はじまり ※
性的な罵倒(?)
「ほん……とに気持ち悪ぃな、オマエ」
「……あ、の……」
「あー、オマエの顔見てっとイライラするわー」
内容とは裏腹に間延びした、そして楽しそうな声と共に複数名の笑いがとある教室から漏れ出てくる。「2-4」という表示がされているそこは、本来ならば空き教室だ。少子化でただでさえ生徒が減っているのに、数年前近くにできた――とはいっても、この地域からはバスと電車それぞれに一時間は乗らなければならない――私立高校が、かなりの良い高校なのだ。おかげで長くこの地で多くの子供を送り出してきたこの県立高校は一気に衰退し、「名前が書ければ受かる高校」なんて言われる始末である。
経済的理由や通学に二時間もかけていられない、という理由でこの学校に進学する者も確かにいる。だが、数年で「名前が書ければ受かる高校」と言われるようになっただけあり、この学校は殆ど無法地帯と化していた。
「ほらほら、さっさとやっちまえよ」
「お前武井のこと好きなんだろ? 告んの恥ずかしいなら行動でだよなー?」
本来であれば校則で禁じられている茶髪や金髪の「いかにも」な生徒たちが、この教室でたった一人黒髪の学生にスマートフォンを向け輪になっている。
その輪の中心では一人の男子生徒が上半身はしっかりと規則通りに制服を身につけ、下半身は下着を残すのみの格好で立っていた。その下着もゴムは伸びきっていて、また薄汚れている。よく見ればきちんとしているはずの制服も毛玉や皺、ほつれなどが目立っている。肩まである真っ黒な髪も脂でギトギトし始めており、肩には細かな白い粉も散っている。
「あ、あの……えっと、僕は」
「ほらぁ、俺らが協力しようとしてあげてんじゃん?」
「感謝しなきゃだぜー?」
「え、いや、あの、だから……」
「ほら、武井のジャージだぜ? はは、そういや女子は今マラソンだっけ? ほら、『武井スメル』‼」
「ギャーッ‼ 目が、目があーッ……ッハハハハ‼」
「やっべこれは、これは! ギネスじゃんこれ、うわなんだ、物理学賞だろ!」
そんなやり取りが終わると同時に、輪の中心の男子生徒にあずき色のジャージが投げられる。自分より二回りは大きいそのジャージを顔で受け取った彼は、戸惑いの表情を浮かべながら周囲を見た。
「さっさとオナれよ」
彼の正面にいた、一際大きい体格の男子生徒が言う。脱色を何度もしたことが窺える長い金髪の奥から、スマートフォン越しにジャージを持ったままの男子生徒を見た。
「あの、いや……あの、……あ瀬良君」
「アセラクーン! お客様の中にアセラクンはいませんかー?」
「瀬良はいるけどアセラはいませーん!」
ドッと笑いが溢れる。そんないつも通りのバカ騒ぎを「瀬良」だけは笑みを浮かべながら見ているだけだ。正確に言えば、スマートフォンの画面から刹那も目を離さず、彼はその時を待っている。
「……あの」
「さっさとしろ」
「えっと、あの……僕がその、武井さんを……あの、好きっていうのは……あの、誤解で……」
「は?」
「あ、えと、あの、あのですね? あ……武井さんは正直……僕の好みでは……」
下半身をほとんど露出させられていることに対する嫌悪や絶望は一切見せず、ただ誤解を正そうとする態度でその男子生徒は言う。そんな彼の言葉への瀬良の返答は単純だった。
「知ってるけど?」
「つか武井が好みなのは豚だけじゃね?」
「獣姦~!」
「カネッチ! 豚が可哀想だろ! 豚だって選ぶ権利あるぞ!」
「あのさ麻辺?」
瀬良が輪の中心の男子生徒――麻辺の名を呼んだことで空き教室は静まり返る。
「俺はお前に武井でオナれっつったんだよ。あのブタがどうとか関係ねえ。『お前が、武井で、オナれ』」
言い聞かせというには冷たく、そして苛立ちを含んだ声で瀬良が言う。普通の人であればどうにかしてこの場を切り抜けられないか、顔色を蒼白にして頭をフル回転させているだろう。その回転も堂々巡りの無意味なもので、どうにか教師がこの場を見つけてくれないか祈り始めることになるはずだ。
だが、麻辺は違った。相変わらずジャージを手にしたまま、不良という人種に周囲を囲まれた絶望すら感じさせない様子でただ立ち尽くしている。あるのは恐怖ではなく、戸惑い一つといった様子だ。
そんな麻辺の様子に、周囲はいら立ちを見せ始める。
あわや暴力沙汰か、そんな雰囲気まで陥ったその時、無機質な電子音が教室に響いた。麻辺を除く全員がぱっと顔を上げ、揃って壁に掛けられている時計を見た。それは午後五時を示している。
