小さな嘘を積み重ね
(……あれ?)
壁際で何も考えず無為に時を過ごしていた麻辺は疑問が突然脳の表面に出現し、そこで思考を取り戻した。壁にもたれていた頭を起こすと、閉じたままの扉を彼は十秒間眺める。そうして立ち上がると、麻辺は扉の前まで行き、そこに耳を押し付けた。
(おかしいなぁ……瀬良君、いない? 寝てる? ……でも、出ていった足音は二つだけで……)
麻辺が感じた疑問すなわち違和感はあまりに人の気配を感じないことだった。いつも何かしらの気配がしており、それはこの館に仕えるメイドや執事達が大半だ。そんな彼らの気配を全く感じないのだ。まるで館の中が空っぽになってしまったような、不気味な静けさを感じさせる。
また、瀬良の部屋がある方向から全く物音がしないことも麻辺は気になった。瀬良は麻辺の部屋を訪れることは無く、しかし夕食の後など麻辺が部屋に戻らないとき彼はそこにふらりとやってくる。体を動かすと言って街に出るときも、彼は「たまたま通りすがった」という雰囲気を漂わせながら、何気なく麻辺に行き先を言うことが多い。
(わざわざ言わないでも僕は別に気にしてないんだけど……。
……瀬良君も『一人で部屋から出るな』って言われてる? でも瀬良君はそういうの守る人じゃないし……)
麻辺はそう思うとベッドの側に移動する。彼は今まで一度も使ったことがないそれに手を触れた。
ほんの一分もたたず、今まで無音の空間であった扉の向こうから足音がし始めた。どうやらその主は息を整える必要があったらしく、抑えていながらも隠し切れない息の荒さが扉越しでも麻辺は分かった。
「アサベ様、お呼びでしょうか?」
遠慮がちなノックと共に声を発したのはミランダだった。麻辺は声の主が知った人間であったことに少しだけほっとしながら声を発する。
「はい。……あの、あ、入ってきてもらっていいですか?」
「ええ、いいですよ。失礼いたしますね」
数秒の時間が空いてドアノブが遠慮がちに回された。そこで麻辺はミランダの姿を今日初めて見たのだが、自分が感じていた疑問は正しいものだったのだと知る。
普段の彼女はこの館のメイドが着るエプロンドレスを身につけていた。白いフリルの付いた膝下まで丈のあるエプロンに、黒か濃紺の同じくらい丈のあるワンピースという、いわゆるメイド服のような格好だった。脚の形を見せないスタイルを貫き通すメイドである彼女は今、どちらかと言えば看護師のような――つまりパンツスタイルで、上はスクラブのような衣類を身につけていたのだ。
大きく印象を変えているミランダを前に一人納得する麻辺だが、そんな彼の心の内を知らない彼女は申し訳なさそうな声色で言う。
「失礼ですが、立て込んでおりまして。どういったご用件でしょうか?」
「あ……あ、すいません。えっと、あの……瀬良君が……その、瀬良君の部屋に僕を連れて行ってください」
「セラ様の……お部屋に?」
ミランダは驚いたことを隠せないようだった。今まで麻辺が瀬良の部屋を訪ねたことがないということはもちろんだが、二人の部屋は三十秒あれば何度か往復できるような距離にある。そんな距離で付き添いを頼むような酔狂なことを彼がするとは思ってもみなかったのだろう。
実際、麻辺もミランダの表情を見て彼女が感じている疑問を理解した。そのため理由を付け足す。
「あの……えっ、あ……えっと、一人で部屋から出ない様に、その……言われてまして。だから、あー……あの、暇だし、今日は瀬良君と一緒に……あー……」
「そうですか。ええ、承知いたしました。では、ベッドを一つセラ様のお部屋に入れるようにいたしましょうか?」
「あ、いえ……いえ、そこまでは……たぶん、戻れって言われるんで……」
「承知いたしました。では、行きましょうか」
ミランダはほんの一時ではあるが安らぎを感じている表情をする。彼女としては麻辺が共に旅をしてきた(ということになっている)瀬良と必要以上に関わらないことが心配であり、しかし今その関係を感じることができたことに安心したのだ。
もっともミランダのその表情について麻辺は理由が分からず、ただ彼女の顔を一瞬だけ見て視線はすぐにその下、肩のあたりに固定される。それが彼の人と対峙した時の目の位置だった。
ミランダに先導される形で麻辺は与えられた部屋を出る。そして、十秒もたたないうちに瀬良が与えられた部屋の前に着いた。ミランダがまずノックをするが返事がない。彼女がもう一度ノックし、控えめに三度名を呼んだが、返ってくるのは沈黙だけだ。中で何かが動く気配すらない。
ミランダは戸惑ったような表情で振り返り麻辺を見た。
