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野良猫と七人の飼い主  作者: 益次郎
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 細く伸びた指には見覚えがあった。私の体をやさしく愛撫してくれた心地良い指に違いない。

 私は浴槽の淵に飛び乗った。細い淵はよく滑り、危うくバランスを崩しそうになったが、うまく踏ん張りを効かせた。浴槽には水が張られ、肉球に冷たい水の感触を感じる。よくこの水溜りの中に落ちなかったものだ。

 ホッとしたのも束の間だった。

 水の張られた浴槽の中に沈んでいたもの。それに気を取られてしまって、私の自慢の尻尾は水溜りに浸かってしまっていた。

 よく知っている顔。いや、知っていたはずの顔だ。

 サエコの変わり果てた姿がそこにはあった。

 焦点の合っていない目を見開き、黒い髪は水草のように揺らめいている。愛嬌のある顔は水にふやけ、膨れ上がってしまていてひどい有様だ。服を着ていない彼女の体は、生きている頃にはきっと美しかったのだろう。今は見る影もなく、澱みきってしまっていた。

 ――なんてことだ。

 同族の死骸は何度となく見てきたが、人間の死骸を見るのは初めてだ。大きさが違うだけで、猫も人間も同じ肉塊だろうと思っていたが、そんなことはなかった。見ず知らずの人間ならなんの感情も持たなかっただろうが、彼女には少なからず恩がある。ほんのわずかな時間だが、私を心地良くしてくれたあの愛撫。些細なことかもしれないが、恩は恩だ。

「隣のキヨタさんのことなんですが――」

「隣?」

 明らかに男の声に動揺が走った。

「そうです。キヨタさんについて少しお話を伺いたいのですが」

「知りませんよ。隣の人とは話もしたことがない。なにも知りません」

 ――嘘だ。

 この部屋で死んでいるのだから犯人はお前以外あり得ない。

 このまま逃げおおせると思うなよ。男には食事の恩があるが、さっきの毒とサエコの件で帳消しだ。それどころか、一転して仇となった。

 なぜ殺したのか。彼女をこんな姿に変えておいて何日もどこでなにをしていたのか。なぜ私にまで毒を持ったのか――。

 浴槽から音を立てずに飛び降りると、濡れた尻尾を振って水分を飛ばした。相変わらず男はドア越しに見えない相手と会話をしている。どちらも往生際が悪い。

 さて、どうやってドアの向こうにメッセージを送ろうか――。

 大声で鳴いたところで、男は私を捕まえに躍起になるだろうし、ドアは開かない。どうにかしてドアを開いて、彼女の変わり果てた姿をドアの向こうの連中に見せてやらなければ彼女がいたたまれない。早くあの冷たい水たまりから解放してやらなければ。

「隣の人を知らないのなら、猫のことはどうです?」

「ね、猫?」

 私の耳もピンと反応した。

「ここら辺で最近起きてる猫の変死体の話ですよ。その件でもあなたに話があるんです。いい加減ドアを開けてくれませんか。そうしないと強引に開けることになりますよ?」

 男は何も答えず頭を掻き毟っている。明らかに苛立っている――というより追い詰められているといったところか。

 私がなにもしなくても、男が捕まるのも時間の問題か。いくら籠城しても無意味のようだ。

 ――いい気味だ。

 この特等席で無様に捕まる姿を見学させてもらおう。嫌だ放せと並だと鼻水を垂らし、許してくれと懇願する姿を見れば、毒を盛られたことも忘れられるか。

 慌てふためく男を眺めながら、のんびりと毛づくろいをしていると――。

 男と視線がぶつかってしまった。

 男の顔はみるみるうちに紅潮し、口が魚のようにパクパク動いている。私はというと、足を上げて腹のあたりを舐めている途中で、なんとも間抜けな姿のまま固まってしまった。

 油断した。

 男があまりにドアの向こうに気を取られていたので、私もすっかり気を抜いてしまっていた。相手は猫を殺し人間を殺し、私まで殺そうとした相手だ。警戒を怠ってはならなかった。

「お前ぇー」

 男は大声を上げてこちらに向かって突進してきた。

 私が生きていたのが気に入らないのか。サエコを見られたことに腹を立てたのか。無様に焦る姿を野良猫如きに見られたのが許せないのか。

 理由などどうでもいい。

 目が合ったときは逃げることも頭によぎったが、こちらに向かってくるなら望むところだ。礼はたっぷりさせてもらう。

 男は私を捕まえようと両手を広げ向かってくる。狭い通路だ。横に逃げ場はない。

 私は真上に跳ぶと、男の頭上を飛び越えた。ちょうど腰を屈めて低い姿勢になっていた男の背中を踏み台にして、床に着地した。男は私の四足に蹴られた姿勢になり、加わった勢いを止められず、リビングの方へ倒れ込んだ。ゴミの山を滑っていく男は、「うげ」と妙な声を上げる。

「どうしました、マエヤマさん?」

 倒れ込んだ音はドアの外まで聞こえたようだ。これで外の連中が踏み込んでくるのも早くなることだろう。それにしても――。

 ――この七番目の飼い主だった男は「マエヤマ」というのか。

「この野郎」

 男が手元にあったものをこちらめがけて投げつけてくる。そんなもの当たる筈がない。右へ左へと難なく避けると、男の投げたものはドアや壁やらへ派手な音を立てて当たった。

「どうしました、マエヤマさん。ドア開けますよ」

 背後でガチャガチャとドアノブを動かす音がする。

 さあ、ドアが開くぞ。だが、その前に――。

 私は尻尾を立てて戦闘態勢に入った。散らかったリビングでふらふらと立ち上がる男めがけて、一気に走りだす。足を動かすたびに、カチリカチリと爪が床に当たる音がした。そして男の手前で力一杯踏み込んでジャンプする。

「ギニャアー」

 男の顔めがけて一振り。着地する瞬間、男の腕めがけてさらに一振り。

「うわっ」

 立ち上がったのも束の間、男は顔を押さえて床に転がった。両手で顔を覆って、唸りながら床を転げ回る。

 まだ気が済まない。

 追い打ちを掛けるように、男の後頭部めがけて、深く爪を振り下ろす。髪の毛を通り越して頭皮の感触が前足に伝わっってきた。さらに牙をむき出し、耳たぶに噛みついた。男の悲痛な叫びが心地良い。仕上げとして、背中に小便をひっかけてやった。さっきの失禁の礼だ。

 そこで玄関のドアが開き、どやどやと激しい足音が聞こえてきた。

「マエヤマッ――。なんだこれは」

 大きな体躯の男と私は目が合った。

 痛みで頭を抱えている人間の足元にいる野良猫一匹。彼にとって奇妙な光景なのだろ

う。

「サエキさん。風呂場に女の子が――」

 私と目が合ったまま、サエキと呼ばれた男は「ああ」と応えた。どうやら彼の相棒がサエコを見つけてくれたようだ。

「ニャア」 

 私はひと鳴きしてベランダへと出た。尻尾にサエキの視線をまだ感じる。

 毒を盛られたお返しはしてやった。あとは人間同士でやってくれ。こんなに人間に関わるのは、金輪際御免だ。

 衝立をくぐり、サエコの部屋のベランダへ出ると私はもう一度「ニャア」と鳴いた。 隣の部屋では、激しい物音と怒声が飛び交っていた。    

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