ようこそレアリムへ ※
前話回想、未成年飲酒
「……」
麻辺は不思議な感覚に満たされていた。臍の奥を引っ張られるような、頭頂部を起点に全身をぐちゃぐちゃにかき回されるような――まるで乗り物酔いが大蛇となり全身を這いまわり破壊していくような、そんな感覚である。
そして、これが夢なのか、それとも現実なのかも彼は分からなかった。死にゆく者が例外なく感じる洗礼なのでは、と思ったほどだ。なぜなら目はあけているはずなのに視界は真っ暗で、音も何も聞こえない。声を出そうと思っても出し方が分からず、四肢は動いているのかどうかわからなかった。
(あの人、死んだのかな)
独りの空間で麻辺は思う。現実だと断言できる状態で、最後に見た光景。
大きくその存在が確立していた人間が、四肢を折られた無力な子猫のように斜面を転がり落ちていったのだ。その身体が飛び跳ねるたび、彼は小さくなっていった。身体のかけらを地に残し、真っ赤なそれは青々とした木々の中に消えていく。
生命が力強く生きている証である一面の葉緑体の中、朽ちていくその真っ赤な軌跡は鮮烈だった。そこだけ色がついたように映えていた。
「別に……どうでもいい、か……」
麻辺は独り呟く。それは声になって出ているのか、それとも彼の脳の中での発言なのかは、誰も判らない。
麻辺の感じる不思議な感覚が強く、激しくなる。人として生きる神髄である脳に噛みつき、獣となって暴れるような――……
バチンッ、と頑丈な何かが一瞬のうちに引き裂けるような短く鋭い音が三人の耳に飛び込んでくる。次いで、人々の騒めき。薄暗く湿り気を感じる空気。警戒心と安堵。
「首……首が……」
瀬良が本当に弱ったように言葉を発する。それに対して周囲の警戒心が強くなった。
「……え? 嘘でしょう?」
そして、リレイの信じられない、という素っ頓狂な声。誰かが何かを叫び、その大きな音が一団から離れていく。
「えっと……あの、ここは……」
「嘘……嘘……! 私、帰ってきた! 帰ってこれた‼ 私、『役立たず』じゃないんだ!」
麻辺の問いに答える者はいない。明るく、歓喜に満ちたリレイの声が辺りにこだまする。
「あの、りれ、リレイさん……えっと、あの……こ、⁈」
「リレイ様!」
「リレイッ‼」
麻辺の声は規律を重んじることを感じさせる普段は冷徹であろう女性の熱のこもった声と、深く温かみのある男性の声にかき消された。ヒールのコツコツという独特な足音と、どたどたというその持ち主の体重を感じさせる足音も共にやってくる。
間もなく、麻辺の隣にいたリレイが恰幅の良い男性に抱きしめられた。既に四十は超えているであろう外見で、特に腹に余分な一人分の肉がついているような男性だ。立派な髭をたくわえており、裕福なことを示す衣類を身につけている。
そんな男性と共に来た女性は真黒な髪を後ろで引き詰めており、どこか固い印象がある。腰にサーベルを携え、今リレイに温かい目を向けているがそれでも決して警戒を解いていない。
「お父様、もうやめて! 私、生きています!」
リレイは目の前の男性――彼女の父にそう抗議する。熱烈な抱擁は受け入れ、両頬へのキスも微笑みを浮かべていたがいつまでたってもそれを繰り返す父にそう言うしかなかったのだ。
「あぁよかった」
娘からの抗議を受け入れた彼は、最後にもう一度キスをするとやっと彼女を離した。
「つい昨日、お前の戦死報告が……死体は指の先すら残らなかったと。それでリンダも寝込んでしまうし……よかった。本当に良かった」
「戦死? は? 戦死って……マジで戦ってんの?」
リレイの父の言葉に口を挟んだのは瀬良だ。そこで初めてリレイの父は自分の娘の他に二人の人物が一緒にいたということを知ったらしい。
「君は?」
「お父様、やめて。まずはお屋敷にその二人を。休ませてあげて。アサベさんは……その、セラさんも……彼らは私を助けてくれたの。命の恩人だわ。行き倒れていた私を助けてくれた。話を聞いていると三日は何も口にしていないの。だから……」
「本当かね?」
「はい。だから、おとうさ」
「それは大変だ!」
娘の言葉を受けて彼女の父が叫ぶ。彼は大きく分厚い両手を一度打ち付けた。パァンと、この世界中に響いたと錯覚する位それは大きな音で、まわりはしんとした。彼の体格も相まって塵手水のようなそれは、今から発される彼の言葉を待つような静寂をもたらす。
「エニメフ医師を館に! それから三日の休暇を出してしまったコックを大至急叩き起こしてくれ! A班は寝室の用意、B班は担架を! C班はエニメフの期待以上に医薬品を!」
「いやいやいや待て待て待て待て! なんか口から出てんぞおっさん!」
「っ……あの、だ、大丈夫ですかっ? ……今、そんなに寒くないからあの、あなたも熱が……あの……!」
瀬良と麻辺がそう指摘するのには理由があった。
リレイの父が指示の言葉を発する度、彼の口から霊体のような、白く透き通ったものが飛び出していったのだ。寒い日に息を吐いた時のそれとは似ているが、しかしリレイの父の口から飛び出るそれは意思を持っているように、そしていつまでも消えることなくそれぞれが独立してどこかへ飛んでいくのだ。
