第3話
「あぁ、ひどい。こいつは悪夢だ。とびっきりの悪夢だ」
いつも通りの日常だった。
だがそれは今では遠い夢となって、夢は異常な現実となっていた。
普段と同じように家に帰って、同じように風呂に入って飯を食べて、深夜近くになったのでベッドに入って眠りについた。
なんてことのない平凡な日常が、不治の病のように明日もあるのだと思っていた。
「おはよう。いい夜ニャよ」
部屋に置かれた机の上に、鎮座する一匹のネコが話しかけてくる。
この悪夢に最初に現れたおかしなネコは、公園で出会った少女と同じようなカボチャのマスクを付け、コウモリの翼を背中に生やし、尻尾の先端が人間の掌と同じ形をしている。
そして何より、馬鹿げたことに人間と同じ言語で喋っている。
ネコに似ているだけで、この生き物は自分の知っているネコとは明らかに違っている。
そんなファンタジックなネコが存在していたら世界中に知らない者など居ないだろうし、客観的に考えるならば夢か俺の頭がオカシクなったのかのどちらかだ。
なら可能性が高いのはベッドに入って寝たのだから夢のはずだろう。
身体の五感がこんなにもハッキリしている理由は全く説明できないが。
「どうしたんニャ? こんなにも愉しい夜に招待されたんだニャし、愉しまなきゃ損じゃないかニャ?」
「招待って、いったい何を言ってるんだ? こんな馬鹿馬鹿しい悪趣味なお化け屋敷じみた外のことかっ!?」
「ふ~む?」
いつもと同じ自分の部屋で不気味なネコが尻尾の掌で頭部を掻きながら考え込んでいる。
ネコに話しかける俺自身も大分頭がおかしくなっているのだろう……窓から外を見た所為で。
酒瓶片手に歩くミイラ。仮面をつけて不気味な音楽を奏で踊る骸骨音楽隊。蝶のような綺麗な羽を持つ蜘蛛。逃げ回るこんがり焼かれた七面鳥や豚。それを追い駆ける狼男。骸骨犬と骸骨の飼い主。矢やナイフが突き刺さったままジャグリングを始めるピエロ。空に茨で縫いつけられた悪魔と結合した天使。
ツギハギだらけの夜空。針が異様な速度で逆転し続け、中央に鉄の処女が埋め込まれた時計塔。元は電柱だった捩れる木。ニタニタと見る者を嘲笑うリンゴの形をした炎のような三つの目を持つ月。
家と思われる建物の外観は骨だったり生物だったり、果物だったり武器であったり。挙句の果てには歪な形をしてどうやって立っているのか全く理解できない建物さえある。
普段から見慣れた家屋、お隣さんの家でさえイビキをかく巨大な顔が付いている。
霧に包まれて遠くまでは見えないが、外はホラー色の強いファンタジック世界へと変貌していた。
「悪夢だ。そうとしか言えないだろうが……こんな、こんなふざけた世界……」
あまりにも酷い現状から目を逸らしたくて、布団を頭から被って視界を覆う。
寝直せばいい。そうすれば昨日と同じ何の変哲もない退屈な日常が待っている。
そもそも何故俺がこんな目に遭わなきゃならないのか………あのネコなら知ってるのか?
体温によって暖められた布団から顔を出した直後―――
「ハァアアアアアアアアッ!!」
――――視界全体に広がるフリルがついた服と飛び散る窓ガラス、何故か最後にやってきたのは竹箒。
よく見えなかったが誰かが足蹴りで窓ガラス割ったように見えたが、ここは二階だ。どうやったら飛び蹴りで入ってこられるのか?
