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野良猫と七人の飼い主  作者: 益次郎
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 今日の私は実に気分が悪い。

 よくないものを食べたとか、私の縄張りを侵す生意気なドラ猫がいたとか、そういう次元の気分が悪いとは違っている。

 朝の目覚めはいつも通りよかったし、朝食は魚屋の裏でくすねた新鮮な生魚を美味しく頂いた。

 一日のスタートとしては順調だった。

 朝食を済ませた私は、腹ごなしを兼ねて散歩がてら近所を歩いた。何年も住んでいる町だから、なにがどこにあるか、ある程度は把握している。猫同士の暗黙の縄張りもあるが、私はそんなことは気にしない。今、私がその場所で寝たいと思ったならば、そこで寝るだけだ。気に入らないと文句を言ってくるならば、いつでも相手になろう。

 ミサエの家の縁側でのんびりしようかとも考えたが、あまり人間に慣れ合っていると、他の連中から舐められてしまう。あの黒毛は人間にうまく取り入って、まるで飼い猫ではないかと思われるのも気に入らない。子猫ならばまだしも、ある程度成長した同族たちにとって、野良から首輪を付けて拘束された飼い猫になることは、転落を意味する。町で見かけようものなら、いい笑いものだ。

人間の家でぬくぬくと育てられた連中よりも、自由でその日一日を生き抜いている我々の方が気高いのだ。

 とにかく、そこまでは順調だった。

 気取ったメス猫を見つけ、その色気たっぷりの細い尻尾を追いかけていたときだ。

 激しい金属の摩擦音が辺りに響いた。私の視線は、メス猫の尻からその大きな音のした方へ向かった。

 嫌な予感がした。

 そこは住宅街の裏道で、人通りもそんなに多くない場所だ。我々にとって、そういう邪魔な人間の往来が少ない場所は寝床の選び放題である。だが、そういう場所はある種の危険も伴っていた。

 大きな鉄の塊。

 保健所や我々を毛嫌いする人間よりも危険な存在。

 我が物顔であらゆる場所を闊歩する四足歩行のあいつら。

 音のした方へ歩を進めると、案の定、それはそこにあった。

 舌をだらしなく出し、ぐったりと道路の真ん中に寝転んでいる同類。

「ニヤオ」

 私はため息にも似た声を上げた。

 ――またか。

 あの鉄の塊――車という悪魔に、また一匹殺された。あいつらは目の前の我々を空き缶のように蹴飛ばして行く。それも猛スピードで。

 我々も馬鹿では無い。車の往来が多い大通りを横切るときは細心の注意を払う。目的地へ向かう途中でも、車がやってくればすぐに避けるし、近くに人間が来ればすぐに立ち去る。反射神経とスピードは人間に負けはしない。

 だが、悲しいことにその判断を間違うものも出てくる。

 その咄嗟の判断を、誤った方向へ向けてしまうこともある――その結果がこれだ。

 人や車の行き来が少ない場所では油断しやすい。しかも相手の車は、そういう場所に限って、スピードを出している阿呆も多い。きっとこいつも運悪く、そんな阿呆に出くわしてしまったのだろう。

 足元に横たわった猫は口から血を流していた。だらりと伸びた後ろ足が、微妙に痙攣している。まだ微かに息があるのだろう。恐らくあの塊とぶつかった瞬間、いたる所の骨が折れ、内臓もやられてしまっているのだろう。彼の命が尽きるのも時間の問題だ。

「ニャオ」

 私は彼に哀悼のひと鳴きを捧げた。

 こんなドジを踏むという訳がないと思っていても、明日は我が身だ。彼の死が、私の緩みつつあった神経を再び尖らせた。

 そんな死を、今日だけで三匹も目撃してしまった。

 そのひとつは、道路とほぼ一体化するくらいにまで何度も踏みつぶされてしまっていた。誰も轢いた彼らを、どこか静かな場所へ移動させる行動をとってくれない。見ず知らずの野良猫であっても、死んでいる姿を見るのは忍びない。

