赤いカーネーションは追憶に供える
「ねぇシュネー。責任と義務って何だと思う?」
激しく雨が叩きつける大窓の前に椅子を寄せて、窓辺に行儀悪く頬杖をついたその人がポツリと呟いたのが、全ての話しの発端だった。
「私の兄上はね、責任と義務に自分と恋人の幸せを売ったんだよ。いや、違うな。私に、私という可能性に自分たちの幸せを犠牲にして未来を背負わせたんだ。迷惑な話だよね」
「……なんの話し?」
齧り付くようにして必死に取り組んでいた、縫い目がガタガタで一向に上手くならない刺繍から目を上げて、シュネーは憂鬱さを隠しもせずに呟いているレグンに顔をしかめた。
「うん? 私の一の兄上と、貴女の母上の話しだよ」
「何……それ」
「知らなかった? 私の国では割と有名な話しなんだけど。悲恋として脚色されて小説とか演劇にもなってるんだよ。でも、これで貴女と私が結婚したら続編辺りで私が悪役として登場しそうだな。それとも、本編に私が登場する解釈違いが出来るかな」
表面上は軽い口調を装っているものの、歪められた口元と僅かに皮肉を含んだ声色が、レグンの隠しきれない鬱屈を感じさせる。
見掛け上は釣り合った姿ながら、シュネーよりも何倍も生きているレグンは自分の感情を隠すのが上手い。
大抵の場合は、シュネーを気遣って負の感情を曖昧な笑みに隠してしまう。
そのレグンが感情を抑えきれないのには、きっと理由がある。
それを珍しいことだと思う以上に、そのドロドロして濁りきった感情に触れてみたいと思った。
「ねぇ、レグン。今日は何の日なの?」
針の付いたままの刺繍枠を傍のローテーブルに置き、シュネーは姿勢を正して婚約者の目を真っ直ぐに見つめる。
シュネーに見つめられて少しだけ我を取り戻したレグンは、気まずそうに視線を逸らそうとする。それを阻むように掛けられた問いに、レグンは反射的に顔を上げた。
その目が、驚きに見開かれるのを瞬きもせずにシュネーは見つめる。
力を込めた言葉で名を呼び、相手の意思を曲げさせて従わせることが、シュネーは得意だった。
それは生れながら女王になることを約束されたような力で、でもその力を振るえば相手との信頼も情も損なってしまうとシュネーは知っていたけれど、少々強引にレグンに口を割らせるためにその自由を奪う。
力を込められた言葉にレグンは体を強張らせ、胸元を抑えて僅かな抵抗を見せる。
「答えて、レグン。わたくしに隠すようなことではないでしょう? 違う?」
重ねられた問いに、レグンは諦めた様子で息を吐く。
受け入れられた瞬間に消え去った拘束に、レグンは困惑したような、ホッとしたような複雑な笑みを浮かべた。
様子を伺いながらゆっくりと歩み寄ったシュネーの腕を慣れた仕草で引いて、抱き込むように膝の上に乗せ、シュネーの肩口に顔を埋める。
最初は子供扱いされているようで嫌だったこの行動の意味を、シュネーは知っている。
どうしても話したくない、触れたくない種類の話題を話す時、レグンはシュネーに甘えて来る。ずっと年上の王子様の、案外可愛らしいこういう癖がシュネーは嫌いじゃなかった。
「……命日なんだ。一の兄上の」
ぎゅっとレグンの腕に力が込められるのを感じながら、シュネーはその腕をなだめるようにトントンと打つ。
予想出来ていたことだから、動揺を抑え込むのは容易かった。
それよりも、レグンが身に纏っている力の気配が揺らいでいることの方が気になる。
