麻辺の日常
麻辺は小さな気配を感じて目をあけた。寝起き特有の少しぼやけた視界は、彼がこの一週間を過ごしているなかでの平均的なものだった。彼は起き上がると音をたてないようにしながらベッドにもぐりこむ。それはクロッシェンの館の客人用のものだった。
麻辺と瀬良はクロッシェンの地にやってきて五日ほどは同室で治療を受けていたが、瀬良が回復し小指を固定することしか求められなくなってからは、二人それぞれに個室がギルより与えられていた。彼の妻でありリレイの母でもあるリンダがギリギリで国賓や《シンシェ》要人の存在を思い出させたことによって館の最も豪華な部屋やベッドは死守された。だが、豪華な刺繍が施された絨毯、落ち着いていながらも華やかさを主張している壁紙、素晴らしい絵画が描かれている天井と、今彼がいる部屋が豪勢なものであるということを否定する人間はいないだろう。
「失礼いたします。アサベ様、朝食をお持ちしました」
遠慮がちなノックと共に扉の向こうから控えめな女性の声が麻辺の耳に入る。その声の主はクロッシェン家に仕えるミランダという名のメイドで、彼女は戦争で子供二人を、貧困によりもう一人子供を亡くしていることを麻辺は眠気があと三秒で消え去る脳から引っ張り出した。彼女に短く返事をすれば、それに対する返事、そして扉が開かれ朝食の香りが届く。
「ラピナ」というトウモロコシに似た穀物を挽いた粉で作られる「ウーピナ」。色彩豊かな野菜とたんぱくな肉を甘辛いソースで和えたものをウーピナで包んで食べるのが、《シンシェ》の王道な朝食だった。麻辺の朝食が王道から外れているのは、栄養豊富、しかし味が最大の問題である薬草と、なんとかそれを打ち消そうとしている(が、いつも敗北している。おそらく勝てるときは来ない)フルーツでできた緑色のスムージーがつけられていることだ。これはエニメフ医師の指示だという。
「ベッドでお目覚めでしたね……良かった」
ベッドに横になっている麻辺にほっとした表情を見せたミランダに対して、麻辺はいつものように少しだけ頭を下げた。彼女が麻辺のことをその胎を痛めて産み落とした子に重ねているということを、麻辺はつい一週間前に瀬良に指摘されて理解したのだ。
『お前さぁ……もう少し相手のこと考えりゃいいじゃねえか?』
『考えてアンタはアサベさんに何したの?』
『うっせえな! おめーには何も言ってねえぞクソガキ‼』
そんなやり取りをしている瀬良とリレイを横目で見ながら麻辺は自分が何をするべきか考えたのだ。いくらリレイの命の恩人とはいえ現状麻辺は「お荷物」だ。館の仕事をしようにもそれはメイドたちの仕事を奪うことになってしまい、またギルとリンダもそれを望まなかった。
そして、とりあえずリレイの次に関わることの多いミランダに対して報いる行動に出ようと麻辺は考えたのだ。とはいえ報酬らしき報酬は出すことができないので、麻辺は「ミランダの子」を演じることにした。
ミランダは自分の子を全面的に麻辺に投影するほど愚かではなかった。しかし床で眠っている麻辺に対してまるで眉尻が目の中に入ってしまうのではないかと思う位に下げて悲しそうな顔をしたり、彼女の問いかけに考え事をしていて返事をしないでいたら真っ青な顔で部屋に飛び込んできて、そして麻辺が目をあけ彼女の方を見ていることに涙を流して喜ぶくらいには「自分の認識の範囲外での子供の死」を恐れるまでになっていた。
麻辺はミランダの子の死を探る気は無かったが、だからこそそれを「演じる」ことができていた。要は「一般的な健やかな子」でいればいいのだ。麻辺はリレイのように思ったことをすぐに口や行動に出すことも、瀬良のように暴力的になることもできない。ただ、問いかけには返事をし、施されたことには礼を言い、毎日変わりのない様子を見せる。それが彼の演じる「ミランダの子」だった。
朝食と着替えを終え、麻辺はいつものように中庭に出る。リレイは既に平均台の上にいた。
「アサベさん! こっちこっちー!」
リレイがぴょんぴょんと跳ねながら麻辺に向かって手を振る。彼女は既に片腕のバランス感覚に適応したらしい。日常全てが元通りとまでにはいかないものの、運動能力は殆ど取り戻したようだ。
「リレイさん……あの、大丈夫?」
「うんっ、全然大丈夫!」
そう返事をしたリレイはそれを証明するかのように平均台の上で宙返りをする。危うさを感じさせることは全くなく、むしろ今の状態が生まれながらのものであると錯覚できるくらい、それは当然のように行われていた。
麻辺がリレイの左側に立ち、手を差し伸べる。いつもならばその手をリレイがとるのだが、今日は彼女はそれをしなかった。不思議に思った麻辺が顔を上げれば、リレイは戸惑った表情をしている。