そんな二人の指摘を受けたリレイの父は、本当に気の毒そうな表情を浮かべた。
「あぁ、栄養が足りていないようだね、君達。無理もない……三日も飲まず食わずなんて。おぅい誰か、彼らに気つけを!」
リレイの父が叫ぶ。
「いやぁまさか、君……瀬良君が気つ……酒が受け付けない性質だとは思わなくて。すまないことをした」
「……うるせえ……そのうち強くなんだよ……受け付けねえんじゃねえし……」
「あ……まあ、えっと……もしかしたらあの、疲れてるからかもしれないですし……」
「いやいや、飲めないことを考慮していなかった。私の失態だ」
「飲めたし!」
「……あ、あの……僕にはその、おいしい、です」
「そうかい、ありがとう。その酒を造った農園の持ち主に伝えておこう」
リレイの父――ギル=クロッシェンが「気つけ」と呼んでいたのは酒だった。このクロッシェンの地の特産であり、彼はそれに自信を持っていたのだ。
それを麻辺と瀬良の二人は酒と知らずに受け取った。木を彫って作られたとみられるカップには、とりあえず口を湿らせるだけの、大体一口分の黄金色の液体があった。喉が渇いていたこともあって二人は一気にそれを飲み干したが、瀬良はカップを置いた瞬間一気に顔を紅潮させ、ばったりと気を失った。
それと時を前後し三つの担架と一台の車――車を引いているのは、馬と山羊を掛け合わせたような外見の四つ足の動物だった――がやってきて、三人をクロッシェンの館へと連れていく。そして、リレイはまず母との再会に別室へと消え、麻辺と瀬良は大きめの客室へと運ばれ治療を受けた。エニメフ医師の診断では麻辺は栄養失調と左足の重篤な炎症、瀬良は首の捻挫と右手小指の骨折。二人に共通するのは水分不足とすぐさま休憩を要する疲労だった。
結果、二人は睡眠が第一の、そして最高の治療であると教えられた。瀬良は酒によって意識を失っていたから、麻辺は医師に眠ることを命じられた。秘薬であるという「シェラク」と麻辺が聞きなれない単語を調合したお茶を飲まされ、彼が眠りに落ちたのが二日前だという。
「しかし……《ニホン》という国は聞いたことないね。新興国でもないんだろう?」
「あぁ。二千年以上あるはずだ。なんつったっけ……『魏志倭人伝』? あと『日ノ本』『ジャパン』っつう別名もある」
「二千年? それは……それはおかしいな。古い国の一つであるこの《シンシェ》ですら五百年の歴史だ。最古の国の《ガイヴァ》でも八百年。おかしい……」
「いやいやおかしいのはおっさんだろ。そういや《シンシェ》って国かよ、聞いたことねえぞ。俺はいつの間に日本から出ちまったんだ? トラックにはねられると外国に行けんのかよ。つか、日本語通じてるじゃねえか」
「もちろんこの皇壌の《レアリム》という視点で見れば数千年、もしかしたらそれ以上の歴史があるだろう。だが、国で二千年というのは……ふむ。まあいい。それはこちらで調べよう。娘の命の恩人をただで返すわけにはいかないからね。
ではあらためて、ようこそ《シンシェ》随一の緑の領地クロッシェンへ! 困ったことがあったら何でも言ってくれ、この鈴に触れればメイドが来るからね」
ギルはそう言うと大きな手で麻辺と瀬良に握手し、笑みを浮かべながら部屋を出ていった。彼の大きな足音が遠ざかっていくと、部屋に残されたのは気まずい沈黙だ。
「……麻辺」
それがかなり長い時間続いたとき、不意に瀬良が麻辺の名を呼ぶ。
「え、……あ、はい」
「あれは……あの、お前が体当たりした……」
「……」
瀬良の言葉で麻辺は「それ」を思い出した。緑の中に映える鮮やかな赤。
「……あれは……まあ、正当防衛だろ。気にすんな……気にすんなよ。お前がああしなきゃ俺もガキも……たぶんお前も死んでたはずだ」
「……」
「……仕方なかったんだよ。どうにもなんねえ。あのデカブツ死んだとも限んねえし、本当に気にすんなよ」
「はい、まあ……解ってます。あの……はい」
「……ん。ところでさ、これはやっぱあれなのか? 日本じゃねえし、地球でもない感じか?」
「えっと……まあ、はい……たぶん。その、皇壌、《レアリム》、《ガイヴァ》……えっと、あの、僕も聞いたことなくて……。あの、あっう………瀬良君、あの……ここは……」
「……異世界か」
麻辺の言葉を瀬良が引き継いだ。麻辺はそれに無言で頷く。
「まあ……なんつうか、予感はしてた。お前とっつうのが心の底から不本意だけどな。本気で……はぁ。
つか、一つ確認させてくれ。その左足、もしかして事故る前に俺が引っ張ったせいか。変な音したよな?」
「……いえ。あー……別にあの、歩けなくなる痛みじゃなかったし……あの、歩いたのは僕ですし……」
「言えよそれくらい……。足そうなってんのに歩いてガキ背負って山登って……はあ……俺に言えるもんじゃねえか……」
「……」
「……悪かったな、色々と。ただ言っても意味ねえか……ねえよな……」
「えっ、あの別に僕、全然、あの……気にしてな」
「そういうの聞き飽きた……」
瀬良はそうつぶやくと、麻辺に背を向けた。麻辺はその背中を見て、今の彼に何を言っても仕方がないことを悟る。
そして彼もまた、たった一人の同胞に背を向けると、この疲れを癒すために目を閉じた。