がやってくる前に謝罪の言葉を口にする。
一方の瀬良も麻辺がこういった暴力に鈍感なのは知っていたので、それ以上彼にどうこうしようとは思わなかった。だが、やり場のない複雑な感情の消化として彼は舌打ちし、周囲を見渡してもう一度舌打ちした。
「……とりあえず、死んじゃいねえんだよな、俺たち」
「えっと、まあたぶん……そうですね。死んでないと思います」
「だよな……つかトラックでお前と心中とか嫌すぎるわ。それこそもういっぺん死ぬしかねえ」
「……」
「はぁー……」
瀬良はちらりと麻辺の方を見て、彼がいつもの無表情であったから大きなため息をついた。瀬良は尻のポケットからスマートフォンを出すとそれを起動させる。唯一の明かりが瀬良の顔を照らした。
「……は? 圏外? ……GPSも? ハァ?」
文明の利器ともいうべきそれは、瀬良の求めるものを与えなかった。いつもならば「4G」という文字が浮かび上がっているはずの個所は「圏外」という無情な二文字を持ち主に示す。ならばと起動させた地図アプリも、現在地を表示させないことはもちろん、そのコンパスもぐるぐると回転し続け方向すら瀬良に教えてくれなかった。
「おい麻辺、お前はスマホ」
「僕持ってないです」
「ハァァ⁉ 正気か、お前?」
「え……だってあの、そういう友達……いませんし……」
「あー……」
瀬良は自分の知っている麻辺を思い出し、今の自分の発言がいかに無意味なものだったか悟った。
「あの……とりあえず、ですけど」
「あ?」
「えっとその、野宿か、その……歩くか、決めませんか……? 今たぶん夜だし、その、星が見えたら北極星とかで何とか……あの、無理なんで、明るくなるまで待つか、どうするか……あの……すいません……」
麻辺の声は力なく消えていく。彼はこんなに連続して言葉を発したのは久しぶりだったのだ。それに目の前の頭一つ大きく、身体の厚みも倍、そして金髪の奥で鋭くなった目を見ると、喉にまるで膜でも張ってしまったかのように声は音を伴わなくなってしまった。
瀬良はそんな麻辺の様子を見てもう一度ため息をつくと、表情をやわらげた。彼は麻辺の提案は尤もだと考えていたし、今この状況で一人で行動するのは愚かだということを理解していた。
(よりによってコイツとか……一人でもそんな変わんねえ気がすっけどなあ……)
とはいえ、麻辺と組むことには不安も残る。瀬良の記憶では麻辺はいつもこんな調子で、常に誰かに虐められていた。同級生はもちろんのこと、下級生や上級生、果ては違う学校の人間にまで、だ。教師は虐めこそしないもののどこか煙たがっているようだった。
「……野宿。俺は寝る、三時間だ。三時間経ったら起こせ……時計は持ってんだろ」
「あ……うん、はい。持ってます……一応……」
「……はぁー……お前じゃなくてもっと頼れる奴ならなぁ……。まあいい、起こされたら見張り代わってやるよ。……あぁ、俺を起こすのは別に四時間でも五時間でもいいからな」
瀬良は最後にそう付け加えると、リュックを枕にして寝転がった。元々背中は湿っていたから今更気にすることは無かったのだ。ほんの五分前まで意識を失っていたにも関わらず、数分後には彼の口からは規則的な寝息が発される。
麻辺はそんな瀬良を黙って見ていた。
(見張り……なんかあるのかなぁ……)
耳の後ろを掻きながら麻辺は考える。彼は眠る瀬良の隣に座ると、腕時計を見た。時刻は八時四十六分を指している。
(家を出たのが七時四十五分くらいで……瀬良君に会ったのが八時十分より少し前で、僕が目が覚めたのは八時十分。……時計はおかしくなってない……よかった)
麻辺は無表情のまま、しかし心から安心して腕時計をなでた。彼が自分の命以上に大事にしているそれは使い込まれていることを証明する佇まいだ。細かな傷はもちろん、欠けや黄ばみもある。中学時代、いつものように虐められているときに取られたことがあり、彼は激怒した。その時の記憶は麻辺の脳内にない。ただ、周囲が時計には触れなくなっただけである。
麻辺は時計を守るように手で覆いながら顔を上げ、瀬良に言われた通り見張り――とはいっても、周囲をぼんやりと見るだけ――を始めた。