「そいやっ」
侵入者は空中で一回転して壁を蹴って床に着地し竹箒を肩に担ぐ。
そして“ボフゥン”と煙が竹箒を包むとロケットランチャーに様変わりする。
「トリック・オア・トリート。お菓子くれなかきゃイタズラするぞ♪」
侵入者はロケットランチャーを突きつけて、まるで小粋なジョークを言うような気軽さでイタズラでは済まない脅しにかかる。
思わず両手を挙げるのは仕方が無い。こんな非常時の対応など平凡な高校生が知っているワケがない。
むしろ今になって飛び込んできたのが魔女の服っぽい物を着た女の子だと気付いたほどだ。
大体見た目からの印象では自分と同い年くらいの女の子。しかし淀んだ目で俺を見据えてトリガーを引き絞るのは同い年とは思えない仄暗さを感じる。
「3秒前! 3! 2! 1!」
「ちょ、ちょまっ」
突然にカウントダウンを始める彼女に、何を言われたのかなどすでに記憶の彼方に飛んでいる。
慌てる俺を何の感情も見せない瞳で冷静に見つめるのが薄い茶髪の隙間から見えてしまい、さらにテンパリ始める俺を救ったのは机の上から俺の頭へと跳び移ったネコだった。
「ハッピーハロウィーン、ニャ」
尻尾の手から彼女に見せるのは昨日俺が買ったクランチチョコ。
ハロウィンだからかカボチャ味という新商品として販売されていたのを気になって買った物だ。
無言でチョコを一瞥したあと、彼女は凶器を箒へと戻してネコからチョコを受け取っては口に放り込む。
ゆっくりと彼女が租借するなかネコは”てしてし”と小さな前足で俺の頭を叩く。
「大丈夫ニャ? まさか、ちびったニャ?」
「……ぎ、ギリ大丈夫だしっ。何が起こってるのか理解できないだけだしっ!」
「にっぶいニャ~。命懸けの遊技会ニャよ、ようは」
「だからっ! それじゃあ解らないって」
「そもそも、言ったところで理解できる訳がニャい。理解できたとしても、今度は納得できないだけニャ。諦めたほうが早いニャ?」
ネコは尻尾でチョコレートの包装を器用に取って口に放り込みながら、達観した老人のようなことを言う。
確かに、現状が現実だとした場合理解の範疇を越えている。
これはそういうモノなのだと、諦めてしまったほうが楽かもしれない。
けど今の現状を夢だとしても、見なかったことには出来ない状況らしいのは窓をぶち破って現れた彼女が証明してしまった。
「何がどうなってるのか、全く解らんけど……俺は元の現実に戻りたい。こんな頭がおかしくなりそうな場所に一秒だって居たくない!」
「なんでニャ? 面白くて、愉快で、痛快で、死んでも遊べる場所ニャよ? 腹が捩れて千切れるまで笑い転げててもいい場所ニャ」
「そんな奴に、俺が見えるのか?」
「そんな奴に、させる場所ニャ」
口角を上げてニヤリと笑うネコ。
底冷えさせるような冷たい言葉と、最も面白いジョークを語るような口調でネコが告げた直後、一発の銃声と一緒にネコの頭部を吹き飛んだ。
何が起きているのか理解するのさえ無理になりつつあるのに、さらに追い打ち気味の銃声とベッドに崩れ落ちるネコの身体。
欠損した頭部は木っ端微塵となり、首から溢れ出るのは甘い匂いを放つチョコレートに似た黒い血液。
撃った犯人を見ると、先程とは打って変わって目の色に生気と殺気が宿った彼女の姿。
「な、にを」
「そいつの話に耳を貸さないほうがいい。詐欺師の話に耳を貸すのは愚考」
「はぁ?」
「馬鹿そうな貴方では騙されるのは目に見えてる。だから助けた」
「なんで唐突にディスられてるんだ、俺……というかキャラ変わりすぎ」
彼女はネコの死骸を掴むと、自らが飛び込んできた窓から投げ捨てる。
放物線を描いて死骸は道路へと落下するのを見届けた彼女は、一つ大きく深呼吸をして俺へと向き直る。
「それで貴方は何者? なぜこの場所に来てしまったの?」
「そ、そんなの俺が訊きたいわっ!? 起きたらこんな場所だったんだ」
「寝る前に怪しげな儀式などは?」
「する訳ないだろっ。占いなんて統計でしかないっての」
「……なら普段と変わったことは?」
普段と、変わったこと。
一年に一度の祭りのことだろうか? 幼馴染との話は関係ないだろうか? それとも……あの公園で出会った少女のこと?
