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どうも様子がおかしい。
いつものようにベランダでひと鳴きしてみるが、今日も音沙汰がない。
今日で四日目だ。
昨日は昼から夜眠るまでここにいた。それなのに、部屋の明かりが灯ることはなかった。朝方帰ってきた気配もない。
よそへ越したのかとも思ったが、カーテンはいつものままだし、その隙間から見える室内も相変わらず散らかったままだ。
私の七人目の飼い主が姿を消した。
こんなことは今までなかったことだ。いつでもひと鳴きすれば、男はガラス戸を開けて食事を持ってきてくれた。部屋を空けたことなど、私の知る限り一度もない。私のように世界をあちこち見て回るタイプではないと思っていた。
サトコの影響か。
異性との出会いと別れは人間の生活を一変させるようだ。
ミサエはパートナーを亡くし、毎年のように行っていた旅行にも行かず、家に引きこもるようになっていた。話し相手は私くらいなもので、ちょっとした買い物以外ほとんど家にいる生活だと本人が語っていた。
七人目の飼い主はその逆なのだろうか。
一日の大半をアパートの部屋で過ごし、友人と語らうこともなければ誰かが訪ねることもない。まるで私が来るのを待っているかのような生活を送っていた男が部屋を空にしている。隣のメスと出会ったことでなんらかの化学反応を起こして、男を行動的に変えてやったのだろうか。
なんにせよ、彼の人生だ。彼の人生が開けたのなら、それは喜ばしいことだ。食事がなくなったのは残念だが、七人が六人に減っただけのことだ。必要ならまた探せばいい。
「ニャウ」
私は男の部屋にひと鳴きした。別れの挨拶だ。ここを通ることはあっても、ここで食事することはもうないだろう。別れ際は潔くなければならない。
それにしても――。
ひとつ気になることがある。
私は衝立を潜り抜け、隣のベランダへ入り、サトコの部屋の前に立った。水色のカーテンがガラス戸を覆っている。
七番目の飼い主と同様、サトコも見かけない。やはり四日もだ。
ふたりで旅行にでも出かけたのか。
最後にふたりに会ったのはいつだろうか。
あの三毛の子猫が毒を盛られて死んだ日の六日後だったと思う。
一日に四匹もの死を見てから、しばらく人間との接触が億劫になっていた。彼らの死に様が目に焼き付いていて、自分の明日の姿と重ねてみてしまう。飼い主だから大丈夫、信用できるという思いはあったが、どうにも気が進まなかったのだ。最近、特に通い詰めていたミサエの家にさえも行っていない。彼女の身の上話も聞く気にはなれなかった。
七人の飼い主を放ったらかしにして、私は人気のない場所で寝泊まりした。まともな食事を獲っていなかったせいで、腹ペコになった私は、さすがにそろそろゴミ箱を漁るのにも限界がきていた。
ということで、私は七人目の飼い主の彼のもとへと来た。
その日は至って普通だったと思う。
久しぶりだなといって、食事を出し、いつものように素っ気なく部屋に戻った。
サトコは――。
姿は見かけた。
ただ、それは食事が終わって帰ろうかと衝立の下をくぐったときだ。水色のカーテンの隙間からこちらを覗き、小さく手を振った。それに私は「ニャア」と応えた。部屋を出るどころか、ガラス戸を開けもしない。彼女の心地良い愛撫を少し期待したのだが、それもない。隣部屋の私の飼い主がベランダ越しに声を掛けてくることもない。
あのときは気にならなかったが、よく考えれば少し様子がおかしかったのかもしれない。
私の飼い主もサトコも。
サンダルを持って隣の男の部屋から出てきた、あの楽しげな面影を微塵も感じなかった――気がする。
ふたりになにかあったのか――。
私は大きく伸びをした。
バカバカしい。
人間同士のことなどどうでもいいではないか。なにをそんなに気にしているのだ。
いないならいないで、さっさとこの場を離れればいい。七人目の飼い主とは別れの挨拶も交わしたことだし、ここはただの散歩コースの一つにすぎないのだ。
尻尾を振って踵を返そうとしたとき。
一筋の風が私の鼻先を擦った。
よく見ると、サトコの部屋のガラス戸が少しだけ開いている。普段なら見過ごしていたほどの狭い隙間が目の前にあった。ふたりの不在が私の興味を湧かせたために気付いた隙間である。
――なんと不用心な。
いくらここが三階とはいえ、メスの一人暮らしだ。悪漢というものは、目的のためならどうやってでも侵入しようとする。
きちんと戸締りをしないと、このように――。
私は体をよじって、ガラス戸の隙間に滑り込ませた。思った以上に重い戸だったが、私のスマートな体が入るほどには開いた。水色のカーテンをかわして、私はサトコの部屋へ足を踏み入れた。
ルール違反だ。私のポリシーに反するが、一度気になったものは仕方がない。彼女の部屋に入ったところで、二人の不在の答えが分かるとは限らないが、このままではどうにも気持ちがふっきれない。
今日の私はどうかしているようだ。
こんなにも人間の挙動が気になるなんて、産まれて初めてかもしれない。あくまで人間に対しては、自分の損得だけで動いてきた。食事という「得」があるならすり寄りもするし、それが見向きもしない。
今の子の行動になんの「得」があるというのだ。しかも人間の住まいに入らないというルールまで曲げて。
フローリングのひんやりとした感触が肉球から伝わって来る。誰もいない部屋は、当然のように静まり返っている。七番目の飼い主の部屋と違って、さっぱりとした室内は物が少なく、きちんと整頓されている。
私はリビングを抜け、玄関に向かう廊下へ出た。玄関にはスニーカーやブーツが綺麗に並べられていた。
私は「ニヤー」と鳴いた。
応答はない。
部屋の中を目的もなく散策していると、私はふとしたことが気になった。
――サンダル。
隣の部屋のベランダに来るために彼女の持っていたサンダル。
私に会うためにわざわざ持ってきたサンダル。
色は確かピンクだったか。
小走りで玄関に戻り、並べられた履物を見回しても見当たらない。入ってきたガラス戸の辺りを探してみたが見当たらない。
あのサンダルで出かけたのだろうか。
単に履物が見当たらないだけなのだが、妙に引っ掛かる。
さっさとここから離れて、別の飼い主に食事を貰いに行けばいいものを、私はサトコの部屋にちんまりと座って、無為な時間を過ごした。
やがて陽は傾き、室内に闇が訪れた。
いつの間にか、私はサトコの部屋の真ん中で眠ってしまっていた。鍵が開けば、すぐに逃げ出そうと思っていたのだが、物音ひとつしない。彼女のことだから、勝手に部屋に入っていても、怒ることはないかもしれない。不思議なことに、会えないことが彼女の心地良い愛撫の懐かしさを増長させ、あの暖かい手が恋しくなっていた。
再び眠りに落ち、外が白々と明るくなってきた頃、私はかすかな足音で目が覚めた。 耳をそばたて、音のする方へ意識を向ける。
玄関先――廊下から音がする。いや、この音は下から近づいてくるのか。誰かがこの階に向かっているのだ。
音は少しずつこちらに近づいてくる。
コツコツ――。
そして。
ガチャリ。
鍵の開く音と共に、私はベランダへと駆け出した。
ようやく七番目の飼い主がお帰りのようだ。