「もしかしたら寝ているのでは……」
「寝て……あ、あー……じゃああの、勝手に入ります」
「でも……」
「別にいいです。怒られるだけだし……少し叩かれるかもしれないけど、えっと、瀬良君優しいんで、大丈夫です」
麻辺はそう言うとミランダの返事も待たずドアノブに手をかけ、扉を押し込んだ。まず目に飛び込んできたのは深緑色の絨毯だ。次いで開け放たれたままのクローゼット。クロッシェンで与えられた普段着、高校の制服一式、そしてこちらで作った道着が掛けられている。そして奥にあるベッドに視線を向ければ、瀬良はそこに不自然な格好のまま寝ころんでいた。
「あっ……あー……瀬良君、あの、寝てますか……?」
瀬良はラル・パシスをかけられており、生命維持に必要な最低限のもの以外の動きが封じられているから、麻辺の問いに答えることはできない。
ミランダも中に入ってきて、瀬良の様子を見て彼が硬直している理由を悟った。とはいえ、その理由が理由であるから彼女は訝しむ。ラル・パシスという古びた、使い古されてしまった魔法にかかりそれを自力で解けないとは――彼女は警戒しながら瀬良に近づく。
「セラ様」
ミランダの声はいつもの温和な音とはわずかではあるが異なっていた。その声色に麻辺の身体が緊張する。彼は無意識にゆっくりと後ずさり、ミランダとの間に距離を作った。
「今、体の硬直をお解きしますね。ですが、何か良からぬこともあるかもしれませんので、いくつかの質問に答えていただきます」
「――……っ、はッ! ……お、う、うご……かねえ!」
瀬良は少しだけ身体が動かないか格闘したらしい。だが、彼が今動かせるのは内臓と目線、そして口位のものだ。それは何分も使って確かめるものではなかったらしく、彼は降参を表すように短く返事をする。
「これはいったいどういう状況ですか?」
「知るかよ。デイとなんだっけ、ベト? そいつらのどっちかが『ラッパイス』的なこと言ったら俺の身体が固まっちまったんだよ。ベッドにぶん投げられるし、訳わかんねえ。死ねクソ……。
つか麻辺、俺の目隠し取れ。髪巻き込んでて痛えんだよ」
「あ……」
名指しされたことで麻辺がそれに従おうとベッドに近づこうとしたとき、ミランダが振り返る。麻辺の安全を何より喜び、自分のいない場所で消えていくことを拒むような「弱く優しい」母の顔をする女性はそこにいなかった。
その目は麻辺を制していた。口に出す必要すらない。ただそうしているだけで弱者を従わせることができる、そんな力を持つ強者の目をしていた。
麻辺はそれに逆らえない。彼は踏み出そうと浮かしかけていた左足を元の位置に戻し、視線を絨毯に向けた。単純に居心地が悪かった。
「セラ様。あなたは自分でそれが解けないのですか」
「『ラッパイス』って魔法なんだろ? 俺は魔法が使えねえから無理だ。解けねえよ」
瀬良は淡々と答える。視界は完全に封じられているし、そもそも体が動かない。唯一彼の意思で動かせるのが口なのだが、それが彼にとっては嬉しかったのだ。そのため瀬良は素直に答える。
しかし、その素直さがかえってミランダの抱える疑いを色濃いものにしていたのだ。
麻辺と瀬良にはこの地には「魔法」という非現実があり、二人は素直にこの《レアリム》が地球とは異なる、いわゆる異世界だと納得していた。二人、とくに麻辺から話を聞いたリレイも、彼女が――いや《レアリム》が認知していない場所から麻辺と瀬良はやって来たのだという風に理解はしている。
だが、ギルが日本を「新興国」ではないかと疑っていたことからも分かるように、《レアリム》の人間には「世界」という概念がない。そのため二人の出自を説明し、理解してもらい、そして納得させるのはほとんど困難なことなのだ。
そんな背景を麻辺は知らない。だが、ミランダの雰囲気が明らかに彼の知るものではなくなったことを察知し、掠れた声で口を挟む。
「あ……あっ、僕、達……難民、なんです」
「ナンミン? アサベ様、それはいったい……?」
「難民は、あの……せ、戦争とかで故郷が……あー……故郷が戦場になってしまって、逃げてる人間のこと、です。あの、僕達の国……に、《日本》ではえっと、そう言うんです」
麻辺の言うことはほとんど嘘だった。難民については概ね彼の言う通りだが、彼と瀬良がそれにあたるというのは《日本》ではもちろん《レアリム》であっても嘘にあたる。二人はこの世界に来てしまった理由を理解できていないし、そもそも戦争というものを二人は知らない。
「僕達、あの……あの……ずっと争ってて、そこから逃げていて……だからあの、学校とか行けてないんです。言葉は何とかなってます。だけど……あの、文字とか、魔法とかは……全く……」