昨日あったことを思い出した端から話していると、公園で出会った少女の話をしたとき、一目でわかるほど彼女の表情が不愉快を現し、目で射殺さんとばかりに鋭くなった。
「貴方はよっぽどのバカで脳天気。危機感というのを母親の子宮に忘れてきたの?」
「んなっ!? そこまで言われることじゃないだろ!」
「一緒のベンチで凶悪で獰猛な野獣染みた殺戮魔とお菓子を食べ合うような命知らずを他に何て言い表せばいい? ぜひご教授願いたいのだけど」
「はぁ? なに言ってんだ、アンタ」
何一つとして理解できていないのが解ったのか、彼女は大きく溜息を吐くと吐き捨てるように告げた。
「貴方が遭ってしまったのは『ゾーグレア・ハロウィン』。彼女の異名は数知れない。史上最悪の魔法使いにして世界的大犯罪者。一夜にして世界の半分の生命を殺した者。幽霊船『ナグルファム』の船長で……この狂った世界の創造主よ」
死刑宣告を告げる裁判官のように、致命的な言葉を投げられた。
もう理解できる気がしないのは人間としての生存本能なのだろうか。
頭を抱えたくなる、というよりも実際に頭を抱えて沈黙する。
魔法使い? 世界的大犯罪者? 創造主?
なんだそれは。どんな中二病を拗らせた設定だ。そんな奴が存在する訳がないだろうが。
だが今見える世界はどうだ? 何か何まで意味不明にして非常識。
現実という安寧の時間が終わりを告げた狂気乱舞のどす黒い暗黒世界。
これが夢か現実か、それとも自分の頭がおかしくなってしまったのかすら判断できなくなりそうだった。
時間の感覚すら遠く感じ始めたとき、突然のチョップが頭に落ちる。
「いっったぁあ!?」
「大袈裟。加減したのだから痛みなんて大したことない」
「……そうかよ。あぁ、クソ。クソッタレ。どうして俺がこんな目に」
「愚痴を言っても意味なんてない。ならこれからのことを考えるほうが建設的」
「これから? ははっ、何が出来るっていうんだ。あのネコの言う通りこの世界を愉しめって?」
「そうしたいならすればいい」
「冗談じゃない。悪趣味だ、御免被る」
今ならよく解る。自分がどれほど怠惰と安息に満ち満ちた、あの退屈な日々を心の底から愛していたか。
あの日々に戻れるなら将来に向けて必死に勉強もしよう。他人に関心と意欲をもって接しよう。時に本気でケンカをするくらい家族を大切にしよう。
祈るように過去の自分を省みていると、彼女が部屋を勝手に漁り始めているのを見つける。
机の引き出し。小型の冷蔵庫の中。クローゼットの中。部屋の隅々まで何かを漁っては最後に何かを部屋に置いてあったバッグに詰め込んだ。
「おい、何してる」
「物資の補充。大丈夫。キミのお宝はゴミ箱に残しておく」
「ぬおいっ!? 人様の部屋を勝手に荒らして何て言い草だよ、この盗人は!」
彼女が無造作に投げ捨てた『お宝』が蝶のように優雅に宙を舞い、ゴミ箱へと綺麗に叩き込まれる。
あの日の羞恥心とドキドキ感と共にレジへと持っていき購入した思い出の品は、まるで汚らわしいゴミを見るような目で彼女に次々と処分されていく。
「雑誌だけじゃなくマンガや小説まで持っているとは……流石は男子。そのバイタリティーがあれば生きていける」
「う、うっせぇえええっ! っていうか、そのバックに詰め込んでんのはどう見たって菓子類じゃねぇか! こんな場所でも頭の中はスイーツなのか女子ってやつは!?」
彼女が持つ俺のバックにぎっしりと詰め込まれたお菓子。
バックもお菓子も俺が買ってきたものなのに、何食わぬ顔で奪っていこうとするなんて、女子とはこうも恐ろしい生き物だったのか。
「違う。これは精神安定剤に等しい物資。貴方の性欲と一緒にしないで」
「嘘つくな、食欲だろうが」
「貴方は全く解っていない。さっきのことも覚えていないなんて」
「さっきのこと?」
「追加で言うなら『お菓子』というキーワードを含める」
その言葉でひらめくのは先程の窓から吶喊してきた襲撃者にネコがお菓子を渡す光景だ。
「そ、そうだ。お菓子を食ったあと突然あんたは豹変した」
「私は自分を取り戻した。豹変した訳ではない。断じてない」
「自分を、取り戻した?」
言動から理解できていないことを察した彼女は「詳細に言う」と言ってから溜息を吐いて説明をしてくれる。
