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野良猫と七人の飼い主  作者: 益次郎
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 室内を歩きまわる足音がする。

 物を置いたり、ドアを開け閉めする音。水を出したり、食器を触っている音もしている。久しぶりに彼の部屋に生活音が戻ってきた。

 何日も部屋を空け、しかも朝帰りとは随分と生活が変化したものだと感心する。

 彼の動向が気になっていた私は、私は挨拶のひと鳴きもそこそこに、ガラス戸を爪で引っ掻いた。こんな下品な行為をしたのは初めてのことだが、それだけこの数日間、彼の身を気にしていた証拠なのだろう。

何度ガラスを引っ掻いただろう。聞こえないはずないのだが、中からの反応は全くない。

 なるほど、もう野良猫の相手などしてられないか。

 やはり七番目の飼い主とは契約を解消なのだと、隣のビルに飛び移ろうかと構えたときだった。

 ガラリと勢いよくガラス戸が開いた。あまりの勢いに、私は思わず前足を踏ん張り、警戒態勢に入った。

 久しぶりに見る男の様子はどこかおかしい。

 朝帰りのせいなのか、落ちくぼんだ目は赤く充血し、表情はやつれている。いつも以上に頭髪は乱れ無精ひげも伸び放題で、前回会ったときとは別人のようだ。あんなにもサエコに対して生き生きとしていた表情は、見る影もない。

 男は仁王立ちのまま、私を見下ろしている。

 いつもとは違う男の様子に、私はしばらく固まったまま、男から目を離さなかった。

 どれくらい時間が経っただろうか。男は無言のまま、部屋に入り、なにやらごそごそと音を立てている。私はこの場から立ち去ろうかと思ったが、ここ数日気になっていたせいか、やはり姿を見せた男の動向が気になってしまっていた。

 やがて。

 男はいつもの茶色の椀を手にしてベランダへやって来た。中には混ぜ込まれたキャットフードが山盛りになっている。

 私は喉を鳴らした。

 ここに留まっていたせいで、ろくに食事をしていない。ベランダの手すりにやって来たスズメを捕まえてやろうかと思ったが、こんな狭いスペースではそれも叶わなかった。あざ笑うかのように飛び去ったあのスズメの顔を思い出すだけで腹が立つ。

 それほど久しぶりに七番目の飼い主から出された食事は魅力的だった。

 男は無愛想に私の目の前へ茶色い椀を置いた。

 すぐに飛びつきたい衝動を抑え、私は行儀よく座りなおした。男は私が食べ始めるのを待つかのように、じっとこちらを見つめている。

 と、そのとき。

 室内でチャイムの鳴る音がした。来客の合図だ。

 珍しいことが続くものだ。

 この部屋に来客なんて、私の知る限りでは未だかつてなかったことだ。サトコが部屋に来たことはわるが、彼女は勘定に入らない。この部屋には、郵便配達の人間すら来たことがないのかもしれない。

 チャイムがもう一度鳴る。

 男は、なぜかその場から動こうとしない。ベランダから室内を睨めつけ、握った拳が少し震えているように見える。額には汗を浮かべ、顔色も悪い。

 一体どうしたというのだろう。

 私は目の前に出された食事に口を付けるのも忘れ、男を観察していた。

「――さん」

 室内から微かに声が聞こえる。玄関のドア越しから声を掛けているようだ。さっさと出ればいいのになにをしているのだろう。こんな朝っぱらから何度もチャイムを鳴らして、近所迷惑も甚だしい。私は観察するのを止め、茶色い椀に盛られた食事をひと口含んだ。と、同時に男がようやく部屋に入っていった。

 ――さっさと平らげて、よそへ行こう。客が私を見つけて騒動するのも煩わしい。

 ひと口。もうひと口――。

 私はふと違和感を感じた。

 なにかおかしい。

 なにがおかしいのか。

 男の雰囲気が?

