瀬良の日常
「セラぁ、今日はどれくらいから『ジュードー』するんだー?」
「あー……お前らの製粉終わったらー!」
「日が暮れちまうよー」
「じゃあさっさと終わらせろーっ!」
この世界に来てそんなやり取りをしたのは何度目なのか、瀬良はもうわからなかった。今彼はクロッシェンの館で朝食にと作ってもらったウーピナを顔なじみになった果樹園の女主人から貰ったジュースに浸したものを片手に、小高い丘の上でくつろいでいた。ジュースをくれた女主人の息子トマス――瀬良より年上で十九歳。彼は右手の薬指と小指を失い、また肘にかけて火傷の痕があった――に伝えると、瀬良は息を吐きながら寝ころび、目を閉じる。
瀬良にとってクロッシェンの館はあくまでこの《レアリム》という世界での拠点という印象だった。地球の日本に帰れるまで世話になるつもりではいたがどうにも居づらさを感じてしまい、体調が改善してからはもっぱら館の外にいることが多くなった。
はじめはあてもなくふらふらとしており、またその中で自分が怖がられていることを瀬良は理解した。かつて「不良」であることを常に示していた脱色された長い金髪こそこの世界になじんでいるが、言葉遣いも行動も荒く、また百九十センチに近い身長が特に小さな子供や女には恐怖を与えるものだったのだ。身長だけはどうしようもなく、さてどうするべきかと余計な視線のない平穏な日常を得るために考えた時、とある「事件」が起きた。
いや、「事件」というには少々大袈裟であり、しかし「日常」というには大きな出来事だった。
その発端は酔っぱらいの喧嘩という、果実酒を特産としているクロッシェンではよくあることではあった。その喧騒を瀬良は少し離れたところで眺めていた。自分が関わることではないものの、懐かしさを感じる光景であったからだ。
(そういやどこで酒買ってたんだ? 大賀がバイト先からパクってたのか? 兄さん達からの差し入れか?)
とあるアパートの一室での後始末を思い出し苦い顔をする瀬良の目の前では、喧嘩を煽るためにさらに酒が注がれ、それを赤ら顔の男二人が乱暴に飲み干し再び向かい合い、周囲では一日の仕事を終えたもの達がどちらが勝つかと賭けを始める。
彼らは血の気の多い性格だったのだろう、高まっていく雰囲気に乗っていく人間は無意識の内に仲間とみなしていた。同じ地に住むとか見知った顔だとかではなく、この場を完成させていく人間であれば受け入れる、といった様子だ。
そのため彼らは気づかなかった。拳を振り上げ、賭けたのだから勝てと叫ぶ彼らの間で、せわしなく動き続ける存在がいることを。
“彼”は「見えない」「見せて」「少しだけ空けて!」「どっちが勝ってる⁉」と叫び続けていたから、その小柄な体格も相まって野次馬として集まって来たものの大人の男という強者に阻まれ何もできなくなっている子供だ――と彼らは無意識に考えていた。いや、考えるまでもなくそう判断し、“彼”は喧嘩を楽しむ一団に確かに存在しながらも、そこには存在していなかった。
そしてそんな“彼”と同じように一団に存在していなかった瀬良だからこそ、「日常」でも「事件」でもない、そんなある異質に気付いたのだ。さらに正確に言えば瀬良が「目の前の一団」にはもちろん、「日本での一般的な集団」からも外れていたからこそ気づいたことだった。彼は立ち上がると、その一団に向けて一直線に歩みを進める。瀬良のことを乱入者、もしくは挑戦者であると受け取った喧嘩をしている二人が揃って彼の方を見た。その瞬間、瀬良は迎え撃つ姿勢を見せた二人を勢いよく走って通り過ぎ、賭けを楽しんでいる一団に突っ込んだ。
「おい、テメェ! ちげえ、テメエらぁッ‼」
「あああぁぁぁ! 助けてーッ!」
瀬良が「挑戦者」でなかったことを悟った瞬間、“彼”は駆けだした。突然悲鳴を上げ駆けだした小柄な“彼”という存在に虚を突かれた一団が次の判断を下す前に、瀬良は一団の中のある男の腕を握る。
「何スッてんだお前!」
「……は? いえ、オレは何も……」
「嘘つけ! ガキ使って目くらまししてただろうが!」
「何を意味の分からな、おい、止めな――」
男の言葉は続かなかった。彼は封じられていない方の手で瀬良の自由な方の腕を搔く。互いに両の腕が使えないという同条件の中、やるべきことを理解していた瀬良の方に軍配が上がったのだ。
男が自分のポケットに突っ込まれている瀬良の腕を引き抜いた瞬間、バラバラと何かが散っていく。それらは互いの身をこすり合わせるときに金属特有の音を立てて、そして土の上に落ちていく。
