方法は……
「お母様……」
「ご安心ください。眠っていただいただけですから」
オーガスタ――警備隊長はそう短く答えると、リンダの身体を部屋のソファに横たえる。完全に脱力した身体はそれに深く沈みこんだ。リレイは初めて母の、「リンダ」という生身の人間の片鱗を見た。どこか不思議な気持ちだった。
「オーガスタ。何があったの? 何をする気なの? 『ヴァーシ・ェアフ』って炎の上級魔法で、ほとんど禁忌のものでしょう? それを、ねえ、オーガスタ……」
リレイは立ち上がって警備隊長の元に駆けよるとその右手を握った。本当は両手で目の前の警備隊長に己の気持ちと体温を知らせるつもりだったが、隻腕のリレイにそれは叶わなかった。肩から先の握りこぶしほどの大きさのそれが揺れただけだ。
「私、戦場に行って人がケガするところをたくさん見た。人が死ぬところも同じくらい。私も……私みたいに斬られたり、だけじゃなかった……。遠くからの魔法で……燃えて……。
ねえオーガスタ、ヴァーシ・ェアフをしないで。その魔法、戦争でも使われなくなった魔法だって、まだ魔法の学校に行ってない私でも知ってるのよ。オーガスタ、ねえ、考え直して……オーガスタも分かるでしょう。オーガスタも戦場に――」
「お言葉ですが」
縋り、感情を爆発させる寸前のリレイに対して、警備隊長の声色は冷静だ。冷徹な判断を下すモノに切り替わっていたのだ。
「猶予はありません、リレイ様。ジェラルド隊はよくやりました。……これ以上はもちません。グラッペを救助対象から緩衝地帯へと切り替えます」
「オーガスタ……!」
「もちろん最終判断は現場です。彼らの判断は私の判断、責任は警備隊長である私です」
「そんな……やめて、オーガスタ、やめて! やめてよ‼ もっと頑張って、殺そうとしないで‼」
リレイの必死の叫びは警備隊長には届かない。腰に縋りつくリレイを引きずりながら窓際へと移動する。
心は既に決まっていたのだろう。つい先ほど、リンダがワミサへの依頼のレタルをした時のような時間すらない。警備隊長は己の顎に手を添えただ息を吹いただけだ。その数秒でそれは終わる。
「オーガスタ……ねえ、オーガスタ……」
「現場は動いているようです。ジェラルドへ向けたレタルの行き先が先程とは違う」
「……」
「お座りください、リレイ様」
その温度のない声にリレイは首を横に振る。たった今、見知った顔の人々への死刑宣告――いや、今まさに死んでいく現実を突きつけた声に従いたくなかったのだ。
リレイは立ち上がって窓の外を、グラッペの方向を見ようとした。それが次期当主であろう自分が成すべきことであり、同時に何もできないちっぽけな子供である自分への罰、その「子供」からの決別に必要なことだと感じたのだ。
しかし彼女の目の前でその窓は急速に色を失う。リレイは慌てて手を伸ばした。窓が閉じたわけではない。
「オーガスタ……!」
「リレイ様が見るべきものではありません」
「私は、私は……見……ないと! 何もできない、まだ『役立たず』の私が、……何もできない私が……!」
「あなたにはまだ早い」
リレイは窓から外を見ることがかなわなくなった。警備隊長の魔法によるものだ。まだ魔法を使いこなせない十一歳の少女に見せるべきものではないという判断から行われたものではあるが、それをその少女は受け入れられなかった。
「バカ、バカ、オーガスタの馬鹿あぁぁ……なんでそういう風にするの、どうしてそんなにすぐに諦められちゃうの、どうしてそんなに殺せちゃうのぉ……」
「……」
「オーガスタぁぁ……」
「……」
警備隊長はリレイの頭に触れる。既に涙を流していたその少女は抵抗する術を今はもっていない。まもなく母親と同じように彼女の全身の力は抜け、糸の切れた操り人形のようだ。
そんな少女を母の傍らに寝せて、警備隊長は口を開く。
「出てきなさい」
返答はない。沈黙だけがそこにある。部屋の中で唯一意識を保っている警備隊長がため息をついた。
「隠れているのは分かっております。アサベ様、セラ様、今すぐに」
