盗み聞き
「……すげえな」
肩をパキパキと鳴らしてから、固められていた体を動かし温めていた瀬良が不意に呟く。麻辺はそれが自分に向けられた言葉だと理解してから瀬良の方を見る。瀬良は麻辺の方は見ようともせず、屈伸運動をしながら言葉を続けた。
「いっつも『あっ、あの、あー……』なくせに、嘘がベラベラ出てくるもんだ」
「えっ、あ……あの……」
「元に戻りやがった。……いや、違えか」
最後に伸びをしたことでメンテナンスは終わったらしい。どうやら異常は無かったようで、瀬良はぼさぼさになった髪の毛を手櫛で梳かす。脱色で傷んだ金髪が彼の手の中でゆらゆらと揺れる。麻辺は彼から視線を外した。
「……で、何しに来たんだよ」
「……」
「麻辺!」
「あ、はい……。あ、あー……あの、あ……」
「……はぁ……」
瀬良は大げさに溜め息をついた。麻辺という人間がわざわざ自分の部屋に来たのだから、何か理由があってのことだと思っていたのだ。その麻辺が言葉をなかなか発さないことに対する呆れが半分、そしてもう半分は麻辺の人となりを知っていながら癖で彼に対し強い口調で言葉を発する自分の学習能力の無さに対してだ。
とはいえ麻辺には瀬良の心中など分かるはずもない。麻辺は自分が責められているだけだと思い込み、この部屋に来た理由の説明――換言すれば言い訳をすることを諦め、その責めを甘んじて受け入れるよう彼の内は動く。
「……」
「……」
「……別にお前のこと責めてねえから言えや」
麻辺の視線がわずかに泳いでいるのが見えた瀬良が折れる。普段――日本の、あの学校で同級生や下級生に囲まれていた時は決してあり得ないことだった。
「え、あ……そうなんですか」
「別に理由ねえし」
「そう、なんですか。
……あー、……あ、じゃあの、僕がこっちに来た理由、なんですけど。えっと、このお屋敷の様子が少しおかしいん」
「地震がありゃそうだろ」
麻辺の言葉を遮り瀬良が言う。瀬良は言葉を発した後に麻辺の顔を見て「しまった」と思った。麻辺は相変わらずの無表情だが、それで彼が「聞く姿勢」に入ってしまったということを瀬良は理解したのだ。こうなってしまっては彼は賛成も反対もない返事をするだけである。よほど受け入れられない条件――他人を巻き込むものか、自分以外が被害者となる犯罪行為――でない限り、麻辺が何か意見を言うことはない。
「……。あのメイドの格好見りゃ予測できるだろ。崖崩れとか、建物倒壊とかあったんじゃねえの? そうなりゃ俺たちの優先順位は下がっちまうだろ。どこの馬の骨だか知らねえ奴より領民だろ」
「あー……はい。……」
「……。
だか、ら俺達が今できんのはこの部屋でぼーっとしてるぐらいだろ……。それで、あー……夜通し話すか? 夜通し話すって修学旅行みてえじゃねえ? 俺よく知らねえけど」
「……」
「そもそも修学旅行って大体同じときにいろんな学校が同じ所行くもんな、東京、京都奈良大阪、北海道とか沖縄もあんだろうな。あと金持ちの学校だと海外だな」
「……」
「ハワイとかグアムいいよな、行ってみてえ。台湾もな、俺の前の学年は行ってたらしくて……あとフランスとイギリスとアメリカと……近場だと韓国もあるよな、中国も……あとオーストラリアとかブラジル……だから……」
「難民の僕らには関係ないことですけどね」
麻辺が扉の方を見てから口を挟む。その言葉によって瀬良は口を閉じた。彼はひどく疲れていた。
「……」
「……」
「……お前何してえの……?」
麻辺が扉から視線を外したのを確認し、瀬良はうんざりとした口調で言う。瀬良が自分の意志で、何も考えずに言葉を発していたのは「自分たちより領民を守るはずだ」という旨のものまでだった。瀬良がそこで言葉を切った時、麻辺がわずかに口を動かしたのだ。麻辺にしては珍しく、その目は瀬良のことを見ていた。
瀬良に読唇の心得は無い。だが、それでも何を求められているのかを察することはできた。麻辺が求めていたのは会話の続行だ。正確に言えば瀬良が何か話し続けることであり、だからこそ彼は無理矢理に知識のない修学旅行についての話を捻り出していた。
「……えっと」
瀬良の雰囲気がとげとげしくなっていくのを感じた麻辺が口を開く。自信の有無は分からない、そして抑揚もない平坦な口調で言う。
「くだんねえことだったら承知しねえからな」
「え……あの、盗み聞き……されてる、気がして」
「は? 盗み聞き? あのメイドは出てったじゃねえか」