 そんな光景を見かけると、非常に気分が悪くなり、人間という生き物に対する不信感が大きくなっていく。

 願わくは、私の飼い主たちがそういう人間ではないと信じたいものだ。 

 やはりミサエの所にでも行こうか。

 こんな気分の悪い日は彼女の家に限る。居心地のいい彼女の家の縁側に寝転び、彼女の身の上話を子守唄に眠る。そうすれば今日の嫌な光景も忘れることだろう。

 私はミサエの家に向かって歩きはじめた。

 学校帰りの子供たちが、私の姿を見つけて大きな声で呼んだ。黄色い帽子をかぶった彼らは、その小さな体――私にとっては大きいのだが――を揺らしながら追いかけてくる。私の体を撫でたいのはありがたいが、それでは逃げろと言っているようなものだ。だから私はさっさと歩を早め、ブロック塀の下へ姿をくらませた。背後で「行っちゃったー」と残念がる声が聞こえた。

 フェンスを乗り越え生垣を潜り抜けると、やがて路地裏の集会所へと出た。

 そこは何年も手入れのされていない雑草の茂った空き地で、材木や鉄骨の廃材が至る所に置かれ、四方には有刺鉄線が張り巡らされている場所だ。時々犬の散歩で人がやってくるくらいで、我々にとっては格好の場所である。集会場といっても、誰かが声を掛けて集まるというよりは、その日その時間に暇を持て余している奴らがふらりとやってくるという場所なのだ。

 あまり他人と連れ会うのを好まない私は、最近の野良猫事情を集めに通り過ぎるといったことが多い。今もミサエの家に行く道すがら、通り抜けていこうと思っただけだった。

 その空地へ足を踏み入れた瞬間。

 それまで集会場にいたのであろう猫たちが一斉に散り散りになって走って行った。各々が四方八方脇目も振らず、一目散にその場から去っていく光景は異様だ。

 私は恐る恐る空地へと入った。

 保健所の連中が野良猫狩りに来たか。それとも近所の悪ガキがいたずらでなにかを投げ込んできたか。

 あんなにも大勢が慌てて逃げる光景はこれまで見たことがない。

 いや。

 一度だけ見たことがある――気がする。

 そうだ。

 あの日。

 目の前で死んだあいつ――黒ぶちのあいつが目の前で苦しみ出した瞬間。

 そこにいた私以外の猫たち、はまさに蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ出した。私はその場に立ち尽くし、苦しみながら嘔吐する黒ぶちが息を引き取るのを苦々しく見つめていた。

 あの日と同じだ。

 ただ違うのは、今目の前に横たわっているのは、黒ぶちではなく、小さな三毛猫だ。幼い彼女は警戒心も薄く、目の前に出された食事に飛びついたのだろう。それに混入された異物があることも知らずに。

 今日、私が見る四匹目の死だ。

 なぜ人間はこんなことをするのか、理解に苦しむ。

 車に撥ねられたのならまだ納得できる。事故ならばこちらも用心すれば済む話だ。だが目の前で死んでいる三毛猫に対しては、明らかに故意だ。悪意に満ちた行為だ。

 すでに息のない彼女の体は、次第に腐敗しカラスたちに啄ばまれ、土へと返っていく。

 わざわざ毒を盛らずとも、この世界は弱肉強食の世界だ・放っておけば、勝手にしんでいくというのに。

 いつもなら、車に負けたお前が悪い毒に気付かないお前が悪いと、気にも留めないはずなのに、今日はやけに気分が悪い。私も年を取ったということだろうか。

 しばらくここの集会場も静かだろう。

 こんな悪い気分も眠れば忘れる。 

 私はミサエの所へは行かず、死んだ三毛猫の見えない場所で眠ることにした。こ

 

  

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