動きと警戒
この館の主である母子は、数十分後に食事の場へと戻ってきた。短時間ではあったが母直々に存分に絞られたらしいリレイは、かなり気落ちした雰囲気を漂わせていた。彼女をここまで落ち込ませた母リンダは表情一つ変えず、麻辺と瀬良に退席を詫びるだけであった。
夕食を終えると、三人は誰からともなく集まるように――いや、麻辺がいるところに瀬良とリレイが集まるようになっていた。今日はクロッシェンの館の隅に有る書庫だった。麻辺はこの世界で生きていくために最低限必要な知識の一つである文字を習得しようとしていたのだ。
そんな麻辺にリレイは隣の席に座って一から教えようとしていた。枠のなかに砂が詰められたものに、リレイが木の枝で文字を書く。これは記録として残すに値しないものを書くときに使う普遍的な道具で、“イシモ”という名だとはじめに彼女は教えた。
「かーちゃんってのはどこでも怖い存在なのか?」
レアリムの文字に興味は一切持たなかった瀬良は、日本での日常が抜けないので電源の付かないスマホを両手で弄んでいたが、ふと意地の悪い笑みを浮かべながらリレイに問う。
「……知らないもん……。っていうか、あんたもお母さん怖いの? そんなに大きいのに?」
「あんた『も』? へー、『も』か。こえーんだ、へー」
「あーっ‼ ……内緒! お母様には内緒だからね!」
「内緒っつーことは俺に貸しを作るってことだな? いいぜ、そのオカーサマには言わないでおいてやる」
「うわあぁ……あー……ッ……」
瀬良の答えに、何より自分がしでかしてしまった初歩的なミスにリレイは悲痛な声を上げる。それに対して瀬良はやはりニヤニヤと笑うだけだ。
麻辺はそれをいつものことのように聞いていた。話す内容はどうであれ、瀬良とリレイの二人はかなり近いレベルで小さな争いを起こすのだ。そんな二人に混じることに麻辺は何の利益も見いだせないので、イシモの砂の部分に木の枝を走らせる。
それはこの世界の文字でもなければ、日本のそれでもない。丸や三角、そして何の規則性も見出だせない乱暴な線という、落書きということしかできないものだ。麻辺の脳に浮かぶものは何もなく、イシモに相応しいものがそれに刻まれていく。
「つーかさ、麻辺、何でお前この世界の文字なんて勉強してえんだよ」
「あにゃひへぇ!」
「『離してください瀬良様』だろ?」
「うあひぇあいえお!」
「……えっ……と」
瀬良がリレイの口の端に親指を差し込み、限界の寸前まで引き延ばしながら麻辺に質問した。リレイは左手で精一杯抵抗しているが、男と女、年齢、体格、なにより彼女の隻腕という覆すことのできない不利によってそれはほとんど無意味なものになっていた。
麻辺はそんな彼女と瀬良を見る。瀬良の様子から見てリレイに対する彼の行為は、この世界にくる直前に自分に向け続けていた悪意からくるものではないことは明らかだ。
(瀬良君止めなくても……でも、リレイさん嫌がってるし、リレイさんに嫌われるのは避けたいから……)
麻辺は考える。本来なら考えるまでもなく、一般的にどうすべきか――瀬良にリレイを解放するように言う。リレイを庇い、瀬良にそういうことをしないように注意し、その後で彼の質問に答える――など瞬時に理解し、その通りに行動すべきなのだ。麻辺がそれをできないのは、彼が常に萎縮させられ続けてきたからだ。
それゆえ麻辺は既に自分が傷つくことは勘定に入れない人間となってしまっていた。瀬良に嫌われることによる不都合とリレイに嫌われることによる不都合。それを天秤に掛け、彼は口を開く。
「あっ……あの、り、……リレイさんを、あの、離したら……あ、えっと、……答えま、す」
「あ? おいてめぇ麻辺、お前俺に条件つけんのか」
「あー……まあ、はい。そうです……リレイさん……嫌がっているんで……」
麻辺は答える。瀬良に嫌われたとしても暴力を奮われるだけで済むが、リレイに嫌われた場合この世界の生活の振り出しに戻るということを意味する。日本ならまだしも戦争があるらしいこの世界で、自らの力で生きていくために道を切り開いていく自信が彼にはなかったのだ。
麻辺の思わぬ反抗に瀬良は眉間に皺を寄せる。先程の問いは何気ないもので、積極的にその答えを知りたいものではなかった。とはいえ麻辺の言葉から今自身がしている行為について正当性を失ってしまったように瀬良は感じ、その両手の先を見れば口を左右に広げられていても分かるくらいにリレイが勝ち誇った表情をしている。