その声は先程よりも少し大きかった。それは部屋を出てすぐの曲がり角で身を潜めていた麻辺と瀬良が「聞こえなかった」「たまたまいただけだ」という言い訳を不可能とする声量であり、また強い確信を持っていた。
麻辺と瀬良は顔を見合わせる。正確に表せば瀬良が振り返って麻辺の顔を覗きこんだ。瀬良には盗み聞きの内容からそれをしてしまった罪悪感があった。同時に人を淡々と殺す決断をした警備隊長への、根本的な部分への嫌悪感もだ。
だが、麻辺にはそういったものは一切なかった。レアリムが異世界であり、なおかつ戦争をしているのだからそういったこともあるのだろうと割り切っていたのだ。気にしていない、といった方が正確か。
そのため麻辺は警備隊長の声に素直に従い、何の警戒心もなく進んで行く。
「はぁ……マジかよ……」
その三歩後を瀬良が追う。彼が部屋に入った後、扉は音をたてて閉まった。
扉が閉まったこと、そして知ってしまったことからどこか落ち着きのない瀬良と、相変わらずぼんやりとしていて人の目を見ず顎や肩の辺りに視線がある麻辺。それを警備隊長は観察した。
それもただの観察ではなかった。明確な殺意を持って二人を視ていた。
(殺意に二人は慣れていないな。何の反応も見せない。リレイ様の話によれば、二人ともあの地揺れには鈍感だった。あの音を聞き、あの揺れに何も警戒をしないとなれば――
ナンミン……少なくとも、戦闘地帯に生きてきたというのは、嘘だ。もしくは、相当の手練れだ……)
警備隊長はそう結論づける。実際、それは二人が「手練れ」であるということを除いて、正しい。
「お前達には」
二人に対する疑いから丁寧な口調が消え去っていた。
「リレイ様誘拐犯になってもらう」
「ハァ⁈」
「拒否権はない」
「拒否も何も、おい‼」
瀬良が叫ぶ。平和な日本で暮らしてきた彼にとって、それは当然のことだった。
「それやったら犯罪者じゃねーか! さすがにそこまでやったことねえぞ⁉」
「ならば命がけでやれ」
「だいたいよく分かんねえけど、火を消すのに水も使わねえで江戸時代みたいなことするヤツに従えるかよ!」
「確かに水脈はある。だがそれを使えば他の地に与える影響は計り知れない。水源はクロッシェンでも、その水を使うのはクロッシェンだけではない。クロッシェンのみにこれを留めるには、一部の犠牲はやむを得ない」
「けどな、魔法で」
「瀬良君」
麻辺が口を挟む。瀬良はそれを睨み、頭一つ小さい同級生の両肩を掴む。麻辺はその睨みを受けても特に恐怖は感じなかった。瀬良に自分を害する意思がないのが読み取れ、またこの睨みは混乱を隠すためのものだと解釈できたからだ。ただ両肩に食い込む瀬良の爪が少しだけ不快なだけだ。
「あの……あ、僕達はクロッシェンのことを知らないから……だから……えっと、一番良いのは、ここの人が決めたことだと……あの、思うんです……けど」
「そうかもしんねぇよ! けど、人死ぬって聞いちまって、お前、……なぁ麻辺……麻辺、何でお前そうフツーなんだよ⁈」
「え? え、だってあの……あー……まだ、よく飲み込めて……」
「……チッ、使えねえ!」
瀬良はそう吐き捨てると同時に麻辺のことを突き飛ばす。麻辺はそれの勢いに抵抗することはなかったからバランスを崩して尻餅をついた。加えられた力は今までの突き飛ばされたもののどれよりも大きく、また勢いもあった。だが床には豪華な絨毯が敷かれていたから学校の教室や床、またコンクリートに叩きつけられたときよりも痛みは感じなかった。
尻餅をついた状態のまま立ち上がろうとしない麻辺を見下ろしながら瀬良は深呼吸をする。今向かい合うべきが麻辺ではないことを彼は理解していた。
「水……魔法で水は出せねえのかよ」
「不可能だ。水の場合は認知している場所から“転移”させるのだが、あれは絶えず流れ続けるからそのものを連れてくることは不可能に等しい」
「川とか、それごと転移させりゃあいいじゃねえか」
「言っただろう。『水源はクロッシェンでも、流れ出た水は他領も使う』。水は好き勝手に使えないものの代表だ。戦場育ちなら水の大切さは分かるだろう?
