思いのはじまり
(……チッ)
瀬良は一人舌打ちする。いや、身体は動かないのでそれすらできず、ただ心の中で舌打ちするのを繰り返していた。
今彼がいるのは、クロッシェンの館で彼が与えられた部屋だ。ラル・パシス――対象の動きを封じる魔法。簡易的なものでこの世界の人間であれば大抵は防ぐか、すぐに解いてしまう古びた魔法――をかけられた瀬良は時間の流れも分からず、また目隠しされ状況を読むことすらできずにいた。ただ理解するのは足音から彼を連れてきた男二人が退室していること、そして自分は今ベッドに寝かされているという二点だけだった。
(ったく、どうなってんだ? 魔法? じゃあなんで俺は使えねえんだ? 日本人だからか?)
オーガスタに指示された二人は瀬良の身体の硬直を解いてはくれなかったので、瀬良は横向きに寝たまま考える。
もし魔法が使えないのが「日本人だから」「地球人だから」といった理由であれば、瀬良や麻辺がそれを使えるということは一生あり得ない。そしてリレイの反応から《レアリム》の人間は全員が『魔力』を持ち魔法を使えるのだろう、と瀬良は一人考える。
(じゃあなんだ、俺はここでも落ちこぼれか? ふざけん――いや、柔道とか、空手とか……そんなん魔法の前じゃ無意味か……そりゃ体術発展しねえはずだわ……)
瀬良は思い出す。トマスの言葉からこの世界で体術全般が発展していないと知ったとき、瀬良はわずかながら《レアリム》での居場所を見つけたような気がした。また何もかもを知らない自分が、この世界の人間に対して完全に優位になれるものであり、なにより教えることができるものだったからだ。
麻辺と瀬良が今まで出会ったこの世界の人間で体術と言えるようなものを扱えたのは、あの山頂で瀬良の気道を狭めた《ロザ》の業抱隊の大男のみである。そんな彼も瀬良の苦し紛れの一本背負いには対応できなかった。また他の二人もリレイの肩を押さえるだけであったり、麻辺を単純に蹴り上げリレイの右腕の傷口を握り、瀬良の首を縦横無尽に振り回したり――というようなものだ。
『魔力』がある《レアリム》の「人間」にとって、体術は不要のものなのだ。
(……。別にいいだろ……日本人の俺が気にすることじゃねえ。
……それこそ戦争にでも行けば、……そうだ、リレイみたいなガキでも戦争に行くんだし、俺だって……)
瀬良にそんな考えが芽生える。高校で育まれた攻撃性と、彼が持つ生来の気質がそう思わせたのだ。
「……」
一方の麻辺は、瀬良とは違って自由に身動きができていた。ラル・パシスをかけられなかったということで体が自由に動いたから自分で目隠しをとることができたので現状の把握も容易だった。彼を連れてきた人間からは、決して部屋から一人で出てはいけないという条件を付けられただけだ。彼は特にやりたいことが無かったのでベッドに寝転んでいたがどこか居心地が悪く、部屋の隅に移動していた。
日当たりが悪いそこは、麻辺にとって落ちつく場所になっていた。彼は元々人の表に立って活動するような人間ではなかったし、幼少期は押し入れの中がお気に入りの場所だった。そんな彼にとっては室内の日の当たらない所――それこそ、大きな建物の影やベッドの下のわずかな隙間――は、落ち着いていられる場所だった。
(この足音は……瀬良君のところの人が出てきた)
麻辺は壁越しに二つの揃った足音を聞く。それは不気味なほどに揃っていたが、一つだけ特異な点があったのだ。
それはデイとベクのどちらかは麻辺は分からないが、一人が僅かに足を引きずるのだ。どんなに合わせようとしても生来的なものなのかそれとも後天的なものか、とにかく彼の足は思うように動かないらしい。その引きずりはわずかなもので、足音としても「揃っている」と表現して差し支えないほどには乱れていない。だが、それを一度意識して「特徴」と認識すれば、個を識別するのには足りるものだった。
事実、麻辺は目隠しという視覚を遮断された状況でその足音の特徴に気が付いていた。もっともそれが「特徴」となったのは、今彼らが瀬良の部屋から出てきたからだ。書庫から移動の際に麻辺はその特異に気が付いていたが、無意識のうちにそれは瀬良を運んでいるから、だと処理していたのだ。