「……足音、わざとらしかったです。ずっと同じ……あー……えっと、同じリズムで、いつもよりあの……響いてたんで……」
「そうか? 別に気になんなかったけどな。お前が気にしすぎなんだろ」
「でも……気配が……」
「あ? なんだよそれ。おい麻辺、お前麻辺のくせに俺に口答えすんのかよ」
低い声を作り瀬良が言う。目の前のちっぽけで不潔――今は毎日風呂に入れるので清潔ではある――、何より自信がなさそうでいかにもないじめられっ子の雰囲気を持つ麻辺に対して、高校で暇さえあればそうしていた時の、その声色だ。
その声色に麻辺も思う所があった。かつての、日本での日々が思い出されたのだ。それは麻辺から「言い訳をしない」という無意識の選択を奪う。彼の口は自然と動き、言い訳を始めた。
「え……あ、あ、でも……この世界の人は魔法が……」
「麻辺」
「だから……あの……もしかしたら魔法で……」
「麻辺ぇッ!」
「‼」
瀬良は大声を発すると同時に右腕を振り上げた。それはほんの刹那前であれば麻辺の頬があった場所に振り下ろされる。だが、その拳が麻辺の頭に当たることは無かった。
「……」
「……」
麻辺はその身体を反射的に丸めていた。片膝を床につき、もう片方の膝と両腕で彼は腹を庇っていた。麻辺の手のひらは瀬良の膝に添えられていた。
それはまるで見当違いの方向にとんだゴールキーパーが、偶然ゴールポストに救われたようなちぐはぐさと幸運を感じさせるような絵面だった。
二人はそのまま動きを止める。
「チッ」
はじめに動いたのは瀬良だった。彼は舌打ちすると興が削がれたとでもいうように、ベッドに乱暴に座る。ぼす、という重たい音を立てたベッドの上から先程まで瀬良の目隠しとなっていた布が音もなく落ちていく。
「……あの……」
「まあいいさ。俺が大人になればいいんだ。……まあ、メイドを連れてきたことだけは感謝しておく。垂れ流しになるのはごめんだったしな」
「何が……?」
「うっせえ! そこは流せ!」
「ぅあ、……あ……すいません……」
「……」
言葉と共に瀬良は反射的に足を動かす。それは一ミリのぶれもなく麻辺の左脛にあたった。それに対する痛みを麻辺は示さなかったが、本来するべきでない謝罪の後も彼は脛の当たりを見ていた。
「とりあえず、お前もう部屋戻れよ」
「……」
「麻辺」
「……」
「戻れって」
「……あの、僕……一人で部屋を出るなって……」
「はあぁ……」
瀬良のため息は今度は麻辺に対してのものだけだった。瀬良はほんの少し思案すると、口の端を持ち上げながら言う。
「麻辺、お前は一人で出歩けねえんだな?」
「え……まあ、はい」
「んで、盗聴されてたんだな?」
「え……あ、あの、確定ではな」
「盗聴し返すぞ。お前のことだからリレイに色々案内されてんだろ? とりあえずあいつがいそうな所だ」
「……」
「お前は一人で出歩けねえ。俺は特に何も言われちゃいない。なら何も問題ねえだろ?」
麻辺は瀬良の提案に賛成も反対もしない。瀬良は部屋を出ると麻辺が与えられた部屋の扉には近づかなかった。麻辺はそれを振り切って部屋に戻ろうとは一切せず、一言「じゃあ……」と小さく呟いて歩き始めた。
クロッシェンは《シンシェ》の端の領地で田舎と表現に値する土地であり、主と民の距離は近い。しかしその権威を示す館は相応に広かった。それは麻辺と瀬良が今までそれぞれに過ごしてきた一番広い建物よりも広く、移動にはそれなりの時間を使う。
(それにしても)
人一人見えない、気配も感じず隠れる必要もない静かな廊下から外を見ながら瀬良は思う。遠くに揺らめく明かりがあった。
(たまたまか……)
瀬良はあの時、自分が何をやるのか理解してその腕を振り下ろしていた。右腕はフェイントだったのだ。本当は麻辺の腹に蹴りを入れようとしていた。だがそれを麻辺は躱し、それだけではなく瀬良が本来狙った腹を庇い、そこに当たる寸前まで――あたっても仕方ないと思いながら――持ち上げようとしていた膝に手を添えていた。膝への感触で瀬良は不意を突かれ、蹴るフリすらもできなかったのだ。
だがその後、瀬良の反射的な蹴りを麻辺は躱せなかった。麻辺は蹴られた人間とは思えないほんの短く、小さな声を上げた後はただ二人の足と脚がぶつかった場所を見ていただけだった。
「……あの」
「ん」
「えっと、あの……」
「お、一発目でビンゴじゃねえか」
