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男は上機嫌だった。
私がひとこえ鳴くと、すぐにガラス戸を開け、いつもの茶色い碗を差し出した。待ってましたと言わんばかりの勢いで、表情がこれまでより随分と明るい。
「ありがとうな、タロウ」
なにに対して礼を言っているのだろうか。私はそんなことも気にせず、黙々と出されたものを食した。
今夜は珍しく手作りだ。珍しくというより、初めてか。白飯に色々と混ぜ込んである。かつお節だけでなく、魚の身まで。どういう風の吹き回しだろう。カリカリとした歯ごたえだけの安くて味気ないキャットフードが大半だったのに、機嫌一つでここまでグレードが上がるものなのか。
「お前のおかげだよ、本当に」
男の頬は緩みっぱなしだ。こういう顔をするとき、オスの大半はメス絡みのことだろう。
なるほど。この間の一件のことを言っているのだ。
隣の住人とのあの一件。私を差し置いて会話していたが、あれが男にとっては良いものだったのだろう。
人間の美的価値はよくわからないが、この七番目の飼い主は、とても異性に縁がある性質とは思えない。あくまでも、これまで彼と接してきた私の感覚ではあるのだが。どの時間に訪れても部屋にいるし、ガラス戸の隙間から見える部屋も決して綺麗といえるものでもない。髪を整えているわけでもないし、なにより彼から覇気を感じない。まるで路地裏の隙間で、ただ生きているだけのような年老いた野良猫のようだ。
これまではそうだった。
男は私が食事をしている間、ずっとそばにしゃがみ込み、こちらに向かってなにか話しかけている。こんなに饒舌なのは初めてだ。着ている服も心なしか綺麗だ。髪の毛も、私の毛並みほどではないが、幾分マシに見える。
隣の住人と話ができたのがそんなに嬉しいものなのか。メスなんてものは、その時期がくれば選び放題なものなのに、人間ではそうはいかないのだろう。特に彼のようなタイプにとっては、人生の大きな転換期なのかもしれない。
私の存在がそれほどのきっかけになったのなら食事の礼にもなるし、言うことはない。結構なことである。美味い食事にありつけるのなら、喜んできっかけにもなろう。
「あ、タロウちゃん来てたんだ」
私が食事を終えて碗を舐めいると、弾んだ声が聞こえた。耳を立てて振り向くと、隣の女が衝立越しに覗いていた。
「こんばんは」
男の声も嬉しそうだ。
「こんばんは。そっち行くからちょっと待っててね、タロウちゃん」
パタパタと慌てた足音が遠くなった。
男は今にもスキップをし出さん勢いで、ガラス戸の向こうに消えた。分かりやすく態度に出る男だ。私を待ってたというより、本当の目的は彼女なのだろう。
待てといわれて待つ義理もないが、私は不思議に思いその場に留まった。
それにしても。
――そっちに行く? どういうことだ?
やがて女は男の部屋から現れた。ご丁寧にサンダルまで持ってきている。それを履いてベランダへ出ると、「タロウちゃんタロウちゃん」と私を撫でる。男はその後ろでそれを嬉しそうに眺めている。
たった数日でやけに親密になったものだ。男の部屋にわざわざ上がり込んでやってくるなんて。一人暮らしの男の部屋へこうもたやすく出入りできるということは、つまりそういうことなのだろうか。
「今度は私の部屋においで。ご飯用意しとくからね」
よっぽど猫好きなのか、私の撫で方も悪くない。「ここ」というツボを押さえている。しかし七人目の飼い主を放って隣に世話になるのもいかがなものか。八人目という案もあるが、場所が近すぎるし、あまり飼い主を増やしても、回るのが少々面倒くさい。
「今日はバイト休みだったんだね、聡子ちゃん」
男が女に声を掛けた。
なるほど、女の名前はサトコというようだ。それにしても私に話しかけるときよりも、男の口調は甘ったるくて気持ちが悪い。文字通り「猫撫で声」というやつだ。
「休みだよ。最近、タロウちゃんが来てないか外ばっかり気にしちゃって。大学から帰っても、すぐにベランダ覗いちゃう」
サトコは振り向きもせず、私を撫でる。私もあまりの心地よさに、仰向けになって腹を見せてしまっていた。
男とサトコ、年の差はいくつぐらいだろう。人間の年齢はよく分からない。ミサエくらい老いていれば別なのだが。
「またご飯食べて行く? 実家から色々送ってきてるんだ。ひとりじゃ食べきれないし――」
「うーん。でもこの間もごちそうになったし。なんか悪い気もするな」
「気にしないでよ。俺の練習にもなるしさ。新しいメニューの味見もしてもらいたいし」
サトコの迷いが私を撫でる指を通して伝わってきた。
七番目の飼い主も必死のようだ。言葉の端々に好意という匂いが漂っている。私は、もうひと押ししてみろよ、という気持ちを込めて「ニャオゥ」と鳴いた。人間同士の関係に首を突っ込むのはあまり好きではないが、今夜だけのサービスだ。私をきっかけに親密になったのなら、尚更である。
「タロウも食べていけって言ってるよ」
男は笑った。
「そうだなあ。バイト代までもうちょっとあるし、ごちそうになろうかな。タロウちゃんもおいでよ」
サトコはそういって私を抱えようと手を伸ばしてきたが、私は身を翻して距離をとった。
「部屋には入りたがらないんだよ、そいつ。いつだったか、土砂降りの日にずぶ濡れだったから『入るか』って、誘ってみたんだけどね」
その通りだ。
私は人間の住処にのこのこ入っていくことを好まない。この男に限らず、ミサエにしてもその他の飼い主にしても同じだ。四番目の飼い主が、無理矢理私を抱きかかえて家の中に入れようとしたときも、思わず爪を立てて引っ掻いてしまったほどだ。あくまでも人間とのラインを引いて、それ以上踏み込まないのが私の生き方なのだ。申し訳ないが、メス猫以外の誘いには乗らない。
「そうなんだ。じゃあ、またね。タロウちゃん」
顔を洗っている私に手を振り、サトコは部屋へ入って行った。
仲良くやってくれたまえ。
そうひと鳴きして、私はそろそろと寝床へと向かった。