「私……もう少しでまた学校に行くんだ」
「……そう。あ、あの……指揮官養成……の?」
「ううん、『魔力』の方。ちゃんと使えないといけないから……片腕になっちゃったし、普通の人よりいっぱいかかっちゃうって」
「……」
リレイの言葉に麻辺は口を閉じた。麻辺は彼女が学校に行く、つまりこのクロッシェンの地を離れるということになれば、当然自分たち「娘の命の恩人」がこの地に滞在する理由もなくなるというように感じたのだ。
そんな麻辺の考えを読み取ったのか、リレイは慌てて次の言葉を紡いだ。
「あ、アサベさん出ていかないでね! ずっといていいんだから、私が帰ってくるところにアサベさんはずっといて! ……セラさんも……まあ、いていいから……お父様もお母様も……追い出すのは嫌だろうし……」
リレイは前半は自信をもって、後半は気まずそうに、そして本心では望んでいないことを示しながら言う。彼女は自分を納得させるために両親を持ち出し、どうにかしてそれを受け入れようとしていた。
リレイは麻辺が瀬良のことをどう評しているか知っている。それに心から同意することはできないものの、それを素直に表に出せば麻辺を否定するということになり、それは彼女には耐えられなかったのだ。
「……うん、あ、ありがとう」
「ううん、気にしないで。私、ずっとアサベさんと一緒にいたいから。学校に行ったら離れ離れになっちゃうけど、でも、あの、手紙書くから! 私、毎日! 『情報伝達』は私まだ練習しなきゃだから、お父様とお母様にも手紙で書くから、だから、アサベさんにも!」
リレイは必死に目の前の麻辺に伝えた。形で残るものでそうしなければ、麻辺に自分のことは何も残らないのでは、と彼女は根拠のない不安に襲われたのだ。
麻辺はそれに対して頷きで返す。メール社会で生きてきた彼にとって、手紙を受け取るというのは未知の体験だ。いや、そもそも麻辺はパソコンやスマートフォンといった電子端末を所有していないから、彼を指名し望んで届けられる情報は初めてだった。
そんな理由で麻辺はもう一度頷くことしかできず、また自分がリレイのその行為に対してどう思っているのかもわからなかった。ただ、頷いただけにもかかわらず嬉しそうな顔をしたリレイが平均台から飛び降りして自分の隣に立って笑うのを見て、どうやら正解の内の一つを選び取れたらしいということが分かった。
(もう少しリレイさんに信頼された方がいいのかな……)
麻辺はふとそんなことを思う。自分が現状何も役に立っていないことから、追い出されるなら自分だというような思いが彼にはあった。瀬良と揃って追い出されたとしても、館から出てこの地の民との交流を欠かさない彼と自分であればどちらを手元に置くか考えるまでもない。
ならばリレイに懐かれていることを利用しなければ――と麻辺は無意識に彼女の信頼を利用する術を考える。
(リレイさんは――……)
麻辺は今までの、一月と少しの間のことを思い出す。特に彼が重点的に思い出そうとしたのは、初めて彼女と出会ったとき、つまり《ロザ》らしきところで過ごした時のことだ。右腕を失ったことを瀬良に指摘されるまで気づかず、また恐慌に陥った彼女が極限状態であったことは言うまでもない。そんな状態で晒されるものは最も望むものだ。
「……あの、リレイさん」
「なあに?」
「あ……えっと、あの……あ……迷惑でなければ、なんですけど」
「うん」
「その……僕にえっと、あー……その、運動とか、教えてくれないかな……? 僕、運動音痴だから……あの、色々上手くいかないんだけど……だから……」
「……うんっ! いいよ‼」
麻辺の言葉にリレイはパァッと顔を輝かせた。彼女は「役立たず」になることを恐れていた。ひたすらに謝り続け、捨てないでほしいと小さく懇願していた。
そのため麻辺はリレイに何かを求めることが最善だろうと思ったのだ。そして、とりあえず自分に欠けているものとして運動能力の改善をしようと思ったのだ。リレイは片腕を失って一月程度しかたっていないにもかかわらず平均台の上で宙返りという、麻辺の中の常識で五体満足の人間ですら難しいことをやってのけた。そんな彼女に習うことは、両者にとって得になると麻辺は判断したのだ。
「じゃあまず、アサベさんがどれくらいできるか試していい?」
「うん、……あの、でも、お手柔らかに……。僕、本当に運動できないから……」
「分かった。じゃあまずは、えっと……移動します! 中庭じゃなくって館の屋上! そこだと広くて色々見えるから、だからそこに行こう!」
求められたことが、そして好感を持っている人間に教えることができるというのが素直に嬉しいリレイは左手で麻辺の手を取り、微笑みながら彼を屋上へと誘導する。そんな積極的なリレイに麻辺は大人しく従った。