麻辺の短い声で瀬良は意識を正面に向ける。曲がり角の奥から明かりは漏れており、そこ光源の方向からは数人の声がする。それは普通にしていれば聞き流してしまうような雑音と変わりはなかったが、その音を識ろうとすれば別だった。
窓から飛び込んできた白い靄は、部屋の中で渦を描く。彗星のようなそれははじめにリンダの右のこめかみに入って左のこめかみから抜けていく。次いでリレイ前でその靄は迷っているようにふよふよと漂った。
「あ……」
「こちらへ」
「……」
オーガスタの声にその靄は決心がついたように飛んでいく。それは彼女のこめかみに入ると、もう出てはこなかった。
レタルを受け取った二人の大人は、共に眉間に皺を寄せている。だがオーガスタが何かを考えているような表情であるのに対して、リンダは悲壮な表情をしていた。彼女は無意識に娘のまだ小さく、細い肩を抱き寄せる。
リレイは母の腕の中で惨めな気持ちになっていた。彼女はこの部屋で五度、レタルが飛び込んでくるのを見た。一つ目のそれは一瞬の戸惑いの後彼女のこめかみに飛び込んだ。途端に脳を駆け回る、自分のものではなく想像もしなかった情報に彼女は悲鳴を上げてしまった。誰かの思いや記憶が突然飛び込んできて自分に刻み込まれるのは、それくらい不快だったのだ。そのレタルは彼女の悲鳴と共に口から飛び出した。そして、それはオーガスタのこめかみに飛び込んだ。「まだ早すぎましたね」「リレイ様はまだ『魔力』が完全ではありませんから」――大人二人の言葉に、リレイはただうなだれるしかなかった。
迷うレタルに、リレイは自分が本当に小さく頼りない存在だと思い知らされていた。『魔力』を持ちながらもそれを使いこなすことができない。レタルはその不安定な『魔力』に困惑し、彼女に情報を与えないのだ。
(あぁ……私、役立たずだ……せっかく生き残って魔法も使えたのに、私……)
リレイはソファの上で膝を抱える。行儀が悪いと窘める母の声は無視した。それが彼女なりの精一杯の反抗だった。
「果樹は放棄。延焼を防ぐため中心地からラインを三つ設け、第一ライン延焼まではくい止め人命救助。そのラインをこえたら人命は諦め、燃やし尽くします。第三――」
「待ってください。『ヴァーシ・ェアフ』は……それをしたら……」
「ええ。全てのものは……燃え尽きます」
ヴァーシ・ェアフ――炎を熾す、暗黙の裡に戦場でも使われなくなった上級魔法。一定の範囲を燃やし尽くし、後に残る緑は無い。《ロザ》の農業都市アグファリムがこれによって栄えているが、それはあくまで植物に対して行っているものだ。
オーガスタは今、人に対してそれを使う可能性もある、と言ったのだ。領主の妻であるリンダがそれに静止の声を上げるのは当然のことだった。
「人に対してそれを放つというのですか⁈」
「可能性はある、という話です。……ジェラルドらが懸命に領民の救助に当たっています。彼らが全員を救助できることを祈りましょう」
「祈る……祈るですって? 祈りで人が救えますか? デイの報告にグラッペの民が避難してきた報告はありませんね。ベクからは救助に精一杯当たる、生存者を発見次第レタルを送ると……。
……ヴァーシ・ェアフ……。一人でもそこにいる可能性があるのなら……わたくしはその使用を許しません」
「お言葉ですが」
オーガスタが口を挟む。
「風もあるようです。一刻も早く炎を止めなくてはなりません。他の地に炎を回すわけにもいきません。……グラッペには犠牲になってもらうしか――」
「あなたは分からないのよ、オーガスタ!」
リンダが叫ぶ。今の彼女に冷静さは無い。普段の丁寧な口調も消え失せている。
「あなたは知らない! だからそんな残酷なことを言えるんだわ!
一緒に起きたお友達が隣であっけなく死ぬのを! 同じ人間の肉を切り裂く感触を! 母を呼ぶまだ十歳の子の声を! 戦場の、人間のにおいを! 知らないから、あなたそう言える! 人を簡単に見捨ててしまえる‼」
彼女は両眼に涙を溜めながらオーガスタに縋った。この行為はオーガスタにとって予想外だったようで、彼女の両手は所在なさげに宙に浮いていた。
そんなオーガスタの手はリンダの背に回された。震える領主の妻を抱きしめながら彼女は――クロッシェン警備隊の長は口を開く。
「全てオーガスタ=バイト=ジュニスの名の下に行います。だから貴女には……」
リンダの体重が完全に警備隊の長に預けられた。
リレイは窓からふわりと白い靄が出ていくのを見た。そちらの方向に飛んでいく、最後のレタルだった。