(向かってるのは……この方向だと……応接間かな? それか、この家の人達の私室がある方)
その足音を最後まで聞くことは叶わなかった。当然ではあるが壁の向こうの彼らは移動をしている。創作物の忍者のように、足音やわずかな振動、それから気配をたどっていくことも麻辺はできない。ただ聞こえてきた足音と先程のこの館の住人たちの様子、そして今まで彼がこの館で行動してきたことからの推理だ。
(……)
だが、麻辺の思考はそこで途切れた。それ以上このことについて考えることに彼の本能は意義を感じなかったのだ。
麻辺は部屋の隅で、かつてそうしていたように膝を抱えながら何をする気も起きずにいた。いつものとおりの彼だった。
「ただいま戻りました」
開け放たれた大扉の前でそう言うのは瀬良を運んでいたうちの一人、ベクと呼ばれた男だ。デイという名の方はベクの後方に控えている。彼の方がベクよりも地位が低い。
「ご苦労」
そんな二人を労うのは、彼らの長であるオーガスタだ。彼女の声色はやはり一本の矢のようで、どこか冷たく、しかし一切の不純物がないことを心から理解する不思議なものだった。
「ベクはグラッペ方面の確認へ。ジェラルド隊が先に向かっているからそこへ合流しろ。指示は隊長に委任してある。デイは大門でエルサ、ロスの補佐を。それから情報を整理し三十分毎に報告を……そうだな、ウォリタを連れていけ。あれは既に仕上がったも同然だ」
オーガスタの指示に二人は短く敬礼する。すぐに踵を返すと、彼らは小走りで消えていく。それは本来許される行為ではないが、今日だけは特別だった。
二人の足音が遠ざかり、そして完全に聞こえなくなると一人の女性が小さく息を吐いた。領主であるギルが不在の今、この館の、そしてこの地の主であるリンダだ。
「お母さ――」
「状況はかなり悪いと言っていいのでしょうね」
心配そうに呼びかけた娘リレイの言葉を上書きするように声を張りながらリンダは言う。それに対してオーガスタは心動かされる様子もなく、淡々と言葉を紡いでいく。
「はい。領境守備隊より直接の侵犯行為はないという報告を受けております」
クロッシェンは《ロザ》とは殆ど反対側の国境に位置している。そのため今オーガスタが言う領境は国境と同義だ。
「『直接』……」
「断定はできません。《エヴァリ》中央が彼の知る限り《シンシェ》及び周辺国への出兵の意思が無かったことは確かです。とはいえ、《エヴァリ》は二年前に前皇の急逝で勝てる戦いを退きましたので、軍部に不満があることも確かです」
「ええ……ええ、そうですね。では、ワミサに連絡をいたしましょう」
そう言うとリンダは立ち上がり、目を閉じ口許に手を当ててしばし沈黙する。彼女は眉間に皺をよせ、頭の中を整理しているようだ。
数分後彼女は目を開けると、口許に手を当てたまま窓際に移動する。オーガスタが一歩早く動き窓を開けると、リンダはまるで離れた相手に口づけを飛ばすかのような動きをする。だがそこには愛情も慈しみも博愛も含まれていない。事務的なレタルだ。
窓際から戻り彼女は元のソファに座る。傍らにいた娘の身体を抱き寄せ、その体温を感じながら彼女は心を整えていた。
リレイはそんな母を見るのは初めてだった。リンダ=クロッシェンはいつも全ての人間に厳しく、だが確かな愛情を持って行動している女性であり、娘として自慢できる母親だったのだ。いや、母と娘という関係以前に一人の人間として、自身よりも長く時を生きている女性として尊敬できる者だった。
控え目でありながらも確かな己を持ち、しかしそれをあからさまに見せるのではなく、相手を立てながらより良い方向へ自然と歩ませる女性は今、幼い娘の小さな肩に手を当て震えていた。
「《エヴァリ》による侵攻が間違いであればいいのです、わたくしが誠心誠意謝りますわ。『学がないくせに政治をするな』とお小言を頂戴するかもしれませんが、一番犯してはならない間違いは小さな、本当に小さな綻びを見逃すことですもの」
リンダはそう言い切る。彼女は自分に言い聞かせていたのだ。自分の中に秘めておくのではなく、言葉として表に出し自分を拘束することを彼女は選んでいた。
そんな母を見て、リレイは考える。
(……私、ここにいないほうがいいかもしれない……一秒でも早くクロッシェンから出ていくべきだ……)
