一月後
麻辺と瀬良がクロッシェンの地にやって来て一月が経っていた。
瀬良は五日目には首の痛みも引き、またずっと寝ているのは性に合わないと言ってふらふらと出歩くことが多くなった。
一方の麻辺は定期的にエニメフ医師の診断を受けることになっていた。医師曰く麻辺の栄養状態は「スラムの長レベル」だという。そのため基本的にクロッシェンの館で過ごし、隻腕となってしまったリレイのバランス感覚を取り戻す特訓に付き合うことがほとんどだった。
「はー疲れた!」
空が橙に染まる頃、瀬良はそんな声と共に帰ってくる。彼の手には三枚の厚い上着を縫い合わせて作った道着と、高校の体育の教科書があった。
それを耳にしたリレイが、麻辺の手を握ったまま声の方を睨む。彼女は今、麻辺と共に「普通に」歩く練習をしていた。もっとも両腕があったとしても難しい、幅が十センチ以下の所謂平均台の上で障害物等を自在に避けながら、という練習だ。
「だったらみんなに変なこと教えるのやめてよ! あんな野蛮なもの見たことない!」
「ハッ、野蛮?」
リレイの抗議一色の、刺々しい言葉を彼は鼻で笑った。
瀬良は今、このクロッシェンの男達に柔道を教えに行っていた。彼自身が体を動かすのが好きなこともあるが、第一にクロッシェンでは、そして彼らの言葉を素直に信じれば《レアリム》というこの世界では「体術」が未開に等しかったのだ。武器を持ってのそれは瀬良も経験はないものの、素手で行う柔道は高校で彼が唯一真面目に取り組んでいた体育で経験がある。
「野蛮なものじゃねえし。柔道だ柔道。変でも何でもねえよ、オリンピックでも認められてんだぜ?」
「『オリンピック』? そんなの聞いたことない!」
「そりゃそうだろうな! 電気もガスも水道もネットもねえ、っつうか異世界で聞いたことあったら笑うわ。てか文明はどこに行っちまったんだよこの世界は」
瀬良はそう言うと道着を彼の帰宅を知ってやってきたメイドに手渡した。それも既に日常となっていた。
「……あの」
「あ?」
「なあにアサベさん」
「えっあ……あの、えっと、五百年しかたってないなら……あの、むしろかなりこの世界は進歩してると……あ、僕はその、思うん……ですけど」
麻辺の言葉に瀬良は舌打ちし、リレイはぱぁっと顔を輝かせた。彼女は平均台から飛び降りると、嬉しそうに笑う。
「ねーそうだよね! ここは確かに田舎だけど商業都市のシェントンとかはすごいんだから!」
「シェントン?」
「そう。お店がいっぱいあってね、人もたくさん。私はお父様についていった一回しか行ったことがないんだけど、本当にすごかった」
リレイは興奮気味に話す。田舎の幼い少女にとって都会は憧れの土地であり、夢や希望がつまっている場所だったのだ。特にリレイはこのクロッシェンの領主の一人娘であり、他に兄弟はいない。この地で生きこの地で死ぬことが基本的には決まっている人間だったから、尚更だ。
麻辺も瀬良もリレイのように生まれでその地で生を終えることは宿命付けられていない。とはいえそれがいったいどういう意味を持つかは予想し、解釈できる頭を持っていた。
「そっか……じゃあ、あの、リレイさんは……クロッシェンから出たことが――」
「うん、ほとんどないよ。お父様に頼み込んで商談に連れていって貰ったことは何回かあるけどね。九歳になって学校に入ってからは……あ、その学校がシェントンの近くなんだけど、それからはゼロ」
「そうなんだ……あれ?」
「アサベさん?」
リレイの言葉に違和感を持った麻辺は、右手で左腕の肘の辺りを握った。それは彼が考え事をするときの癖だった。
麻辺はその違和感の正体を探るため、脳内でリレイの言葉を逆再生し、そしてもう一度再生した。そしてその正体を掴むと、彼は瀬良の方を見た。だが、瀬良は既に飽きてしまったようで二人から離れており、今は平均台の端で逆立ちをしている。そのまま渡りきろうとしていたのだ。
「……。あの、あ……リレイさん、学校は……?」
「学校? 私がどこに通ってたかってこと?」
「あ、そうじゃなくって、えっと……あー……今はその……」
麻辺はどう言うべきか分からなかった。
何かしらの事情があって不登校なのかもしれないと麻辺は考えていた。その「事情」が話し辛いものである可能性はすっぱりと抜け落ちていることに気づいたのは、言葉を発した後だった。
麻辺はチラリと瀬良を見る。瀬良は今、平均台の中央付近まで来ていた。
(そうだ、リレイさん、腕無くなったから今までのとこに行けるかも分からないんだ……)
振り返ってリレイを視界に入れた瞬間、その左右対称ではなくなってしまった体を見て麻辺は自分が彼女に問いかけたことが、いかに彼女の心を傷つける可能性が高いかを理解する。治療のために更に短くなってしまった、もはや「右腕」という表現が不適切になってしまったリレイは、そんな麻辺を見て彼が何を思うのか悟った。
麻辺が目の前の少女に答えなくて良い、と言う前にリレイは彼女にとって当たり前のことを改めて説明するという、この一月で彼女の日常となったそれを行うときの柔らかく、それでいて年上の男性に物事を教えるというちょっとした優越感を感じている表情で答えた。
「もう行ってないよ。卒業してるから」
「えっ⁈ そ、卒業してるの……!」
「うん。一年前……入学して一年と少したってからだよ。だからもうその学校には行かない。みんな十歳くらいで卒業するから、そんなにびっくりすることなの?」