「は? 五時? バイトやべーもうバックレるわ」
そんな誰かの一言が、この集会の終わりの合図だった。誰ともなく解散しはじめ、教室から出ていく。
「いいのかよ」
「いいし、コンビニなんて底辺だろ。わざわざバスで行くまでもねぇ」
「お前だって底辺じゃん。お似合いだぜ?」
「いやいや全然似合ってねーわ。次なにすっかなー」
「AV男優いいんじゃね? 毎日ヤりまくれんじゃん」
「お、いいねー」
「な。『短小マゾの負け組魔法使い』なんてどうだ?」
「は? 殺すぞお前」
「うるせえ性病で死ね……っと、忘れてた、オラッ!」
「あ……」
一人の男子生徒が、この世で最も汚いもののように教室の隅に丸められていたスラックスを手に取ると、それを窓から校庭に放り投げた。それは言うまでもなく麻辺のものであり、彼は怒るでもなく泣き叫ぶでもなく、まるで授業中に机からシャープペンが落ちた時のような、そんな表情で窓を見ていた。
がやがやとした雰囲気が無くなり完全に一人になった静寂の中、麻辺はため息をついた。そして、何の躊躇もなくその空き教室から出ると、彼本来の教室である「2-2」まで平然と歩いていき、様々な落書きが施されている一つの机から鞄をとる。中身が無事なこと――ティッシュやお菓子の空き箱がたくさん入れられている――を確認すると、麻辺はそれを肩にかけた。そして、やはり躊躇なく廊下を歩き、そして下駄箱で踵が潰れ、ところどころ穴が開いている薄汚れたスニーカーを履く。
そして彼は頭の中で「2-4」とそこから物を落とした時にどこに落ちるかを考えながら、外に出た。
「……!」
「お」
「……こんばん、は」
「……おう」
既に太陽は地平線の下にもぐり、雲ばかりの空は月や星の明かりを地上には届けない。
そんな暗闇の中、二つの人影があった。
「風呂か」
「あ……あはい、はい、そうです」
「……」
麻辺は着替え一式を小脇に抱えていた。この地域の外れにある銭湯に行く途中だったのだ。
そして、もう一つの人影は大きなリュックを背負っている。
「あー……あの、瀬良君は……えっと、あの、アルバイト……です、か」
「なんでお前に言わなきゃなんねえんだよ」
「えっと、あの、あ、じゃあいいです」
会話の継続が見込めない雰囲気に麻辺が折れた。そのまま何事もなかったように通り過ぎようとするが、それは瀬良が許さない。麻辺の肩を掴むと、そのまま彼を引き寄せた。瀬良の右手の中で、麻辺の肩がゴキリと音を立てる。
「いいこと考えた。お前、おい麻辺。あそこでうまいもんパクってこい」
瀬良は顎でこの地域唯一のコンビニを指す。老夫婦が町とのかかわりのために始めたものである。
「え……それは、さすがに……」
「何お前、俺に口ごたえすんの?」
「あの、口ごたえっていうか……犯罪はちょっと、もう……」
「それが口ごたえだっつんだよ」
「あ、え……すいません。……あの」
「あ?」
「あの、なんか……いや、なんでも……ない、です」
ちらりと腕時計を見た麻辺が会話を打ち切る。そして軽い会釈をすると、彼は目的地である銭湯の方向へ歩みを進めようとした。
それを瀬良が阻む。彼は再び麻辺の肩を掴むと、話はまだ終わっていないというのを理解させるために思い切り引いた。麻辺はそれを予期しておらず、彼の左足首の骨がずれるような、そんな音と共にバランスを崩した。麻辺の身体は瀬良にぶつかり、瀬良はその衝撃がリュックの重さで逃がすことも耐えることもできず、転倒する。
折り重なるようにして倒れた二人のことを明かりが照らす。それもただの明かりではない。
怒号のようなクラクション。
地獄の刃を研ぐようなブレーキ音。
「あっ――」
「……あ……」
二人の身体は動かない。
青い顔をした運転手が必死にブレーキを踏みながら、早く動けというようなジェスチャーをする。
だがそれも、トラックの眩いライトの前ではすぐに見えなくなった。
――続いてのニュースです。
一昨日午後八時ごろ、○○県××町で発生したトラックの横転事故で重体となっていた運転手の男性が死亡しました。現場は見通しの良い道路で、警察は運転手の病歴を確認するとともに、勤務状況に問題がなかったかを調べる方針です。
また、××町では同日から○○県立▲高校の男子生徒二名が行方不明となっています。麻辺 勇一さん十七歳、瀬良 薫さん十六歳、二人とも高校二年生です。瀬良さんは午後七時半にアルバイト先を退勤したのが確認されており、警察は二人の行方を――