9
私は大きな欠伸をした。
暖かい午後の日差しはどうしても眠気を誘う。どれだけ眠っても、この睡魔という奴は容赦がない。美味い食事を摂ったあとならなおさらだ。
最近は無駄な縄張り争いもメスの奪い合いもなく、平和な日々が続いている。こうやって飯をたらふく食って日向ぼっこを繰り返していると、自慢のスタイルが崩れていきはしないかと心配になってしまう。
「おや、まあ」
背後でミサエが甲高い声を上げた。縁側に椅子を持ってきて、新聞片手に私と日向ぼっこをしているのだ。
「猫まで殺してたのね、この犯人。恐いわねぇ」
どうやら七人目の飼い主の一件が新聞に載っているようだ。あれから数日経つが、ミサエは一体いつの新聞を読んでいるのだろう。人一人死んでいるのだから、翌日にはどのニュースもあの一件で持ち切りになたのではないのだろうか。
すぐ近所であった大きな事件ということで、ミサエは関連した記事をまるで独り言のように声に出して読んでいる。おかげで、あの男の仕出かしたことの細部を私は知ることが出来た。
「女の子に振られた腹いせに猫に毒を盛るなんてねぇ。あんたは大丈夫だったの、ニャンチャン」
私は寝転んだまま、尻尾を振ってそれに応えた。
危うくその毒を盛られて死んでいった猫たちの仲間入りするところだったなど、ミサエは知る由もない。野良猫がどれだけ殺されたところで、新聞沙汰になる筈もない。一歳に満たない三毛だったとか、黒ぶちのオス猫だったとか誰もそんな情報を求めていない。だから私があのとき、そのままあの毒で死んでいたとしても、きっとミサエは私が死んだことを知らないまま、私を待ち続けていたのだろう。
ミサエから聞いた事件の顛末はこうだ。
マエヤマサトル――これが元飼い主の名前らしい。あんなことがあって、ようやく名前を知ることができるとは皮肉だ。
マエヤマサトルは二十八歳で無職。どうりでいつ行っても部屋にいるわけだ。調理師の勉強していたが、挫折して毎日引きこもっていたらしい。
その男が隣人であるキヨタサエコと出会った。彼女は二十歳の大学生。マエヤマサトルは彼女に好意を持ち、少しずつ交流を深めていった――。
だが、それはマエヤマサトルの独り合点だったようだ。想い合っていると勘違いしたマエヤマは彼女に交際を申し込む。もちろん、彼女にその気はなかった。単に親切な隣人としてしか見ておらず、友人以上の存在になどなり得なかった。いや、ひょっとすると友人としても見ていなかったのかもしれない。部屋に上がりはするが、それは私という存在があっただけで、彼女にとってはそれ以上でもそれ以下なかったのだ。
交際を断られただけでなく、それから彼女はマエヤマサトルのことを避けるようになった。ちょうど私が彼の所へ行っていない時期だろう。あからさまな彼女の態度がマエヤマサトルの心を蝕み、やがて彼を豹変させた。
こちらを振り向いてくれない彼女への苛立ちを、マエヤマサトルは野良猫へぶつけた。ネズミ捕り用の毒を自分なりにアレンジし、その辺の野良猫たちへ食べさせていたのだ。もしかすると彼女を引き合わせた私に食べさせるための実験だったのかもしれない。
そして、彼の狂気は野良猫だけに留まらなかった。
抑え込みきれない感情は、やがて爆発する。
彼女の帰宅を見計らい、マエヤマサトルは彼女を無理やり部屋に引き込んだ。必死に抵抗するが、いかんせん体格に差があった。叫び声を上げる暇なくサエコは部屋に押し込まれ、そして暴行を受けた。事が済み、落ち着きを取り戻したマエヤマサトルに対し、サエコは罵詈雑言を浴びせた。
当然だ。彼女にはその権利がある。凌辱されたのだから、それくらいでは足りないくらいだ。
野良猫でもそこまでしない。選ぶ権利はメスにあるのだ。オスの風上にも置けない屑な行為だと思う。あんな人間に食事をもらっていたなど、私の野良猫人生において最大の汚点である。
サエコの涙交じりの暴言にマエヤマサトルは激昂し、彼女のか細い首を絞めて殺した。殺すつもりはなかったと供述しているようだが、理性を捨てた時点で彼は人の道を外したことになる。今更取り繕ったところでなんの意味も持たない。野良猫の私が言うのなんだが。
そしてマエヤマサトルは彼女を水を溜めた浴槽に浸し、何日も家を空けた。ネットカフェとやらで寝泊まりし、そこで遺体の処理について色々と調べていたらしい。
私はその間、冷たい水の中で寂しくつらい思いをしているサエコの前で過ごしていたのだ。
そしてあの日。
警察は私の七番目の飼い主を逮捕した。
どうやら警察は早くから彼をマークしていたらしい。猫にエサをやっているところを近所の人間が目撃していて、不審者として通報されていた。それにサエコと連絡が取れなくなった友人や両親から警察にも届け出があったようだ。そしてマエヤマサトルの行方を捜していた警察は、帰宅する彼を待ち構えていた。警察は話を聞くつもりだったのだが、私との格闘で室内はちょっとした騒ぎになっていた。そしてそこへ踏み込んだ警察は、サエコを発見したのだ。
「女に振られたくらいで殺すことないのにねぇ」
ミサエはため息交じりに言った。
「あんたはモテそうだからこんなことなさそうやねぇ、ニャンチャン」
私は欠伸でそれに応えた。
なにを当たり前なことを言っているのだ。メスの発情期に私が通りを行けば、向こうから寄ってくる。靡かないメスを追いかけて傷付けるなど考えられないことだ。あの男――マエヤマサトルは本当に大馬鹿野郎だ。
私は立ち上がり、縁側から降りて庭に出た。ミサエが、またおいでねと言った。
――また来るよ。
尻尾をピンと立て、ブロック塀に飛び乗ると、私はミサエの家を後にした。
どうなることかと思ったが、平穏な生活に戻りつつあった。まったく、妙な諍いに巻き込まれたものだと。改めて思う。危うく命まで落とすところだったのだ。ミサエの家の縁側で、どうにか気持ちを落ち着かせ、ようやく他の飼い主の所へも顔を出せるようになった。
時々、あのアパートへ行ってみるかとも思うが、意識的にあの場所を避けていることに気付く。明らかに私の散歩のルートが、変わってしまっていた。
なぜあの場所を避けるのだろう。
殺されそうにになったから?
飼い主だと思っていた男がとんでもない犯罪者になってしまったから?
行っても食事にありつけるわけではないから?
どれも違う――のだろう。
サエコの笑顔を思い出してしまうからだろうか。猫好きだったばっかりに、私やマエヤマサトルと接してしまった彼女。そのせいで彼女は死ぬ羽目になってしまった。
いつか、彼女の部屋だった場所へ行ける日がくるのだろうか。
そのときはきっと別の人間が住んでいることだろう。もちろん、隣の部屋も。
誰かも知らない人間が住んでいるとしても、私はあの場所へ戻ろう。
そして彼女を悼み、鳴き声を上げよう。
せめてもの弔いだ。
庭先にいた飼い犬が私の姿を見つけるなり勢いよく吠えてきた。私は紐に繋がれた彼をよそに、目の前を素知らぬ顔で通り過ぎる。
――今日はどこで眠ろうか。
私は黒毛で四肢の先だけが白い、六人の飼い主を持つ野良猫である。