結論から言えば、その男は「スリ」だったのだ。悲鳴を上げて逃げ出した“彼”はそのスリの弟で、兄弟は組んで生活のために金を得ていたのだといい、それ以上の身の上話は聞けなかった。瀬良は群衆に兄弟の手口――「喧嘩」という目立つものと、言葉や動きでその存在を主張し続ける「弟」の二つで視線を欺き、「兄」はより良い場所を穏やかに求める見物人として熱狂する者の間を縫って獲物を得る――を説明した。兄弟は肯定も否定もしなかったが、瀬良はそんな二人を見てこのような犯罪はどこに行っても手口は同じなのだろう、と思っただけだ。
兄弟はクロッシェンの領主であるギルに引き渡され、そのギルは自ら《シンシェ》中央の司法機関に彼らを引き渡しに行った。領主自ら動くのは珍しいが、聞けば彼は元々中央に用事があったのだという。
そんな小さな出来事が起き、瀬良がこの地の民に受け入れられたのはもう二十日以上前のことだ。
「……行くか」
瀬良はそう呟き自分に宣言すると立ち上がった。午後になるまでこの地の人間は働き続けている。その仕事を気が向けば手伝うこともあったが、今日はそんな気分になれなかったのだ。
彼はとりあえず館に戻ることにした。製粉作業は石臼を使って行っておりかなりの重労働だ。働き盛りの男たちがそれに取り掛かると、女たちは必然的に果樹園での諸々の仕事を行うこととなる。トマスが「日が暮れる」と言ったことは正しいということを瀬良は伝聞ではあるが知っている。もしその前に終われば誰か館に呼びに来るだろう――そんな判断のもと彼はほんの二時間前に出た館を目指した。
結局トマスらは日暮れまでに製粉作業は終わらなかったらしい。
瀬良は今日は体を動かすことを一切せず、惰性で既に充電が切れ真黒な画面しか映し出さないスマートフォンを右手に握っていただけだった。昼食はメイドの一人が部屋に運んできたからそれを食べ、再びベッドに寝転んでいた。
このような無気力な状態は良くない、と瀬良は自分に言い聞かせる。そこから自分がどうなっていくのか、彼はすでに知っているのだ。もちろん今までのそれが特に悪いことであるという可能性もあるが、それを否定できる確かな根拠を瀬良は持っていなかったのだ。
そのため夕食の時間を知らせに来たメイドに、瀬良は内心感謝する。
(晩飯か……体動かさないと調子出ねえ……)
食堂に案内するメイドの後ろを歩きながら、瀬良は欠伸と共に背伸びをする。既に慣れた道のりで、目を瞑ってでもたどり着ける自信があったが瀬良はその導きに従っていた。断る理由が見当たらなかったし、案内されてまずい理由も見当たらなかったからだ。
食堂にはすでに豪華な食事が並び、この館の主の妻リンダ、その娘のリレイ(瀬良を見て一瞬嫌そうな顔をする。瀬良は軽く舌を出して返事した)、そして瀬良の唯一の同郷人である麻辺がいた。
「おい麻辺、なんだその半パンダは」
瀬良は自分に割り当てられた席に着きながら隣の男に問う。瀬良の問いは麻辺にとって不意打ちだったようで、彼は一瞬戸惑いの雰囲気を出してからその問いに答えた。
「あっ、あ……あの、何でもなくて……転んだだけ、です」
「ぶん殴られたんだろ」
「いえ……あの……あー……」
「ガ……リレイか。喧嘩でもしたのか?」
「してないっ! 特訓しててちょっと腕が当たっただけだもん、大丈夫だもん……」
リレイが口を挟む。だが、その声色は瀬良に対する反抗の一瞬だけが強いものであり、麻辺の左目が青紫になっている理由を説明するに従って勢いは弱まり、小さくなっていった。
「はい、あの……僕は大丈夫なんで。こういうの慣れっこだし、あの……もっと酷くなったりも、あの、してたから……本当に……」
そんなリレイのことを麻辺は庇うが、それはリレイにとっては逆効果なようだった。彼女はすっかり意気消沈し、その身体が二回りは小さくなってしまったようだった。
瀬良はそれを見て思わずふき出した。理由は分からないが、ただそれが面白かったし、安らぐような気がしたのだ。
「ちょっ……何、気持ち悪い……」
「リレイ! お客様に向かってなんて口のきき方ですか!」
「お、お母様……」
「申し訳ありません、少々失礼しますね。お食事をどうぞ、お口に合うといいのですが。――リレイ」
リンダは有無を言わせぬ様子で立ち上がると、娘の名を呼んだ。たったそれだけのことで名を呼ばれた娘は蒼白になり、行動を促されるまでもなく彼女は立ち上がると母の後ろを行く。
そんな母子二人の後姿を二人は無言で見送った。