「アサベ様。それは本当のことですか」
「……え……あ、の……」
ミランダの声から温度が消える。麻辺はその声色に覚えがあったから、今まで言ってきたことが急速に頭の中から出て行ってしまうのを感じた。口はどんどん乾いてきて、脳は空いたスペースで適当な謝罪の言葉を探し始める。
そんな麻辺の様子が、瀬良は目隠しをされていても理解できた。そうなっている麻辺を彼は見たことがある。
「旦那様よりお二人のことは知らされております。《ニホン》、別名では《ギシワジーデ》《ヒノモト》《ジャパン》という国からあなたたちは来たと。《シンシェ》や《ロザ》よりも……最古の国である《ガイヴァ》よりもはるかに長い、二千年の歴史を持つ国から来た人間である……と」
ミランダの言葉はいたって冷静だ。麻辺や瀬良を責めるものは一切無い。彼女が知っている知識の説明である。
だからこそそれが二人にとって恐ろしかった。いや、不気味であるといった方が正しい。二人は自分達が最上級の異分子であることを知っているため、それを責め警戒するのは当然のことであると心の奥底で理解していた。だからそれがほとんどなされないミランダの言葉は、逆に二人に警戒心を抱かせる。
「……」
「……」
「……」
沈黙が続く。屋敷の中の気配が全くないことも相まってそれは痛々しい。
麻辺は謝罪の言葉を発そうとしても、それが音となって喉から出ることはない。責められれば一種の防衛としてそれは出るだろうが、ミランダはただ事実の確認をしているだけなのだ。
また、麻辺は心の奥底で、本人すらも自覚できないようなところで「自分は何も悪くない」と思っていた。自覚がないからこそそれは強固なもので、麻辺の意思すら曲げてしまう。
「……信頼……」
どのくらいその沈黙が続いていたか。ふと、瀬良が言葉を発する。その声は、不良グループの学年リーダーで肩で風を切って歩き、まともな人間は決して関わろうとしない雰囲気を漂わせていた男から発されたものとは思えないくらい小さく、掠れていた。
「信頼……出来ねえだろ。生まれた時からごたごたしてて、いっつも顔色窺って。やりたいこともやれねえ、……裏切って、それでまともになれりゃあいいけど、そうもいかねえし……」
「瀬良君……」
「裏切るくらいなら……『裏切られた』って思われないくらいクズになれば」
「あッ……え……とぉ! つまり、なんですけど」
瀬良の話が脱線していくのを感じた麻辺が口を挟む。普段大きな声を出さない麻辺のその声が途中で裏返ったこともあって、ミランダの注意は彼に注がれる。瀬良は口を閉じた。
「あ……あっ、えー……えっと、僕達難民は、……その、誰かを信頼するのが苦手です。生きるのが精一杯で、だから、あー……その、嘘だってつきます。信頼して損をする他の難民を見てきまし……た。だからその……僕と瀬良君は《日本》という国に生まれた人間だと信じていますが、あの、国じゃないです」
麻辺はそこで言葉を切った。そしてこの部屋の人間を見る。目隠しをされたままの瀬良。ミランダの右肩、顎の先、額、右目の下の黒子、右眉と左眉を交互に数度、そして彼女の磨かれた黒革のブーツ。最後にリレイが選んでくれた、自分の靴。
(……そういえばこういう靴を履いたの、初めて……)
そう思いながらも彼の口は勝手に動く。
「正直に言います。《日本》の話をした時、僕達は……皆さんを信頼していません。そして今も……信頼しきれていません」
嘘だった。当時はリレイやギルを信じる信じないの話ではなく、ただ疲れていただけだ。問われることにそのまま、「1足す1は」と問われて何の疑念も抱かず「2」と答える幼い子のように答えていただけだ。
麻辺の視線は靴に固定されたままだ。
「……だから、肝心なところで僕達は嘘をついたし、話さないで謎にしたこともあります。それに本当のことを言う気にはまだ、なれないんです。
今こういうことを言って……追い出されても、仕方ないって僕は思います。……また、こっそり生きていくだけです。誰にも知られないで、……違う、忘れ去られて、生きたか死んだかもわからないで消えていく……きっとそれが、僕達の決められた生き方なんです。そういう運命なんです」
麻辺はそこで言葉を切った。彼はどこかで「これでいい」と思っていた。
再び沈黙が訪れる。それが解かれたのは五分が過ぎ、ミランダの降参のため息だった。
「っ、お……お、動く!」
「……旦那様にこのことを伝えます。もちろん、奥方様にも」
彼女はそう言って、この部屋を出ていった。