「一の兄上は、貴女の母上を失えば自分がどうなるかよく知っていた。それでも、貴族や民たちの圧力に屈してとある海運国家の姫君を妃に、貴女の母上は隣国の王妃に、という話を受けたと聞いているけれど、その頃この国を離れていたから、私は実際どんな状況だったのかまでは知らないんだ。ただ確かなことは、一の兄上は力に狂う前に、森に分け入って森の魔物を単騎で討ちに行った。そして、戻らなかった。一の兄上の気配が消えたのが11年前の今日。無残な状態で見つかった服の切れ端と剣、愛馬の遺骸から亡くなったと結論づけられた」
「……それで、第一王子のお名前を聞いたことがなかったのね。お母様も、一度もそのお名前を口にしたことがなかったから、生国のことなのに不思議だと思っていたの」
「死亡の経緯や状況が分からない場合、そういう術者の名前は忌み名になる。もし耳にする機会があっても、決して呼んではいけないよ」
レグンがいつになく聞き取りにくい早口で告げた言葉に、シュネーは目を見開く。
「森の魔物はこの国に住まう者たちの闇が凝って出来たモノだから、それに敗れた一の兄上は呼べば災いを成す存在になっている可能性があるんだよ。だから私は、私たちはその名を呼べない」
「……だから? わたくし、だからあの時あの森で魔物から逃げられたの?」
「そうかもね。私も正直かなり驚いているんだよ。今のあの魔物は、もしかしたら一の兄上の影響を強く受けているのかもしれないね」
だとしたら、彼の人は何を思うのだろう。
あの暗い森の奥深くで、抱くのは後悔か、憎しみか、それとも哀惜か。
人は時として、後悔と悲しみに満ちた決断を下す。
一時の感情で成されたものなら、その痛みを引き受けることも必然。
でもそれが、責任と義務に縛られたものならその痛みは誰が引き受けるべきものなのだろう。
そんな歪みを作り出した人物は、誰もがその苦しみも知らずに楽しげに生きているのに。
「私には、本当のところ一の兄上が何を考えていたのかは分からない。兄弟と言っても、互いに担うものが多過ぎてゆっくり話したこともなかったしね。第一、あの兄は口数が少なくて近寄り難かったんだ。一方的に敬遠していてあまり話したことがなかったのを、ずっと後悔しているよ」
「レグン」
レグンの声がいつもの穏やかさを取り戻したのを確認して、シュネーはそっと呼び掛ける。
「何?」
顔を上げたレグンが身じろいだ拍子に緩んだ腕を辿るように指先を這わせて、シュネーは笑みを浮かべる。
「わたくし、あなたの顔が見たいわ」
「え?」
「あなたの何かを堪えてる表情、結構好きなの」
息を吸ったきり二の句が継げなくなった様子のレグンに、シュネーはしてやったりと内心ほくそ笑みながら、注意して穏やかな笑みを浮かべようとして、失敗した。
思惑通り完全に意識を逸らすことに成功した上に、大抵のことには動じない年上の婚約者を翻弄していることに満足感を覚える。
「じゃあ、我慢しない」
不意に衝撃から立ち直ったらしいレグンに素早く体勢を入れ替えられ、そのまま口付けられる。
木の椅子が軋み、倒れそうになるのを膝と片腕で支えながら不自然な体勢で口付けるレグンの伏せられた睫毛が震えているのを呆然と見つめて、シュネーは慌てて目を閉じた。
いつになく長く激しい口付けから解放されたシュネーが乱れた息を整えながらぼんやりしていると、強く抱きしめられる。
耳に届く、早い鼓動。
胸に耳を当てて、じっと聞き入る。
こうしてここに存在している幸福に酔うことに、許しなど乞いたくない。
これが得難い幸福だとしても、この幸福を大切に育てていくことを祝福されるのを願ってはいけないだろうか。
「わたくしには、どんなあなたもちゃんと見せて。汚い部分も昏い部分も、この目で見てこの耳で聴いて、ちゃんと受け止めるから。わたくしもあなたに不都合なことも隠したりしないから」
「きっと私は、貴女が思っているよりもずっと沢山の穢れを吸って黒く汚れているよ。それでも、良いの?」