「……」
「……」
「チッ」
なんとかしてその表情に報いようとしたが、瀬良の頭の中にその方法は浮かばなかった。苦し紛れに舌打ちをしてリレイの口から両手を離し、彼は自分の太股で両手を拭った。
「……えっ、と。あの、じゃあ、……僕がリレイさんに……文字をおそ、教わる理由です……けど」
瀬良がつまらなそうに両手を顎の下で組み、あからさまに二人から視線を外したところで麻辺は口を開いた。
「あの……あー……この世界で……えっと、れ、レアリムで生きていくため、です。……あ、えっと、言葉は何とか通じてますけど、……あの、普通に、平和に暮らしていく――」
「おい待て」
瀬良が口を挟む。
「暮らしていく? この世界で? 平和に?」
「え? まあ……はい。平和に……」
「なんか悪いの? アサベさん何もおかしいこと言ってないよ?」
リレイが麻辺に援護する。彼女は麻辺の左腕に自身の腕を絡ませた。それは彼女が全面的に麻辺のことを支持していくという無言の表明だ。
そんな二人からテーブルを挟んで離れた位置にいる瀬良は、信じられないという目で二人を――いや、麻辺を見ていた。
「お前、日本に帰る気ねえの?」
「……」
瀬良に指摘され、麻辺は初めて自分にはその発想がなかったことに気がついた。
「そりゃあよ、あっちじゃお前散々な目に……そうだよ俺のせいだよ!」
「私まだ何も言ってないけど?」
「『散々な目に? アサベさんをそんな目に遭わせたのはあんたでしょ!』ってとこだろ? 分かってんだよこっちは……。
……そういう感じで、お前は俺さえ気を付けときゃこの世界でまともに生きてけるだろうさ。けど、なんつうか……未練? 日本でやり残したこととかねえのかよ」
「やり残したこと……」
瀬良に言われ、麻辺は考える。彼の頭に浮かぶ唯一の未練、日本でしか叶えられない望みは滑稽だ。ちょっとしたことで誰しもが望み、しかしそれを遂げようとは大半の人間がしない、そんな望み。
「無いわけじゃないんですけど……えっと……」
「……」
「あるの? どういう望み?」
「何というか……あー……」
麻辺はそこで言葉を切った。果たしてこれを言ってもいいのか分からなかったからだ。三十秒ほど考えて、麻辺は言わないことにした。教えなくてもリレイとはそれなりの信頼関係を築けるような気がしていたし、瀬良にそれを言うことは得策ではないということを理解したからだ。
「その、叶えるものじゃないというか……未練のままで、叶わないままでいる方が……その、……はい」
「……あっそ」
瀬良の返答は短く、簡潔だった。そんな彼を見てリレイが不思議そうに言葉を発する。
「あんたは帰りたいの? えっと、《ニホン》だっけ? そこでやり残したことがあるの?」
「無いっつったら嘘になる。けど、こっちにいたらそれしないでも別に問題ねえんだよ。身軽に、自由に俺の人生を生きてけるわ。
……いや、バイトバックレと中卒はまずいか……あとトラックの……いや、帰んなきゃどうでもいい話だ!」
「ふーん、まあいいけ」
リレイが中途半端なところで言葉を切る。何かの気配を探るようにその身を不動のものとしたのは一瞬で、次の瞬間彼女は弾かれるように麻辺のことを押し倒した。
瀬良がリレイの奇行を咎めようとするのと、麻辺の背中が白い糸で繊細な刺繍が施された臙脂色の絨毯につこうとするのと、リレイの足が床を蹴り二人の体をテーブルの下にやろうとするのと、それは同時だった。
―― ゴゴゴゴ……
ドオオォォォォッッ!! ――
地の底、地の果てからクロッシェンに大きな揺れをそれは連れてくる。
「地震か? 震度三……四くらいか?」
瀬良が身を乗り出しイシモを押さえながら言う。はじめの揺れでいくらかの砂がテーブルに散乱したが、それ以上の被害はない。
彼は手の中のそれをテーブルの中心まで移動させると、呆れた顔をしてその下を覗きこんだ。
「おいガキ、こんくらいじゃ大袈裟」
「いいからあんたもテーブルの下に入って!」
「は? えっ、ぉあ⁈」
「ギャッ、痛い痛い痛い! 腕やめて、腕はダメーッ‼」