クロッシェン内で完結させることもできなくはない。だがそれは長い年月で出来上がったこの領地の生活の根本を崩すということだ。まさか何の確証もなく『クロッシェン全土を危険にさらすことが得策だ』という発言をするつもりではないな?」
問いかけに対しての返答と、それでもなお納得できないと伝えようとして瀬良が口を開こうとした瞬間、警備隊長は一気に後段のことを述べた。それは熱と強さを持っていた。そのため瀬良は感情論に寄る。
「……けど、あんた“警備隊長”なんだろ? 領地守んのが仕事なんだろ? だったら――」
「瀬良君、あの、もう……」
「麻辺。……なんだよ」
瀬良はしゃがんで麻辺と視線の高さを合わせた。麻辺が腕時計のベルトを撫でているときは、彼が目の前の人にだけ何かを話したい時の癖だということを瀬良は知っている。その癖に付き合うのはもう何年もしていなかったことだ。それに瀬良は一瞬気付いたが、すぐに脳の奥底に押し込んだ。気づきたくないことだった。
麻辺はそんな瀬良を見て意外だと思った。自分が話そうとしていること、それだけではなくオーガスタに知られたくないことだというのを理解し、それに合わせた行動を今の瀬良がとるとは思わなかったのだ。
金髪の彼は溜め息とともに舌打ちして、自身の髪の毛を一房耳にかけた。
「あ、警備隊長さん……もう、分かってると思うので……あの、これ以上は……言わない、方が……」
今の麻辺の声量は、普通の人の囁きですら大音量と表現して差し支えないくらい小さく、ほとんど吐息だった。彼にとって意見するというのは、それくらい気を使わなくてはいけないことだったのだ。
「え、あ……あの、……警備隊長さん、瀬良君が何か提案すると、あの……それに対する、えっと、反論してます。だから……あの、もう考えてると思うんです。色々考えてて、もう駄目だって判断してるんだと……あの、僕は思うんです」
「……」
「それで……だから、あの、瀬良君が改めてそう言うのは……あの、あ……えっと、警備隊長さんにも、あの……たぶんなんですけど、辛いことだと……。
もう決めてるみたいですし……それに……。……これ以上意見して、あの……もっと深く関わったら……え、あ……あー……。
……瀬良君、もあの……人殺しに、なっちゃうんじゃ……」
「え、何で?」
麻辺の言うことにも一理ある、と思い静かに聴いていた瀬良だったが、最後の一言に思わず素の声を上げる。その声で麻辺も自分の言っていることを一周遅れで咀嚼し始めたらしい。彼がそれを飲み込んだ時、遠くで何かが揺れた。
麻辺の言う「人殺し」の意味を彼なりに解釈し、それを諦めと共に彼は皮肉を込めて口から出す。
「……知ってて何も出来ねえ時点で共犯だろ……。つか、もう何言っても遅い……だろ? 警備隊長サン?」
瀬良は立ち上がりながら警備隊長――オーガスタ=バイト=ジュニスの方を振り返る。
彼女の顔はいつもと変わりはない。冷静さがあり、己の責任を理解している「人間」の表情だ。彼女は「人間」だからこそ拳は固く握られている。薄い唇はきつく一文字に結ばれていた。それなのに彼女は堂々とした雰囲気を持っていた。その揺らぎの無さが領地を護る警備隊長として、人々の全ての感情を背負う彼女に求められていることだからだ。それが異世界の人間である麻辺と瀬良であっても、例外ではない。
そんな彼女から瀬良は目をそらす。彼女の雰囲気と、初対面――謎の敵襲からリレイの魔法によって脱出した時、ギルと共に駆け寄ってきた彼女の、唯一の熱のこもった声が思い出されたのだ。
「……」
「もういいか? 話を戻す。お前たちにはリレイ様誘拐犯になってもらう」
「……」
「……あ、はい……」
警備隊長が麻辺と瀬良に椅子を勧めた。
窓から見える景色は、もの悲しい、滅びに進んでいく活気があった。だが、それを見る人間はこの屋敷の中にはいない。