「まず第一に私はこの世界の住人ではない」
「じゃあ起きたらこの世界に?」
「貴方とは違って随分前のこと。そして多分、貴方とは違う世界から来ている」
「なんでそんなこと言い切れる?」
「部屋を見れば分かる。調度品や衣類で知らないものがある。この光源もそう」
彼女が人差し指で指すのは天井につけられたLED電球の電灯だ。
ごく一般家庭でもあるものなのに、彼女は知らないという。
「そんなバカな。さっきロケラン構えてたじゃないか。あんなものがあった時代なら電灯ぐらいあっただろう」
「電灯? 明かりならガス灯が一般的」
「いつの時代だ」
「言ったところで理解できないし、私も聞いたところで解らない。全く違う生き方を互いにしてる。違う?」
「……まぁ、そうかもしれないな。ガス灯なんて観るのすら稀だし」
魔法なんて科学が一般的な世の中であり得ない言葉だ。
フィクションなら一般的なのだろうが、現実というモノはそんな都合のいいものはない。
だが彼女が真面目に喋っているところを見れば嘘は吐いていないように思える。
なら聞いたところで全く理解できないだろう。
聞いたところで、何でそうなるのかと疑問に思うだけで終わるだろう。
「解った? それじゃ」
「ちょい待てっ! なに窓から飛び立とうとしてる?」
「この場所に留まっても仕方がない。死にたがりに付き合う気もない。変態」
「…………死にたがり?」
「外を見て」
「ん? なにを……いっ!?」
彼女が指さすのは外の、家の庭だった。
門を破り、庭へと夥しいまでの怪物たちがひしめいている。
ゾンビ映画ですら見れないほどの多種多様な怪物たちが、この家の中へと侵入しようと躍起になっている。
「な、なんじゃこりゃあ」
「死者の行進。いつだって死者は生者を仲間にしたくて仕方がない。綺麗なモノを汚したい。男の貴方なら解ると思うけど」
「……俺もゴミ箱行き決定か。あんなのと一緒にされるのは絶対に嫌だ。助けてくれ」
「なぜ助けなければならないの?」
「はぁ?」
「メリットがない。デメリットはあげればキリがない。何か疑問がある?」
「他人が、困ってるんだぞ?」
「困ってる他人なんて私の世界にごまんと居た。貴方の世界には居なかった?」
「それは居た、けども。でも助けられるなら助けるのが普通っていうか」
「貴方自身がそんなこと考えているようには見えないけど。それに助けても外に出るということはあの怪物たちと対峙するということ。意味、解る?」
「ここに居てもあの怪物たちに襲われるだけだ。だったら一秒でも長く生き残れる道を選ぶことが悪いことか? 俺は死にたくない」
理由なんてシンプルだ。死にたくないからだ。
それ以外に何がある? 格好良く化け物たちと戦う? そんなイケメンなら夜に部屋で不貞寝する訳がない。
カッコイイ理由がある訳じゃない。
彼女を一人にするのが心配だとかそんなこと心底思ってない。
魔法を使えるような人物だ。こいつに付いて行けば少しは生存率が高そうだとしか思っていないクズ野郎だ。
それが何だ? 綺麗事で世の中は廻っていない。
みっともなく逃げ回って生き残れるなら手段なんて選ばない。
そもそも手段を選べるほど一般市民は強くない。特に、協調性のない俺は。
「アンタに縋り付いてでもついていく。俺は死にたくない」
「迷惑。けど、そこまで言うなら貴方には付いてきて貰う」
「本当か?」
「理由はある。この世界は貴方の世界を基準にして狂っている。私の知らない物もある。それを教える。つまりギブアンドテイクの関係」
「お、おう」
「解ったなら早く箒に乗って。時間がない」
時間がないとはどういうことなのか確認したくもない。
もしかしたら、残す砦がこの部屋だけなのかもしれないなどと確認する勇気はなかった。
「しっかり掴まってて」
「あっ、あぁ」
箒に跨がり、意外と細い彼女の腰に腕を回す。
どのぐらいの速度が出るかなんて気にしてられない。
なぜなら部屋の外が騒がしくなってきていたから。
箒が外へと飛び出すのが先だったか、それとも部屋の扉が開け放たれるのが先だったかは判らないが、これが不気味な冒険の始まりとなったのだ。