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野良猫と七人の飼い主  作者: 益次郎
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 私はいつもの場所で鳴いた。

 私が来たことの合図である。部屋の明かりは点いているから、相手が気付いてくれれば食事にありつけるということだ。

 室内で物音がした。一度遠くなった足音は、すぐにこちらに向かって近づいてきた。どうやら気付いてくれたようだ。

「来たな、タロウ」

 ガラス戸が開き、男が声を掛けてきた。私はひと鳴きしてそれに応える。男はしゃがんでベランダに椀を置いてくれた。いつもの茶色の椀だ。だが、私は差し出されたものに無言で飛びつくようなことはしない。これでも礼儀は見に付けているつもりだ。もうひと鳴きして、礼を言ってから椀に口をつけた。

 美味い。

 路地裏のゴミ袋の食事より何倍も美味い。人間の食べ残しや、汁けの多い食材のあまりよりも。これに匹敵するのは、この間捕まえた生のスズメくらいだ。私は息つく暇なく食事に没頭した。

「美味いか」

 中身を平らげ、椀にこびりついた分まで舐めているところに男が言った。

 確かに、最初の頃と比べるとここでの食事の質は格段に上がっている。

 先に断っておくが、私から催促したわけではない。そんな物乞いの様なマネはしない。私にもプライドがあるのだ。

 あの日は雨だったか。

 濡れることにうんざりした私は、建物の合間を縫ってこのアパートのベランダへ辿り着いた。雨を凌げるならどこでもよかったのだが、ここで一息ついたのも何かの縁だったのだろう。私が顔を洗っていると、部屋のカーテンがシャッと開いた。もちろん私は飛び上がって警戒した。戦闘態勢までいかないでも、いつでもこの場から去れるような状態だ。

 私は確実にこちらに向かって飛ばされている視線を探した。すると、カーテンの隙間からこちらを覗いている目が見えた。ほんのわずかな時間、お互いの視線は交差し、探るような沈黙が生じた。

 ガラリ。

 私はガラス戸が開いた瞬間、この場から立ち去ろうと身構えた。捕まる様なヘマをしない自信はあったが、居心地の悪い場所に留まる理由もない。ここを縄張りにするつもりもなかったし、たまたま通りかかった雨宿りの場所というだけである。ところが、部屋の中の人間は私に近づく訳でも外へ出るでもなく、ガラス戸を少し開けたまま、かすかな足音を立て部屋の中へ姿を消した。

 ――ここにいても構わないということか。

 私は再び顔を洗った。体中雨に濡れているし、足にも泥がついてどうにも気持ちが悪い。私はそこら辺の連中と違って、綺麗好きなのだ。

 すると、室内の男がこちらに近づいてくる気配を感じた。顔を洗ってはいるが、常に回りに気を配っている。さっきと同様、私は身構えた。道具を持って私を追い払おうものなら、屁の一つでもかましてやるつもりだった。ついこの間も、箒で私を追い払おうとした中年女に、去り際、小便をひっかけてやった。あれは実に痛快だった。

 だが、どうも様子が私の想像していたものとは違った。

 カーテンは閉じたままだし、ガラス戸もほんのわずかしか開いていない。その僅かに開いたガラス戸の低い位置から、ゆっくりと手が伸びている。それは私を追い払うどころか、私に警戒されないように用心しているようだ。さらに、その伸びた手はベランダのコンクリートの上に小さく平たい皿を置いた。そして伸びた手が室内に引っ込むと、再びガラス戸が音を立てずにゆっくりと閉まった。

 ――なんだ?

 私は室内に警戒しながら、恐る恐るその皿へと近づいた。罠かもしれない。人間という生き物は狡猾でずる賢い。我々に対してどのような手を使っても、優位に立ちたいと思う救いようのない生物だ。そういう傲慢な連中を欺くのも楽しみのひとつだ。自分は賢いと思っている相手の悔しがる姿を見て、大笑いしてやるのだ。

 カーテン越しに男の存在を感じる。だが、私はそれを気にしながらも皿へと鼻を近づけた。

 ――ミルクだ。

 ほんのりと甘い家畜の乳である。私は舌を伸ばしてそれを口に含んだ。

 記憶の奥にかすかに残る母親の乳のそれには遠く及ばないが、悪くない味だ。大して喉が渇いていた訳ではないが、私の舌は止まらなかった。幼いころ以来のミルクは懐かしさも感じた。

 ふと室内に目をやると、カーテン越しに男の目が見えた。薄暗かったが、満足そうにこちらを見ている。

 私は彼に向かってひと鳴きすると、皿のミルクを飲み干した。

 それが彼との出会いだった。

その日から私は度々ここへやってくるようになった。雨宿りだけのつもりが、私の縄張りになってしまった。最初はミルクだったものが、残飯――彼の名誉のために「の様なもの」としておこう――に代わり、カリカリの専用飯となった。それは家にある残りものではなく、私のために金を出して用意してくれたようだ。そして今夜の食事はこれまでの中でも最高ランクのご馳走となった。

 満腹になった私が毛づくろいを始めると、男は「またな、タロウ」と言い残し、室内へと戻った。初めてあったときからいつもこうだ。私の体を撫でるわけでも話しかけもしない。私に指一本触れたこともないし、最初と最後の挨拶以外は愛想の欠片もない。こちらとしては、気を使わずに済むし楽で結構なことなのだが。

 私はカーテン越しに室内の様子を覗う。

 いつの間にか、彼は私に「タロウ」と名前を付けていた。なんと呼ぼうと一向に構わないが、人間というのもはどうにも名前を付けたがる生き物のようだ。

 私にはいくつもの名前がある。

 「ブチ」「シロクロ」「タマ」「ノラ」。中には「くつした」というなんとも奇妙な名前で呼ぶ飼い主もいる。そして「タロウ」だ――。

 私に親しい人間が勝手に付けた名前なのだから、お気に入りもなにもない。あくまで名前は私の飼い主たちを分けるための記号でしかない。

 私は路上で生活を続ける猫。

 黒く美しい毛と両前足の白い毛が魅力――とよく言われる――な、飼い主が七人いる猫である。

 飼い主がいるといっても、部屋の中で飼われている温室育ちの甘ちゃんでもなければ、首輪という煩わしいもので管理された従僕でもない。好きなときに好きなところへ行き、好きなところで飯を食い好きなところで横になる、私は自由気ままな存在なのだ。

 その飼い主の一人、一番新しい飼い主になった男の部屋のベランダに私はいる。

 相変わらず静かな部屋である。

 最初にミルクをくれた日も、雨音は激しかったが室内は静かだった。明かりは点いているし、時々光が点滅しているからテレビでも見ているのだろう。カーテン越しからは、男がなにをしているのかもわからない。

 そもそも私は彼の名前を知らない。

 電話で誰かと話しをしているのを聞いたこともないし、友人が訪ねてきている所に出くわしたこともない。これだけ足しげく通っているのに、彼の発する言葉は私に向けたわずかな挨拶だけである。私はその声に返事をすることが出来ないから、彼はほとんど独り言を言っている様なものだ。だから彼が名前を呼ばれる場面に出くわしたことが無いから、私は名前も知らない。

 彼は孤独な男なのだ。

 私と違って。

 今夜もまた、彼が眠りにつくまで室内は静かなままだろう。      

 


 

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