クロッシェン領主の一人娘として、そして唯一の後継ぎとしてリレイの考えは、「領主直系一族の滅亡」を防ぐために当然のことだった。「主」と名の付くものは基本的に世襲の《シンシェ》にとって、その主の血が一度に途絶えることは何としても避けなければならない。
リンダはクロッシェン領で生まれ育った女性だが、クロッシェンの血筋の人間ではない。その胎に子を宿していればまだしも、今彼女の身体に宿っている命はたった一つだ。
もしこの揺れが他国からの侵略の序章であった場合ギルはこの領地に戻り、戦いの長の一人として戦わなければいけない。彼が最前線に出ることは、戦場が平穏であれば無に等しいだろう。しかし劣勢であれば彼は自ら刃をとらなくてはいけなくなるという身体的な負担がある。加えて精神的な負担としては長の一人として情報を取りまとめ、《シンシェ》中央の顔色やワミサ――軍の支部がある都市の一つである――から来た兵たちの面倒を見なくてはならないし、戦死した兵の家族には彼の名でその報告をしなくてはならない。同時に敵とは、少しでも《シンシェ》が優位な条件で和睦の道も探さなくてはならないのだ。
ギル=クロッシェンに兄弟はいない――正確に言えば、戦死しておりこの世にはもういない――から、この地を治めるクロッシェン直系であるのは彼自身と、その娘のリレイだ。親戚を頼ることもできなくはないが、この国で生まれ育った人間として、ほとんどの人間が直系の人間が継いでいくものと考えている。
直系にとって傍系に頼るのは恥であり、また傍系にとってはどんな形であれ乗っ取りの烙印を押される行為なのだ。
(まだ魔法も満足に使えない……『魔力』があってほっとしたけど……。でも、使いこなせるかわからない……。私、十一歳かぁ……まだ、子供が産めない……)
リレイは自分を顧みて、そして無力さを思い知る。『魔力』が発現し魔法を使える最低条件が整ったとはいえ、彼女はそれを使いこなす方法を知らないのだ。それは彼女がこれから学んでいくものだった。
また、たった一人の後継ぎとして、そして女性の役割の一つとして子を孕むことも今の彼女にはできない。十一歳という身体は幼過ぎて、二つの命を抱えられるほど成熟していない。
だからこそ、今リレイ=クロッシェンが自らの判断で行える最善のことは決まっていた。
「お母様……私、すぐにでも――」
「……ええ、そうね。あなたはクロッシェンにいない方がいいわ」
リレイの言わんとすることを理解した母は、寂しそうな微笑みを浮かべながら言う。彼女もまた領主の妻として、そして一人しか子を孕むことができなかった女として、その子に託すべきものは理解していた。
「ただ、問題もあるの。……オーガスタ、貴女もきいてくださいね、そして知恵を下さい。
……クロッシェンのこの現状で、次代を担うべき子を外に出す理由を理解できないほど民は愚かではありません。もう少し時がたてばリレイを学校にやるつもりでしたから、それがたまたま重なったという方便も使えますが急を要します。どうすれば……」
リンダはそこで言葉を切った。彼女は二度と会えない覚悟で娘を外に出そうとしている。だが、それ以上に彼女は恥じていた。クロッシェンの民のことが頭からすっかり抜け落ちていたことに彼女は気づいたのだ。
「奥方様……。奥方様、リレイ様の傷が思わしくないとすればいかがですか? 幸いなことにワミサは軍の町ですから腕のいい医者もおります。エニメフには申し訳ないが、彼よりもワミサのやぶ医者の方が腕がいいでしょう……特に、リレイ様のような傷では」
オーガスタの言葉に、リレイは既にない右腕に鈍い痛みを覚えた。そんなことがあるはずない、と彼女は空っぽの袖を眺める。だらりとした布の重なりは、リレイの心を締め付けた。
「リレイを治療として領から出す機会は今までいくらでもありました。でもそれをしてこなかったのです。
……オーガスタ、戦場で最も恐ろしいのは『小さな物事の積み重ね』です。一つでは取るに足らないことでも、それが重なれば……。『そう解釈できる』のが恐ろしいのです。たとえ事実ではなくても、解釈できればそれが戦場という混乱した場では現実になってしまうのです」
「……肝に銘じます」
リンダの声色にオーガスタはそう短く答えた。