 いや、違う。そんなことではない。

 私は男の出した食事を咀嚼する。

 何度も何度も。

 私は前足で茶色い椀を思い切り蹴った。その衝撃で椀は音を立てて転がり、ベランダに中身をぶち撒けた。さっき食べたものが泥のような塊となって、灰色のコンクリートの上に広がった。すえた臭いが鼻を刺激する。

 それでも足りず、私は何度も胃の中の物を嘔吐した。その場にのたうち回るように嗚咽した。なんなら、胃袋ごとその場に吐き出し、水で綺麗に洗い流したい気分だ。あまりの苦しみに、目や鼻など至る所から水が流れ出し、とうとう失禁した。

 息を切らし、あらかた胃の内容物を吐き出したあと、ようやく私は落ち着いた。落ち着くと同時に、今起こった現実を頭の中で整理する。

 私のグルメな舌が感じたあの味。敏感な鼻が感じ取ったあの臭い。

 あの臭いを私は知っている。

 あの臭いを私は何度か嗅いだことがあるのだ。 

 まさか、という思いが頭の中を去来する。

目の前で苦しんだ黒ぶち。苦しみぬいてすでにこと切れていた三毛。彼らの嘔吐物から漂っていたあの嫌な臭い。胃液とは違った、悪魔の様なあの臭い。

 私はもう一度吐いた。もう液体は吐ききっていて、乾いた空気しか出てこない。どれだけ吐いても、まだ体の中に何かが残っている気がしてならない。恐怖で全身の毛が逆立つ。

「――どちらさん?」

 男の声が聞こえた。ようやく外の人間に応対し出したようだ。

 私は思い切り頭を振って、目前まで来ていた「死」への恐怖を取り払った。平静を取り戻し、室内の様子を覗う。

 恐怖を吐き出したあとに私の中に生まれてきたのは「怒り」だ。

 七人目の飼い主は私に毒を盛り、殺そうとした。

 理由などいらない。これまで受けてきた恩など知ったことか。私の飼い主、いや、あの糞ったれの人間は私に対して最大限の裏切りをして見せたのだ。

「――警察?」

 ベランダのコンクリートで爪を砥ぐ。引っ掻いてやらなければ気が済まない。客が来ているなど関係ない。あの冴えない顔に一生消えない傷でも付けてやる。

「何の用です?」

 ゆっくりと部屋に入る。男はドア越しに、なにやらやりとりを続けている。散らかり放題のリビングは足の踏み場もない。脱ぎ捨てられた服や食い散らかしたゴミを避けながら、男のいる玄関への通路へ向かう。なんとも臭い部屋だ。

「なにも知らないです」

 男の声が震えている気がする。

「ドアを開けてください」

「だからなにも知らないですって」

 やりとりの声が近づいてくる。もう少し。後ろから飛びかかって、不意打ちをお見舞いしてやる。目標かもちろん顔面だ。相手は経っているが、跳躍力には自信がある。

 男の背中が見えた。ドアにひっついて相手とやりあっている。なにやら震えているようにも見えるが、なにをそんなに怯えているのだ。私などついさっき死にかけたのだ。

 お前のせいで。

 後ろ脚に力を溜め、前足の爪を剥き出し身構える。

 くらえ――。

 ふと、私の視界になにかが飛び込んだ。リビングから玄関までの通路の途中、部屋のドアが開いていた。明かりは付いておらず、朝だというのに薄暗い。

「一度ドアを開けて話だけでも聞かせてくれませんか」

 気の削がれた私は、その薄暗い部屋へ引き込まれた。さっさと男に一撃をお見舞いして、こんな場所からおさらばすればいいものを。

 薄暗い部屋は風呂だった。体に水がかかるのは嫌いだが、私は風呂場へ一歩入った。

 嫌な臭いがする。部屋に入ったときのあの不快な臭いはここから来ているのか。目を凝らして見ると、目の前に棒がだらりと伸びている。

 浴槽から浴槽の淵からはみ出すように伸びた細い棒。棒の先は地面に向かって、さらに細いいくつかの棒へ枝分かれしていた。

 それは人間の指だった。

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