リレイの焦りに満ちた言葉にこれはただ事ではないと判断した麻辺は、彼女の体の下から右手を伸ばして瀬良の襟を引っ張り彼の体をテーブルの下に引き込んだ。その際、どうやらリレイの傷口に瀬良の体を当ててしまったらしく、彼女の純粋な悲鳴が上がる。
「ったく、文句は麻辺に言え! 俺を蹴るな!」
「分かったから、分かったから早く避けて! 痛い! 傷開いちゃうからぁぁっ‼」
「へいへい、悪うごぜえましたよ。
……つか、マジで大袈裟だろ。ちょっと大きい地震じゃねえか。こんくらいでピーピー喚くってどんだけ怖がりなんだよ」
優先的にリレイの腕を避けながら、瀬良は尚も呆れの色を隠さずに言う。彼の言うことを麻辺も否定する気は起きなかった。それを表立って見せないのは、リレイの顔が本当に近くにあったからだ。
日本で暮らしていた二人にとって、はじめの地鳴りこそ驚きに値する轟音ではあったが、その後の揺れは少しだけ大きい地震であり、生命の危機を感じるようなそれではなかったのだ。当然恐怖心もなく、雑談として数日その話が出れば上出来、というくらいのものである。
しかし、リレイは違う。
彼女は恐怖心と、それ以上の警戒心を見せていた。瀬良にかつての右腕を痛めつけられたことすら感じさせず、小柄なその身体で麻辺を庇いながら集中していた。
「……」
「……」
麻辺と瀬良の二人は無言のうちに顔を見合わせる。こんなリレイを二人は見たことが無かった。
ただ集中しているのではない。今までのクロッシェンでの生活で、彼女が集中している様子を思い出すことができる程度には、二人はそれを見ている。だが、その集中とは違うということが彼らでもわかるほどのものだった。
(……似てるな)
瀬良はふと思う。今のリレイの雰囲気は、かつての麻辺を彷彿させたのだ。周囲を窺い、存在するもの全てを警戒し――自分という存在がこの世界から認知されないことを望みながら、この世界の全てを知り全てを予期することを望むというそんな矛盾を思わせる雰囲気を、今は少女の下でぼんやりとしている彼はかつて持っていたのだ。
「……。
ガキ、もういいだろ。初期微動とかマグニチュード……じゃねえ、本震とかもう収まっただろ」
瀬良の言葉に対してリレイは動きを見せない。だが、そこから五分が経ってコツコツという音、次いで今三人がいる書庫の扉があけられる音と同時に、射られた矢のようにまっすぐな女性の声が響く。
「リレイ様!」
「オーガスタ! どうしたの、何が起こったの?」
書庫に入ってきた女性の正体は、オーガスタ=ジュニス。クロッシェン家に仕えるメイドであり、この地の主のボディーガードの長、警備隊の長を務めている。普段はギルの身を守っているが、彼が《シンシェ》中央に向かう際には彼女はこの地に残りリンダとリレイを、そしてこの領地を守る。
「説明は後です。奥方様の元に案内します。一時間ほどリレイ様にもあの場にいてもらいます。その後は六時間の睡眠をとってください。貴女がいれば……」
「……」
「セラ様、アサベ様はお部屋にお戻りくださいませ。今」
オーガスタは指をパチンと鳴らした。その音は目には見えないが確かに感じる「何か」が波のようにこの館を駆け抜けているのを感じさせる。
「四名の者が参ります」
彼女の言葉から一分もたたず、揃いの衣を身につけ、頬には揃いの入れ墨をしている男が四名現れた。彼らの目はどこかうつろだ。
「デイ、ベクはセラ様を。ロヴス、カルマスはアサベ様を」
「はっ」
オーガスタの指示は簡潔である。名を呼ばれた四人はまるで一つのプログラムで動いているような不気味さを漂わせている。短く、だからこそ乱れも分かりやすい返事すらタイミングも長さもきっかり同一で、彼らはまるで操り人形のようだった。
「……」
「担ごうとすんのやめろ! 俺自分で歩けっか――、おい! お前客人にこんなことすんのか‼」
瀬良が叫ぶ。それは当然のことだった。彼は目隠しをされそうになっていたのだ。瀬良は彼なりに抵抗するものの、彼らと持っているものが違っていた。
「『動くな』」
「……!」
たった五文字の言葉で、瀬良の動きは封じられた。金縛りにあったように彼の体は動かない。瀬良は腰をかがめた状態で目隠しをされる。それを無抵抗の麻辺はただ見ていた。
「あ……僕も、ですよね」
差し出された布をみて理解した麻辺はそう言うと、彼はロヴスかカルマスかは分からなったが、相手がそれをしやすいように頭を垂れた。