タイトル一文字。 同音異字から連想する物語、あいうえお順に書いてみた。
「は」 -歯・葉・波-
は行
ガムを噛んでいたら歯の詰め物が取れて、久し振りに歯医者に行った。
雑居ビルの一室に置かれた歯医者はすごくキレイだ。
待合室も居心地がよく、恐怖心を煽る歯を削る音を聞くことはない。
ほのかにアロマも焚かれてウトウトと寝てしまいそうだ。
「羽田野さん、羽田野美波さん」
と、受付の人が呼ぶ名前にびくりとして、睡魔が差し伸べた手をひっこめた。
ハネダミナミ…羽田野美波と頭の中で勝手に漢字変換された。
ミナミといったら、ひらがなか、南が浮かんじゃいそうだけど、
ハタノミナミは美波だ。
羽田野美波。
引っ越したばかりのアパートのポストにこの名前の郵宛の便物が何度か届いた。
おそらく前に住んでいた住人が、転居手続をすぐにしなかったんだろう。
ダイレクトメール等の有効期限のあるものは、何も考えず捨てるのだが、
捨てるに捨てられず部屋の壁に貼ってある手紙が一通ある。
美しい波打ち際の写真で作られた絵葉書。
あたしは羽田野美波と呼ばれた人を見た。
三十代前半ぐらいか、どこか儚げだが芯の強そうな印象がするすらりとした美人。あたしが来た時にちょうど治療が終わったのか、中から出てきて向かいのソファに座っていた人だ。
みなみでも南でもない、美波だ。
あたしは自分の漢字変換に妙な確信を得た。
青い海に寄り添うように砂浜との間で波が太陽光を反射して光っている。
まるで美波という名を表しているかのような写真。
あたし宛ての葉書だったらいいのに、と少し嫉妬したくなるくらいキレイな葉書だった。
差出人は男性だ。
ただ「元気で頑張っている、よかったら連絡下さい」と携帯番号が書いてあった。
その短い文に、男性側は美波に好意を寄せている姿が読み取れた。
さりげなさを装ってるけど、必死に書いたラブレターかもしれない。
勝手な想像はあたしの胸をキュンとさせた。
しかし、美波には届いていない。
勝手な想像が切ない展開を創造して、お節介な気持ちが生まれてくる。
この番号に電話して葉書が本人に届いていないことを伝えた方がいいかと思ったが、伝えたところで2人が連絡を取り合えるわけでもないのでやめた。
男性側にあたしが何かをしても解決しないことに気づいて、あたしにはどうすることも出来ず、絵葉書としてキレイで気に入ったので壁に貼っておき2年がたった。
その後、羽田野美波あての郵便物も届かなくなったし、この葉書の人も連絡が取れたに違いないと納得していた。
しかし、羽田野美波に会えたのなら、この葉書届けたいと思った。
もしもこの男性と一緒にいるなら、2年前の自分からのタイムカプセルみたいだし。
会いたくもない相手なら捨ててくれちゃえばいいし。
あたしは受付とのやり取りに耳をそばだてた。
「次のご予約は」
「金曜日の6時で」
「金曜日の…6時ですね。はい」
金曜の6時にここに来れば、また会える。
悲しいけど金曜の夜に予定のないあたしは、羽田野美波に再会するために自分の次回の予約を金曜の7時にとった。
そして金曜の夜、あたしは早めに来て、治療を終えて出ていく羽田野美波を追いかけエレベーターを待
つ彼女に声をかけた。
「あの、羽田野美波さんですよね」
「はい……」
「もしかして、図書館の裏にあるアパートに住んでました?」
「え?」
羽田野美波は、答える必要があるのかという戸惑いの表情を浮かべた。
この個人情報保護が厳しい世の中でいくら女性でも不仕付けな質問だったか。
「あの、今、わたしそこに住んでて、羽田野美波さんあての郵便物が届いて。
先週もここにいましたよね、それで名前呼ばれているの聞いて」
あたしは怪しまれないように必死に自分が声をかけた経緯を説明した。
必死さが伝わったのか、美波はやや営業じみた笑顔でニコリと笑った。
「住んでましたよ」
「やっぱり、あのこれ、2年前だけど届いてて」
あたしは写真の面を上にして絵葉書を出した。
彼女は笑顔を保ちながら受取った。
葉書を裏返してその笑顔は種類の違う穏やかな微笑みに変わった。
「…ありがとう」
「え?」
「届けてくれて、これ、私宛の手紙です」
「よかった。でも今さら…ですかね。もう連絡ってたり?」
「この人、去年亡くなったの」
「え…」
「自殺だった」
あまりにも重い展開になんて言っていいか分からず、あたしは黙った。
「なんで、辛くなる前に何にも言ってくれなかったんだって……」
葉書を見つめて彼女は押し黙った。
エレベーターが来てしまったが見送った。
「……私が受け取らなかっただけだったんだ」
あたしが想像できるほど簡単な関係じゃないんだろうけど、長年相手を責めていた問題の責任が自分にあったことに気づいてしまった…そんな感じがした。
ああ。余計なことしたかな。
羽田野美波は、気まずそうにするあたしの手を取った。
「ほんとうに、ありがとう」
「え」
「ありがとう」
彼女は涙をこらえる笑顔で手をほどき、
あたしに背を向けてもう一度エレベーターのボタンを押した。
泣くのを必死でこらえてて早く一人になりたいように見えたのであたしは歯医者に戻った。
詰め物がとれた歯は少しだけ虫歯になってた。
羽田野美波にとって葉書を持ってきたあたしは、詰め物をとったガムみたいだ。
蓋をしていた昔の傷を開けてしまった。
けど、蓋をしたままもっと深い傷になるのを食い止めたのかもしれない。
あたしは、そう思うことにした。