リレイは微笑みながら言う。彼女はこの一月で麻辺と瀬良の常識が自分と異なっていること、彼らは《チキュウ》という「世界」から来た、ということを聞いていた。半信半疑であり、また「世界」という概念が彼女には分からなかったが、国よりもさらに広いものであると結論付けていた。
一方の麻辺は目の前の彼女が途端に遠いものになったと感じていた。今まで麻辺は小学校と中学校を卒業しているがそれは義務教育であり、余程のことが無ければ巣立つことができる。今在籍している高校が彼にとって初めての試練であると感じており、だからこそ目の前の幼い少女が何の感情もなく発した「卒業」という言葉が重たかったのだ。
「えっと、……僕たちの世界……じゃなくて、その、《日本》では十五歳まで学校に行かなくちゃならなくて……。えっと、僕は今十七歳で、それでも高校って言う学校に行ってるから……」
「そうなんだ……じゃあ、その十五歳までの学校が基礎訓練で、コーコーが応用訓練とか指揮官養成みたいな学校?」
「え? え……訓練は、……訓練?」
「おしっ、……自衛隊かよ、高校で訓練なんてしねえっつうの」
平均台を逆立ちで渡り終えた瀬良が口を挟む。リレイはそれにあからさまに嫌そうな顔をした。彼女は麻辺と話すことを楽しんでいたので、苦手としている瀬良が割り込んでくるのは単純に不快だったのだ。
「じゃあどうやって国を護るの?」
とはいえ、その不快さを差し置いても気になることがリレイにはあった。そのため彼女は純粋な声色で瀬良にそう問いかける。
「自衛隊じゃねえか? なりてえやつがなるんだよ。あとアメリカ。同盟国だか友好国だかよく分かんねえけど、アメリカがなんとかする」
「それじゃあジエータイじゃない人はどうやって生きていくの?」
「フツーに働いてだろ」
「働くのにも『魔力』が必要でしょ?」
リレイは当然だというように、疑問の形をとりながらも瀬良に対して「そんなことも知らないのか」という呆れの混じった様子で発言する。
「……」
「……リレイさん、あの……僕たちの世界は『魔力』は、その、いらないよ」
「そうなの? アサベさん達……え?」
「信じられない」――リレイの表情はそう語っていた。驚きですっかり言葉を失ったらしい彼女は、麻辺と瀬良の顔を交互に見ていた。それが数十秒ほど続いた後、彼女の中で事実の咀嚼が完了したのか大きく息を吐いた。
「おかしいなって思ってはいたんだ……」
「は? 何が?」
「……。だって、二人とも『魔力』を使わないんだもん。亡命でも『魔力追跡』が適用されない基本的なものすら使わないから変だなって……」
「……追跡?」
「リレイさん、あの……その、どういうふうに変なのか……教えてくれる?」
「お父様が使っていた『情報伝達』を知らない風だったり……クロッシェンに来てからも全然使う風に見えないから、私、てっきりスパイだと思ってたんだ。油断させるためかなって。《レアリム》よりも広い『セカイ』でも、私は全部『魔力』が必要だと思ってた……」
「あっそ。要するに世間知らずで想像すらできないバカだって自白じゃねえか」
「はぁ? 仕方ないでしょ! 『セカイ』なんて私だけじゃない、みんな知らないもん!」
リレイと瀬良の言い争いという、これもまた一月の間でクロッシェンの日常となったものが始まる。それを麻辺はただ眺めているのも日常だった。
麻辺は二人から少しだけ離れて、今いるクロッシェンの館の中庭の隅、水飲み場までやってきて一口それを含む。この領地は緑が豊かであり、それはきれいな水が豊富だということの証明である。この地の長であるこの館にはいくつかの湧泉があった。中庭のそれはかなりの量が湧き出るこの地最大のものであり、麻辺は水流に映った自分の顔を見る。
(……あまり変わんない……)
この一月の間の食事は、ギルの「娘の恩人に最大限の礼を」という指示のもと三食かなりの量が出るにもかかわらず、麻辺の顔は彼の記憶のままの無表情だ。言葉も相変わらずすぐには出ないし、初めの内は表情の変わらない彼をこの地の民は怪訝そうに見たものだ。今では彼らが慣れたことと、将来この地の主となるであろうリレイが麻辺を慕っているので「そういう人」という風に処理されている。
また、頻繁に館から出て男性陣の仕事を手伝いながら柔道を行う瀬良の方が人気があったこともあり(リレイはかなり不満である)、麻辺は地球の日本にいた頃とほとんど変わらない生活を送っていた。
「かんっじんな所でMP切れ起こした奴が偉そうに言ってんじゃねえよ!」
「エムピ? エムピってなんだか知らないけど馬鹿にしてるでしょ!」
「そこまでは分かるんだなーいやーびっくりしたわー」
「あああムカつく! ほんっとにアンタってムカつく‼ 『魔力』で吹っ飛ばしてやる!」
「じゃー俺ずっと麻辺といるわー、いーのかなーお前の大好きな麻辺まで吹っ飛んじまうぞー?」
「すっす……卑怯ッ! っていうかアサベさんだって殴ったり蹴ったりしてくるアンタより私といたいって思うもん!」
「……」
このいつも通りのやり取りに巻き込まれる気配を察知した麻辺は、そっと中庭から抜け出す。リレイの容態が安定するまで麻辺は館の中を散歩しており、その際に見つけ出した抜け道だ。
背中で自分のことを呼ぶリレイの声と、それに対して余裕の中に小さな後ろめたさを感じさせる瀬良のからかう声を聞きながら、麻辺は割り当てられた部屋に向かって歩いていく。