冬の空のような淡い色の瞳が、隠しきれない熱に潤んで烟っているのをじっと見上げる。
そこには取り繕っていないレグンがいて、その余裕のなささえ愛しい。
これが負けに繋がるなら、負けで構わないと思うほどに溺れている。
だって、同じような顔をした自分がレグンの瞳に映り込んでいるから、これはもう誤魔化しなんて効かない。
「もしも私が貴女を犠牲にしなければならなくなったら、その時は私のーー」
「そんな時は、既に自分で決着を付けているからそんなことは起こらないわ。わたくしはあなたの手をわたくしの血で汚したりしないし、わたくしの手もあなたの血で汚すつもりなどないもの」
にっこりとシュネーが微笑めば、レグンは微かに息を吐く。
顔を上げれば、レグンも笑みを浮かべていて、シュネーは心が温かくなった。
「それは頼もしいね。私の妻になる人は、そのか弱い身でいつでも私の全てを守ろうとするんだね」
「だって、レグンはわたくしを誰にも傷つけさせたりなんてしないんでしょう? だったらわたくしだって、わたくしの夫になる人の身も心も健やかでいられるように尽くすのは当然だわ」
勝気に瞳を煌めかせるシュネーを、レグンは愛しげに見つめる。
そしてレグンはシュネーの額に、そっと唇を寄せた。
「お母様」
森の外れにひっそりと、木々の隙間にポツンと立てられた墓石の前に跪いて、シュネーは静かに呼び掛けた。
「わたくし、結婚することにしたの。お母様が愛した方の、弟君と」
ポツリと呟くシュネーの声に応える声はなく、そこにはただ苔生した墓石があるだけで。
「わたくし彼には偉そうなことを言ったけれど、本当は怖いの。お母様の幸せと引き換えに生まれてきたわたくしが、あの人と幸せになることが許されるのか」
シュネーは頬を伝う涙を拭いもせずに、墓石に縋るように語り掛ける。
風が、手向けられた赤い花を撫でるように吹き過ぎて、シュネーの涙を散らす。
「わたくし、会いたいわ。お母様に会いたい。お母様のことを思うとこんなに胸が痛いのに、それでもレグンのことを想うと幸せでたまらなくて、胸の痛みなんて忘れてしまうの。だからもう、これ以上許しを請わないって決めたの。この痛みを越えて生きていくわたくしを、どうか見ていて。わたくしはお母様がくれた幸せの重みを、きっと忘れないと誓うわ」
涙を拭って立ち上がったシュネーの晴れ晴れとした頬を、風が慈しむように撫でていく。
「もう、良いの?」
「はい。……この先は、この墓所は朽ちるに任せることにしたわ。王妃としてのお母様は祀り続けることになるけれど、レグンのお兄様を愛した女性はきっともうここにはいないから、ここに来る意味もないと思って」
木の陰でディーネーの轡を取って佇んでいたレグンは、シュネーの言葉に頷いて、シュネーをディーネーに押し上げ、自身も背に跨ると森の中をゆっくりと歩ませ始める。
『雪の名を持つ娘よ、私はお前の幸福を祝福しよう。私はお前をこの腕に抱き、名付けたのだから』
不意に、風に乗って届いた声にレグンとシュネーは森の奥に蟠る闇を振り返る。
「エイモス兄上」
ポツリと呟かれた名前に応えるように、低く喉を鳴らす音が聞こえる。
しばらくそのままそこに留まって目を凝らしていたが、レグンはやがて諦めたようにディーネーを促す。
その表情はレグンの中で何かが決着ついたらしく、穏やかで心なしか明るくなったように見える。
その様子に、シュネーも自然と笑みを浮かべた。
「そっか。一の兄上は、シュネーのことを知っていたんだね」
「うん」
「そっか。……良かった」
小さく、噛みしめるように呟いて、レグンは柔らかな笑みを浮かべた。
その翌年からその日に雨が降ることはなくなって、レグンはシュネーに、とんだ雨男だと笑われた。